二 懸念
朝日が昇る前。木々と鮮やかな緑に囲まれた山の麓に出来上がった巨大な円形の湖の前で眠っていたナチとイズは唐突に起こされる事になった。
支子色の少女に起きた異変によって。
ナチとイズは、簡易的な草ベッドの上で苦しそうに唸っているマオを心配そうに見つめていた。「ぶっ飛ばす……」や「死ね!」などと心中穏やかではない言葉が次々と飛び出してくるせいなのも関係していた。
ナチとイズは何度も顔を見合わせ、起こすべきか悩んだ。寝ているというのに眉間には皺が寄り、舌打ちを幾度となく鳴らす。拳で何度も地面を殴るなどの挙動も見られるようになった。
レヴァルでの戦闘後、ずっとだ。ナチが意識を取り戻したのは戦闘が起きた十日後。その後にレヴァルの復興を数日だけ手伝い、レヴァルを離れて早三日。彼女は睡眠を取ると毎回この調子だった。
夢の中でマギリという少女と修行をしているのだ、という話はマオからもマギリという少女からも既に聞いてはいた。眠っている間中はずっと修行している事も。それに夢の中だからどれだけ致命傷を受けても死なないから安心してほしい、と言われてもいる。現実世界で不都合が起こることは無いとも。
だが、毎晩こうして彼女は唸っている。日に日に狂暴になっている様な気さえする。本当に大丈夫なのだろうか、とナチとイズは憂苦するあまりマオよりも必ず早く起床し、彼女を観察するという行為を繰り返していた。
眠れてはいるので二人とも睡眠不足ではないのだが、心配は絶えない。レヴァルで彼女が毒に倒れてから、二人とも神経質になっているのだ。
マオを助ける為に必要だった解毒薬を破壊され、一度は彼女の死を受け入れたナチとイズ。けれど、マギリという少女の出現によって、マオは奇跡に助かった。本当に奇跡だった。普通ならば、あのままマオは死んでいた。毒によって、マオは文字通り毒殺されていたはずなのだ。
マオが助かったのは本当に、奇跡。そして、それはこれから何度も起こりはしない。奇跡というのは究極の偶然だ。意図して起こせる現象ではないし、意図して起こせる現象を奇跡とは言わない。
次は無いかもしれない。次は助からないかもしれない。そんな憶測と疑念が二人の思考を支配し、最悪の記憶を二人に追想させる。彼女が吐血し、顔を血で真っ赤に染め上げ、ナチに力無く手を伸ばした光景を。
あんな光景はもう二度と見たくない。だから、彼女が譫言で何かを言う度にナチとイズは影駭響震してしまう。彼女の体には毒がまだ残っていて、それがまた彼女の体を侵しているのではないか、と。
「起こした方がよいのではないか? 本当に修業しておるのか怪しいぞ」
「ただの修行中かもしれないよ? 修業とは思えない様な暴言ばっかり吐いてるけど」
とは言いつつもナチは傍らに置いてある、木を「大気」で固定し、外側を土で塗り固めただけの簡素な作りの桶を見た。中には湖から汲んできた水が入っている。濾過も済んでいるので飲み水としても使用できるし、このまま洗顔にも使える。マオの顔に掛ければ、叩き起こす事も出来る。
だが、ナチとイズは起床してから小一時間二の足を踏み続けていた。譫言で言っている言葉は修行していると思える様な言葉ばかり。悪夢や毒にうなされている様には見えない。
「もしもの場合もあるではないか」
そう。事態はマオの夢の中で起きているのだ。もしも、という場合も無きにしも非ずだ。結局、二人はまずマオの肩を数回叩いて起床させようとしたが失敗。手を払い除けられる。次に体を揺らしてみたが手を叩かれ、またも失敗。
本当は起きてるんじゃないのか、と思いつつ、ナチはついに水が入った桶に手を伸ばした。
「ごめん、マオ。恨むならイズを恨んで。イズに脅されたんです」
右手を桶の取っ手に。左手を桶の底に添える。あとは勢いよくマオに水を掛けるだけだ。ナチは喜色を押し隠した様な表情で桶を持つ手に力を入れる。
「お前も共犯だぞ」
小さな腕でナチの足を殴っているイズを軽くあしらうと、ナチは両手を後方に移動させる。桶が傾き、水も傾いた。そして一気に前方に押し出そうとした瞬間、マオの瞳が勢いよく開目する。
「えっ? 嘘でしょ?」
ナチは前方に押し出そうとしていた桶を急遽、上空へと投げ飛ばす。体勢を崩し、無様にも地面に尻餅をつくと、上空を舞う桶の口が丁度ナチの直線上に重なり、下方向へ向いた。
水の塊が視界を埋め尽くす。噴水が天井から地上に噴き出しているかの様な光景にナチとイズは口を大きく開けて、刮目していた。間抜け面をしていると思う。
ナチとイズが水浸しになる覚悟を決めたその時、マオが素早く右手を水に向けて伸ばした。手の平から出現するのは極寒の冷気。真っ直ぐに水に飛行していく冷気は、ナチとイズに水が掛かる直前で氷結。
急速に固形化していく水は透き通る透明な氷へと一瞬で変化し、空中で凍結した氷は次々にナチの上に落下しようとする。落下したとしても大事にはならないと分かってはいても、ほとんど反射的に体は動いた。
ナチは両手で頭を守り、背中を丸めた。空中で氷が弾ける音が早朝の森に響き渡る。その破砕した氷の破片が背中にパラパラと落下を始め、細雨が背中に降り注いでいるかの様なこそばゆい感覚だけが背中を通して全身に伝わってくる。
そして、最後に投げた桶がナチの後頭部に激突した所で、マオの笑い声が聞こえてきた。ナチは少し涙目になりながら、後頭部を擦る。巨大なたんこぶが出来ている。
「人に水を掛けようとした罰だよ、お兄さん。反省しろ」
ナチは苦笑いを浮かべながら立ち上がると、頭に乗った無数の氷片を犬の様に頭を振るい、払った。今も簡易草ベッドの上で座るマオを見る。
「マオが水を飲みたそうにしてたんだよ。感謝して」
「そんなしょうもない嘘ついてどうすんの」
ケラケラ笑いながら、マオは立ち上がり、体を伸ばした。両腕を伸ばし、目を閉じる。それから、盛大に欠伸を漏らすと、彼女は湖の方へとナチの左腕を引っ張ると同時に歩いて行く。
ああ、とナチはマオが自分に何を求めているのか、すぐに理解する。ナチは右手でコートのポケットに手を突っ込むと、それに属性を付加。「水」。属性を付加した符を湖に投げ飛ばすとナチは属性を具象化。
水面に符が触れた瞬間に水と符は噴火したかの様に上空へと押し上がり、符を中心に水は収束していく。魚や草などは収束する過程で跳ね、純粋に水だけを上空に押し上げていく。
ナチは霊力を放出し、水に含まれる微生物、菌を除去。水分中から押し出し、空気上に弾き出していく。そして、その濾過が済んだ水を桶に注いでいく。
「何度見ても便利な術だよねえ、符術って」
飲み水の誕生に満足そうに頷くマオは豪快に水を飲んだ。
「いや、そうでもないんだけどねえ。この属性に関しては」
空気中の水分を符に集め、さらに酸素と水素を無理矢理に結合させ、水分子を生み出す。そうする事で自発的に水を生み出す事も可能だが、如何せん燃費が悪い。それに大規模な水素爆発が起きる可能性も高まり、大変危険。武器としての応用は十分に可能だが、戦闘中に起きる静電気や熱などで酸水素爆鳴気が発生し、自爆しかねないという危険性も持っている。
よって、基本的に「水」の属性の使い道は飲み水や生活用水などの確保など、日常的な事にしかほとんど使えない。湖や海、川などの膨大な量の水が存在する場所で使えば、水を生み出す過程が省かれる為に燃費も向上はするが、基本的には使い所が限られる属性なのだ。
「ま、お兄さんのおかげで水や火には困らないんだし、謙遜しないしない」
「そうだな。戦闘に活かすだけが能力の神髄では無かろう。ナチのおかげで温かい食事にありつけるのだから、もっと胸を張れ」
「……何か照れるなあ」
ナチが襟足をガシガシと掻いていると、マオとイズが地面に落ちた魚を捕まえだした。先程、ナチが湖の水を押し上げた時に、水と一緒に陸に上がってきた魚だろう。
「さ、お兄さんの機嫌を取った所で朝ご飯にしますかね。火」
マオは捕まえた魚を捌く為に茶色のリュックサックからナイフを取り出した。年季が入ってはいるが、刃こぼれしていない手入れが行き届いたナイフ。
「……頼み方が素直過ぎませんか?」
慣れた手つきで魚を捌き始めたマオから離れ、ナチは枝や枯れ草などを拾い集めていく。イズに手伝いを求めて視線を送るが「我は火など必要ない」と先に食事を始めてしまったので、応援は無い。
ナチはせっせと枝と枯れ草を集め、鱗を取り、内臓を抜き終えた魚を長い木枝に突き刺しているマオの下へと駆け寄っていく。
土の上に葉や小枝をこんもりと敷き、その上に細い枝を。そして徐々に太い枝を円錐状に重ねていく。
焚火の準備が整った所でナチは符に属性を付加「火」と「大気」。その中心に符を入れ込むと属性を具象化。枯葉に着火した火が少しずつ枝に燃え移っていく。火が消えない様に酸素を注ぎ込み、他の木や草に燃え広がらない様に酸素を調節する。
マオは笑顔でナチに礼を告げると、枝に突き刺した魚を焚火の側に置いていく。計四本。それを眺めながら、ナチとマオは焚火の前に隣同士に座ると魚がこんがりと焼き上がるのを待つ。
「イズさんもたまには焼き魚、食べてみたら? 生魚食べてるイズさん怖いし」
既に食事を終えたイズは、ナチとマオの間で静かに火を見つめていたが、マオが質問すると、静かにかぶりを振った。
「焼き魚は苦手なのだ。それにこの体だからな。あまり多量に食べられはせぬ」
「そっか。じゃあ一口だけね」
「話を聞いておるのか、お前は?」
イズが呆れたようにマオに言う。「駄目だよ。朝ご飯は一杯食べないと。大きくなれないよ」と誇らしげにマオは口にしたが、イズは強まった呆れを溜息と共に吐き出した。
「我はもう成長はせぬ。その分、お前がたくさん食べろ。太らぬ程度にな」
マオの表情が固まった。魚を裏返そうとしていた手が空中で不自然に止まっている。イズはマオの脇腹に触れる。そして、静かに揺する。歪に口角を歪ませながら。
「ナチと旅をするようになって、お前は食べる量が増したのではないか? 分かるぞ。我には分かる。お前は少し肉付きが」
マオの目付きがみるみる鋭くなっていく。青い瞳に明らかな怒気が灯る。マオは無言でイズを持ち上げると、猛々しく燃え盛る焚火にイズを近付けていく。ナチが「まあまあ」と助け船を出そうとすると口角だけが歪に吊り上がった笑みを、マオはナチへ向けた。
その笑みに、ナチは言葉を飲み込むと同時に視線を焚火に逃げる様に移動し、魚の焼き加減を確認した。静かな現実逃避。「そろそろいいかなぁ……」と付け足し、ナチは心の中でイズに謝罪した。
僕には無理だ……。
「わ、悪かった。お前は多少肥えても可愛いぞ」
「それフォローになってないし! 気にしてるのに!」
マオの腕が急速に伸び、イズの体が急速に火に近付いていく。黒い毛並みが仄かに橙色に染まり、赤い双眸に燃え盛る焔が映り込む。イズの顔が引き攣っていた。必死に後方に体を仰け反らし、恐怖に耐えかねてナチに救いを求めて視線を飛ばし始めている。
その視線に応えるようにナチは焚火の側に刺さっている魚を手で素早く掴むと、マオにそれを差し出した。
「マ、マオ! 魚、焼けたから。食べよう。ね?」
さすがに無視する事が出来ず、ナチはマオの肩を叩きながら、イズを火から遠ざけていく。マオは小さく頷くと、ナチにイズを渡し、代わりに魚を受け取った。
こんがりと焼けた魚の香ばしい匂いにマオは顔を綻ばせ、豪快に魚に齧り付く。見ていて気持ちが良くなる豪快っぷりに、ナチも顔を綻ばせる。が、イズは顔を震わせながら、ナチにしがみ付いていた。
「我はもう乙女の体型をからかったりはせぬ。二度と……」
今生の誓いの様に唱えたイズは怯えを瞳に宿したまま、焚火の日を見つめ続けていた。




