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二十六 死を司る天使とピエロ

「強くなりたいんですか? どうして?」


「俺もナチやマオみたいに、誰かを守る力が欲しい。大事な人を守れる力が欲しいから」


 シキの言葉を聞いた男は更に口端を上げていく。うんうん、と頻りに頷き、不自然な程に喜色を浮かべる。


「そうですねえ……」


 男は箱に入った注射の内から紫の液体が入った円筒を取り出すと先端から突き出ている極太の鋭針を指でなぞった。


「注射ってご存知ですか?」


 シキは首を横に振る。知らない単語だ。「この世界はかなり文明が遅れていますからねえ。無理もないか」と苦笑しながら、男は手に持った筒をシキに向ける。針に開いた小さな空洞にシキの視線は吸い込まれ、釘付けになった。


「まあ簡単な話、これを体に刺して、体内に直接薬を入れるんですよ。エリルちゃんに処方してもらっている粉薬や丸薬よりも、すぐに薬の効果を発揮させることが出来ます」


「そう、なのか。危険じゃないのか?」


「危険ではないです。私も薬師なんですよ、これでも」


 誇らしげに言う男は最後に「どうします?」とシキに返答を求めた。シキは迷いなく首を縦に振る。ここで承諾しなければ、こんな機会は二度と訪れない。強くなる機会はもう二度と現れない。薬だろうが何だろうが強くなれるのならば、それは強さだ。強くなった過程に努力は存在しないけれど、最終的な結果が最強ならば問題は無い。


 報われない過程に固執するよりも確かな結果が目の前に存在するのならば、シキはそれを掴む。それだけだ。


「では、少しチクッとしますよー。初体験は暴発しがちな感じと似てる痛みです」


 男は優しい表情を浮かべると猛烈な勢いでシキの右の首筋に注射器を突き刺した。極太の針が喉に突き刺さると同時に激痛。その耐え難い痛みで一瞬、呼吸が止まる。


 何をしているんだ、この男は。


 空気が口から漏れ、シキは呻いた。痛い。針が奥へ奥へと入っていき、何かが注入されていく。冷たい何かが、体を侵食していく。


 シキが不安を込めた視線を男に向けると男は相変わらず笑顔を浮かべ、平然としていた。冷静にシキが呻く様子を眺め、沈着している。


「駄目じゃないですかあ。嘘をついたりして」


「う……そ?」


「あなたは大切な誰かを守れる力なんて望んでいないでしょう? あなたが欲しいのはナチ君やマオちゃんみたいな、誰かを完膚なきまでに叩き伏せる圧倒的な力。誰もが畏怖し畏敬し、尊敬する。そんな暴力でしょう?」


「ちが……」


 男は注射器を引き抜くとそれを右手で掴んだ。中身が空になっている。内包された中身は全てシキに注入されたという事になるのか。その注射器をポケットにしまうと男は開いたままの箱へと寄っていく。


「違わないですよ。人は尊敬されたい、慕ってほしいという願望を持っています。男の子ならば英雄願望を一度は抱く。女の子ならばお姫様になりたい、などとね。無論、私も同様です。お姫様になりたいと思っていた時期がありました」


 全身に熱が宿っていく。全身に激痛が走り、目の前の景色が分裂する。複数に見える。全てが灰色に変わっていく。耳に届く音は聞き取れないほどに雑音が混じり、不快音として耳に残り続けている。耳を押さえても聞こえる甲高い音にシキは歯を食いしばった。


「けれどそれは、悪いことじゃあない。人は評価されたくて努力をするし、尊敬されたいから徳を積む。人は程度は違えど、自己承認欲求を持っています。だから、シキ君が抱く感情はなにも不自然ではないですよん」


 箱を閉じた男はそれを右手に持つと、宙に剣を出現させた。黒い剣。ナチとマオと戦闘をしていた際に行使していた黒い短剣。


「それは『エヴォリン《タイプ:サマエル》』。君の理想の力は残念ながら手に入りませんが、圧倒的な力は手に入ると思いますよ。暴力的で誰からも畏怖され畏敬され、嫌厭される疎ましい力がね」


 男の体を何かが包んでいく。灰色の何かが包んでいく。悠揚とした態度と表情でシキを見下ろす男は薄目でシキを射抜き、薄く開いた瞼の奥に哀憐を滲ませる。


「あ、それと僕は薬師ですけど毒薬専門なんで。見ず知らずの男なんて簡単に信じては駄目ですよー。ばーかばーか」


 灰色の何かに抱擁された男は、灰色が解き放たれると姿を消した。目の前から人が消え去り、残ったのは灰色の雨。冷たくはないし、濡れもしない。この雨の正体は判然としないが、シキは全身を襲う激痛に耐えかねて、膝を地面に着いた。立っていられない。筋肉が痙攣し骨が軋み始める。


 五感も正常さを失っていく。より研ぎ澄まされ、鋭敏になっていく。急速に発達していく五感に思考が追い付かない。全身を包んでいた激痛、高熱が急速に背中に集中していく。背中全域に鈍痛が走り、高熱が襲う。火で直接炙られているかの様な大熱に、シキは涎を垂らしながら叫喚呼号を繰り返す。


 筋肉を、皮膚を、何かが突き破ろうとしている。外界に出ようと全力でシキの背中を喰い破ろうとしている。一層の事、早く出てくれ、とさえ思う。この痛みから解放されるというのならば、さっさと外に出てくれ、と。


 そして背中を喰い破ろうとしていた何かはついに姿を現した。激痛と共に現れたそれをシキは視界に入れる。


 十二対の翼。シキの上背を優に超える大きな羽は、鳥の様な羽根を無数に連ね、翼をはためかせる度に羽根を地面に舞い散らせる。


 絶句。息を呑む。


 何故、俺の背中から翼が生えている……。


 その理由を知ろうにもあの男はもういない。ここにはシキしかいない。答えを与えてくれる人物はここにはいない。


 どうなってんだ……。俺はどうなる。


 血に濡れた巨大な翼が、シキの意思に反して羽ばたき始める。律動する翼が周囲に羽根を撒き散らし、山道を羽根で埋め尽くしていく。


 翼がはためくたびにシキの体に激しい痛みが襲い、口から零れる唾液に血液が混ざり始める。体が壊れていく予兆。壊れた部分を恐ろしい何かが埋めていく感覚。自分が人じゃなくなっていく実感。自分が化け物になっていくのが分かる。体の細胞が、神経が、別の何かに塗り替えられていく。性別は既に消失し、肉体が記憶するシキという断片が希薄になっていく。


 記憶も、感情も、個性も、シキという人間がこの体に刻んだ証が次々に浮かんでは弾けて消える。無くなっていく。


 ウェルディ……。


 最後に弾け飛んだ記憶の断片。最愛の少女の名前が忘却され、完全に消失した瞬間にシキという人間の肉体は塗り替えられる。シキという男を塗り替えていく別の遺伝子。別の因子。別の思考。


 生まれる。新たな生命が。神の毒、神の悪意の意味を持つ死を司る天使、サマエルが。


 金色の翼をはためかせ、空を舞う。激痛と高熱に支配されていた体は羽根の様に軽快で、色彩を映し出す瞳は真っ直ぐにレヴァルを捕捉する。戦禍の中心で祝杯を挙げている人々を鮮明に捉える。


 抱くのは純粋な殺意。殺したいという強い思念が、サマエルを衝き動かす。名を知っている人間は存在しない。彼等に対して悪意も嫌悪も抱きはしない。けれど、そこに人が存在するのならば殺す理由になる。全ての生命に死を与える必要性が出現する。


 そうしてサマエルがレヴァルに向かって急降下しようとした瞬間だ。体の制御が急速に何者かによって奪われる。四肢も、体も、翼も、全てサマエルの支配下から解き放たれる。だが、地面に落ちる直前で何とか翼の制御を取り戻し、急上昇。その急上昇中に捉えた景色の中でサマエルは興味深い物を見た。


 空へ舞い上がる直前に見えた、一人の少女が向けてきた視線。水色の長い髪をした美しい少女。


 その少女の視線を浴びた瞬間に胸が痛んだ。涙が勝手に溢れ出した。胸を締め付け苦痛を与え続ける、この感情は何なのか。切なさか、悲しみか、寂しさか。言葉を羅列してみるが、どれも正解には程遠い。記憶する全ての単語を照合するも、適切な単語には遭遇しない。


 つまり、この痛みはサマエルが知らない感情。


 サマエルは空中で静止すると水色の髪の少女を捕捉する。そこに存在する全ての人間がサマエルを見て呆然とし、驚愕しているのは別段気にはならない。が、あの少女に異形を見る様な怪奇的な目を向けられると何故だか胸の痛みが増大する。心臓が締め付けられているかの様な強い圧迫感を覚える。


 けれど、心拍も脈拍も問題は無い。心臓に異常は見られない。他の臓器も問題は無い。脳波、電気信号も正常。だというのにこの痛みは何だ。正体不明の惨痛。毒や菌の類が体内を徘徊している様子はないというのに心臓を圧迫している謎の症状。


 この痛みの正体を知るにはどうすればいい。誰が知っている? あの群衆の中か? 


 どいつが知っている? あいつか? それともあいつか?


 いや、あの少女を殺せば終わる。痛みの原因を取り除けば、症状は治まる。病気と同じだ。


 サマエルは十二対の翼を大きく羽ばたかせると二度目の急降下を始める。急降下すると同時に聞こえてくる複数の悲鳴。どよめき。それらは高速で移動した際に発生する風音によって、すぐに聞こえなくなる。


 サマエルは翼を伸ばし、十二対全てをサマエルの体と平行にする。


 翼自体が高度な空力制御を行う役割を持ち、飛行速度を上げる度に増大していく空気抵抗を低減。加速し続けるサマエルは、地面に高速で落下すると、地面と平行に飛行する。群衆に真っ直ぐに突っ込んでいき、銀色の鎧を纏う男達を次々と吹き飛ばし、物憂げに立ち尽くしている水色の少女に向かって、右腕を突き出した。


 心臓を突き刺す為に伸ばした鋭い貫手。高速で放たれた突き。それは少女の体を意図も簡単に貫くほどの速度と威力を持った神速の突き。


 だが、それは阻まれた。あっさりと。何の苦労も無く。右手首を万力の様な力で掴まれ、右手首を振り解こうとしてもビクともしない。何という膂力。


 サマエルは焦燥に駆られる事も特に恐慌する事も無く、右手首を掴んでいる屈強な道化を見つめた。


 ピエロの格好をしている筋肉質な男を。


 常に笑顔を浮かべる白塗りの仮面を装着し、黄色や白、赤と青の色合いの仮装衣装。赤色のアフロの様なウィッグはサマエルの手を掴んだ瞬間に風に運ばれて消えていった。その代わりに露わになる緑色の短髪。


 そして、サマエルを掴んでいるピエロの右手。白手袋に隠れてはいるが感触で分かる。この右腕は金属で出来ている。右手首に伝わる硬い感触は少なくとも生身の右腕ではない。けれど、限りなく人の腕に近い感触と可動をしているとは思う。


「離せ」


 サマエルは淡々と言った。その声に水色の少女が目を見開き、口元に手を当てる。全身が振動し始め、足に力が入らなくなっているのが眼前に映る。が、ピエロは悲愁に満ちた表情を浮かべる水色の少女を後方へと優しく突き飛ばし、それを守る様に前に立ち塞がった。その行為に何故か苛立ちを覚える。


「俺はそいつに用があるんだ。離せ」


「弱い奴は、弱者を殺して強者を気取る」


 ピエロが声を上げると支子色の髪をした少女が今度は反応を見せた。水色の少女よりもかなり分かり易い反応を示している。目を見開き、眉間に皺が寄り、瞳には怒気が込められる。全身から未熟な殺気が漏れ始める。


「お前が口にした言葉だが、忘れたか?」


「知らねえよ」


 サマエルはまたも淡々と口にする。従容とした様子の道化にサマエルは苛立ちを覚える。この道化の態度にではない。この男が放つ雰囲気、声色、臭い。それら全てに苛立ちを覚える。


「今のお前の事を指していると思わないか? シキ」


「俺はシキなんて名前じゃ……がっ……」


 頭に何かが流れ込んでくる。自分ではない存在の記憶。感情の一片が流れ込んでくる。流れ込んでくるたびに脳が割れるように痛む。


 『シキ』という男の記憶が沸々と甦ろうとする。


「サリ……ス……?」


 サマエルの意思を跳ね除けて、紡ぎ出された言葉に支子色の少女の瞳が動いた。真っ直ぐにこちらを射抜く。ピエロに動きは無い。微動だにしていない。


 サマエルは『シキ』という男の感情、記憶を完全に封じ込むとピエロの右手に紫色の魔力の塊を激突させる。破壊する事は敵わなかったが、ピエロの右手がサマエルの右手から離れた。その瞬間にサマエルは翼をはためかせ、飛翔。空へと高速で上昇していく。広漠に広がる青に向かって、十二対の翼を羽ばたかせる。


 結局、胸の痛みは取れないままだ。しかも、ピエロの言葉によって胸の痛みは増した気さえする。


 だが、これを解消する方法は知っている。殺せばいいのだ。


 俺は死を司る天使、サマエル。


 あの少女とあのピエロに死を与える、終焉の使者。


 サマエルは空を裂く様に翼を広げると世界中に轟かす様に高笑いを上げた。

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