二十三 氷雪の花
「さ、行くわよ。マオ」
右腕をぶんぶんと振り回しながら、マオの体を操作しているマギリは声高らかに言った。
『何するつもりなの?』
ナチと赤き竜との戦闘によって更地と化しているレヴァルの街を、堂々と突っ切っていくマギリにマオは語り掛けた。実際に声を出している訳ではなく頭に直接声を送っている為、マオの声はマギリにしか聞こえていない。
が、他には誰も居ない。実際は誰かに聞こえているのかもしれない。そんな事を思っていると「私にしか聞こえないわよ」とぶっきらぼうに彼女は口にする。
「何って、あんたの仲間を助けに行くんでしょうが」
『でも、お兄さんでも勝てなかったのに私が勝てるわけないよ』
「なーに弱気になってんのよ。それにね。勝てる勝てないじゃなくて、私達はあいつらを助けに行くのよ」
『え? どういうこと?』
マギリが盛大に嘆息し、眉間に皺を寄せる。右手で額を何度も力強く小突いた。が、いくら叩いた所でマオにダメージは与えられない為にマギリはすぐに小突くのを止めた。
「勝つことと助けることは目的が違うでしょうが。助ける作業に勝利は必要ないの。あの二人を助けたら、とんずら決め込むわよ」
『あいつを倒すんじゃないの? マギリって強いんでしょ?』
深い意味を込めて口にした訳ではなかったが、その言葉でマギリは目付きを変えた。火が付いたように彼女の瞳は好戦的な光を灯す。猛然と相手を見据え、不敵に口角を上げる。
「可愛い顔してなかなか言うわね。そこまで言うなら見せてあげるわよ。私の強さをね」
『あ、うん。頑張って』
「反応うっす」
マギリは荒廃したレヴァルの中心で、飄々と佇んでいる黒い服を着た男に視線を合わせた。そこに向かって真っ直ぐに彼女は歩み進める。マオは自身の目を通してナチとイズの姿を探した。傷付き、死力を尽くして戦い抜いた二人の姿を。
二人の姿は瞬刻の内に見つかった。
黒服の男の奥。木片と瓦礫が無数に転がる地面の上でうつ伏せに眠っているナチと、彼の前に立ち塞がり、ナチを黒服の男から毅然とした様相で守ろうとしているイズの勇姿がそこにはあった。
地面に伏したまま微動だにしないナチを見て、一瞬の内に憂苦と絶望が胸中に渦巻いていく。凄惨な憶測が脳内を支配しようとする。心に芽生え続ける不安は表情を歪に変化させ、マオは鼻白むと同時に開目した。が、すぐにナチの言葉を思い出す。霊力の酷使による強制睡眠の存在を。
きっと、それだ。そうに決まっている、と胸に芽生え掛けた不安を心の奥底に押し込んだ。無理矢理に納得する。
イズと黒服の男は何かを喋っているようだった。イズの口が小刻みに動き、男の両手が何度も上下する。だが、二人共まだマオの存在には気付いていない。
会話に夢中のようだ。マギリは男の背後から、足音を消すこともせずに近付いていく。
先にマオの存在に気付いたのはイズだ。マギリが足音を消さない為に、その結果は当然と言えば当然だった。彼女の優秀な耳ならば、すぐに気付ける。
そして、マオに気付き、動きを止めたイズ。その反応を見た、黒服の男が背後へと振り返る。軽薄な笑顔を浮かべ、澄清な悪意を瞳に灯しながら。
だが、マオを見た瞬間にその軽薄な笑顔は剥がれ落ちた。意想外の人物の登場に表情は消失し、素顔が露わになる。信じられない物を見ている。そんな顔だ。それもそうだろう。マオは毒に侵されているはずで、それを解毒する為の薬はあの男自身が破壊した。黒服の男もイズも、きっとナチですらマオが命を落とすのは免れないと思っていたはずだ。
そのマオが自分の足で歩行し、毒の影響を感じさせない勇猛な顔つきで目の前に現れたのだから驚くのも無理はない。その表情の変化を面白がるようにマギリは片眉を下げ、黒服の男を見た。
「あんた、邪魔だから消えてくんない?」
開口一番、そう告げたマギリにマオは呆然としていた。その強気な物言いは、どこかナチを想起させる。彼も開口一番に相手を威圧するような言葉を使う時が多い。ナチとマギリの類似点に苦笑していると、マギリの言葉が気に食わなかったのか黒服の男が手に持ったナイフの様な黒い剣を勢いよくマギリに向けた。
「どうして動けている! 解毒薬はもうこの世界には存在しないはずだ!」
「ああ、それなら私が退治したわよ。丸めてポイッって」
「退治? そんなこと出来るはずが」
「それが出来ちゃうのよねー、私なら。体内に侵入した毒を氷結させて、それを分子レベルにまで分解して体外に排出することくらい余裕よ、余裕。私に毒は通用しないの。覚えた?」
マギリの言葉に黒服の男の顔が歪む。無表情だった顔に険が浮かぶ。眉根に刻まれた皺が彼の怒気をそのまま表しているかのようだ。
『私、死にかけた気が……』
『あんたが死にかけて、ようやくあんたの体に干渉できるようになったの。あんたの心、鉄壁過ぎなのよ』
「そんな事できるはずがない……。解毒薬なしで解毒する事など出来るはずがない!」
声を荒げる男には取り合わずにマギリは男の脇をすり抜け、イズとナチの下へと歩いて行く。あまりに自然な行動に男はマギリに対して動きを見せることなく、その場で地団駄を踏んでいた。現実と自身が描いた未来予想図との齟齬に彼は苛立ち、憤激していた。その姿はおもちゃを買ってもらえなかった幼い子供の様でもある。
「感謝するわー。あんたの毒のおかげで、この子は私の《雪の流刑地》にまで落ちてきた。あんたのおかげでようやくマオと繋がる事が出来た」
マギリはイズの前に立つと呆然としている彼女の頭を撫でた。その後にマギリは全く動きを見せないナチへと視線を送る。
「……二人とも生きてる、わね。生きてるわよ、マオ。良かったわね」
『本当に? 本当に本当? 嘘ついてない?』
「本当だってば。嘘ついてどうすんのよ」
「お前は、誰だ? マオ……なのか?」
「私はマギリ。マオの心に宿る守護天使ってとこ」
『本当に怨霊とかじゃないの?』
「だから、違うって言ってんでしょうが。ぶっ飛ばすわよ」
マオとマギリの一見独り言の様な会話を聞いて、イズが明らかに動揺を見せる。マギリとマオの口調が違う事も関係しているのだろう。イズは唐突に反抗期を迎えた息子を見る母親の様に怯えた様子を見せている。
マギリはイズに優しく微笑みかけるとナチを見て、その次にレヴァルの惨状へと目を向けた。倒壊する建物は数えきれない。船舶していた船も完全に大破。活気が溢れた港町は烈火と瓦礫が視界を埋め尽くす阿鼻叫喚な戦場へと変貌していた。
マオが酷い、と漠然とそんな事を思っていると、マギリはマオとは全く違う感想を口にした。
「あんたの相棒は男を見せたのね」
瞳は深く閉ざされ、呼吸音すら貧弱なナチへとマギリは再び視線を戻す。
「一人の女を助ける為にこんなにボロボロになるまで戦った。街一つを犠牲にしてでも、勝てない相手に立ち向かっていった。こいつはあんた一人の為に命を懸けて、それを捨てる覚悟もあった」
マギリは自身の胸をそっと叩いた。マオの胸を優しく叩く様に。マオの心に深く響かせるように。
「こいつは、世界の救出とマオ。あんたを秤にかけて、あんたを選んだ。そんなこと普通は出来ない。誰かの為に命を捨てるなんてこと普通はできない。けどこいつは、死を賭してあんたを守る覚悟を示した。だから」
マギリは眼前で地団駄を踏み続けている黒服に視線を移動した。紅い双眸に怒りを込め、噴出し続ける憤怒によって彼女の紅い瞳はより一層輝き出す。
「今度はあんたの番よ、マオ。今度はあんたの覚悟を示す番」
『……当然! 行くよ、マギリ』
『ま、覚悟を示したところで、こいつは寝てるし、戦うのは私なんだけどね』
『そこはちゃんと締めてよ!』
「そんな時代錯誤な覚悟を示したところで君達は殺しますよー。それが私に課せられた使命ですからあああああーーーー!」
男が手に持っている黒い剣から出現する黒い渦が男の体を覆う様に浮遊し始める。あの黒い渦はやばい、とマオは漠然と不明瞭にそう思った。あの黒い渦を視界に捉えた瞬間に心身が畏怖嫌厭を示し、目を閉じそうになってしまう。触れたら最後、体が消し飛んでしまう気さえする。
それ程に禍々しい雰囲気を放出している。
「マオに示された覚悟をあんたにとやかく言われる筋合いはないわよ。この万年就活野郎」
「ユライトスですぅ。お母ちゃんが付けてくれた名前がちゃんとありますぅ」
マギリが腰を低くする。全身に程よく込められた力。戦闘準備は万端。迎え撃つは一人。眼前に佇む男、ユライトス。
「気を付けるのだぞ」
「ええ。あんたもありがとね。あんたが流した涙も、あんたがこの子を守ろうとしてくれたことも、ちゃんと見てたから」
イズが驚いたように目を見開いた後に静かに息を吐くと、彼女はマオの足に触れた。口角が穏やかに上がっていく。手が震えているのが分かる。
「感謝する……。マオを助けてくれて……」
「まだ安心するのは早いわよ。安心するのは、こいつを倒した後」
「そうだな。頑張って来い」
『頑張るね、イズさん』
マオの言葉に反応したかの様にイズの両耳がピクンと動き出す。その後に嬉しそうに笑うと、彼女はナチの傍らに寄り添った。
「不意打ちぃ!」
ユライトスが黒い渦をマギリへと高速で射出。目にも留まらぬ速さで射出したそれに合わせて、マギリは前方に氷壁を瞬時に作り上げる。
「そんな氷に鍵は止められないでちゅよ!」
マギリはユライトスの言葉を鼻で笑った。マギリは前方に出現させた氷壁の形状を変化。それは雪の結晶。六つの花弁を持つ、氷雪の花。美しく咲き誇る六角の氷花に生まれ変わった氷壁は真っ向から黒い渦を受け止める。
『よく見てなさい。あんたに氷の使い方を教えてあげる』
『う、うん』
マギリが生み出した氷花はユライトスが放った黒い渦を受け止め、傷一つ負う事なく黒い渦を消滅させた。驚愕に表情を歪ませるユライトス。呆然と佇むユライトスを無視して、マギリは六花の氷をユライトスに向けて、ブーメランの様に放った。
高速で横回転する氷の花の形状を変化。姿形はそのままに氷花を極薄に変更。先程まで壁となっていた氷花は極薄の氷刃を持つ、円月輪へと変貌する。
攻防一体の氷の六花。回転数が上がる度に異音が鳴り響き、独特な風切り音を伴い始める円月輪がユライトスの首を切断しようと凄まじい速度で向かって行く。が、その氷はユライトスが放った無数の黒渦の直撃を受け、跡形もなく粉砕した。
「薄くした分、硬度が下がったか……」
マギリが舌打ちすると同時にユライトスは夥しい数の黒い渦を鍵から出現させる。瞠目した瞳に浮かぶ驚愕はそのままに、ユライトスは陰鬱な笑みを浮かべる。
「その氷、何? これ一応、最強って呼ばれてる鍵なんですけどー」
「教えてあげなーい。自分で考えれば?」
血色の良い舌をペロッと出しながら、マギリはユライトスに向かって直進。両手には氷で作ったチャクラム。薄く研ぎ澄まされた円形の氷刃。それを次々に投擲していく。直進していく戦輪は黒い渦によって次々に破壊されていくが、マギリに焦りは見られない。
破壊され続ける氷を意に介さず、マギリは大量にチャクラムを、氷剣を、雪花を作り出し、それらを投擲し続けていく。破壊され、地面に落下する氷片。大気中に飛散していく氷の粒子。
「何をしようとしてるのか知らないけども、無駄っていうかー。無駄無駄無駄! オラオラオラ!」
黒い渦が氷を破壊する度に、大気中に散らばっていく氷片は枚挙に暇がない。マギリは巨大な氷の塊を頭上に出現させるとユライトスに垂直に落下させる。重量と比例して重力加速を上げる氷塊に迫る黒渦。
「だから、無駄だって言ってるじゃないのお!」
破壊される氷塊。散らばる氷片。それらはレヴァルを燃やす烈火を浴びて、光り輝いていく。反射を繰り返す橙の光明。燦然たる光輝はレヴァルを染め上げ、マギリの紅い双眸を妖しく彩っていく。
マギリは自身の上背を超えるチャクラムを作り上げると内側に入り、両手で力強く握ると自身の体を独楽の様に回転させる。内側は分厚く、外側になるにつれて薄く研ぎ澄まされていく円月輪。狙うはユライトス。狩り尽くすは命。落とすは首。
「自殺行為ですよ、バーカ!」
「お前が死ね、バーカ」
マギリはチャクラムの中央で回転を続けながら、嘲笑を浮かべる。熊鷹眼でユライトスを射抜き、マギリが息筋を立てた瞬間に雲散霧消したと思われていた氷片に変化が現れ始める。
大気に散らばった細かい氷片が、地面に転がる大小さまざまな氷片が、微細な振動を灯し始め、その振動は徐々に激しく鳴動していく。それは空気中の水分を再収束しつつ、無数の氷柱へと変貌し、一斉にユライトスへと向かって解き放たれる。
どこまでも透き通る透明の氷柱。それは分厚く、先端は鋭く、敵を射殺す冷艶清美の鋭槍。
『私達の能力は氷を作る能力。そして、氷を操る能力。氷は砕けたとしても、蒸発さえしなければ私達の支配下から逃れることはない。一度作った氷は消滅するまで、私達の武器となり血肉となる』
それをユライトスは黒い渦を鞭の様に操り、破壊しようとするが最硬の氷槍はあらゆる攻撃を受け付けない。黒い渦は氷に弾かれて宙を舞い、鉄壁を誇っていた「最強の盾」はこの戦闘で初めて敵の侵入を許す。
その光景にユライトスが間抜けな声を漏らしていたが、何を言ったのかはマギリにもマオにも分からない。知るつもりもない。黒い渦の直撃を浴びたというのに形状を損なわない氷柱は、真っ直ぐにユライトスへと伸びていき彼の全身を突き刺す直前で止まった。
息を殺し、怯えた表情を浮かべているユライトスは迫って来るマギリを見て、顔を顰めた。眉根が寄る。顎に力が入っている。
その慨然とした様子のユライトスを嘲笑いながら、マギリが遠心力をたっぷりと乗せた冷酷無情な一撃を放つ。巨大なチャクラムがユライトスの首を捉える。切り落とす。その直前。
「私をなめるなああああああああ!」
右手に持っている鍵が黒い光を全方位に放射。反射的に目を閉じてしまうほどの強力な光。体を吹き飛ばすほどの絶大な衝撃。手に持っていたチャクラムは粉々に砕け散り、マギリの体は大きく後退。地面を滑走する様に後退し、両腕で顔を覆い強烈な閃光から目を守る。
「最強の名はやっぱ半端ないわね」
『何が起きてるの?』
氷が音も無く崩れていく。その光景を腕の隙間から見つめ、マギリは舌打ちを繰り返した。
『ただの力の放出よ。技でも何でもない。ただの脳筋糞野郎』
『でも、さっきは防げてたのに』
『あの鍵の全力を受け止めることが出来る物質なんて世界中どこを探しても存在しないわよ。けど、あんたの氷なら多少は受け止められることが分かった。それだけで十分な収穫よ』
『私の氷なら? どういう事?』
『説明はあと。まずはあれを何とかするわよ』
黒い光が少しずつ収まっていく。それと並行して開けていく視界。そこに映っていたのは黒く禍々しい影を纏う黒き短剣。それを持つユライトスは黒い光を見て、破顔した。なぜ笑ったのかは分からない。が、彼はそれを見て笑っていた。
柄に刻まれた文字が赤く胎動し、その振動が十分な距離を取っているはずのマギリとマオにも伝わってくる。大きさを増していく振動は地面を揺らし、直立している事が困難なほどにまで高まり続ける。
マギリは腰を低くし、それに耐えているが僅かに覗き見える白い歯が彼女の余裕の無さを表していた。
「まずいわね。『ガヴェリエル・コード』が起動しかけてる」
『見るからにやばそうだよね、あの文字。赤く光ってるし』
「アホっぽい感想ありがとう」
『……だってやばそうだし』
「はいはい、拗ねないの」
マギリは宥める様に言うと片目を細め、深い溜息を漏らす。彼女は『マオ』と心に声を投げ掛けるとジャケットの袖を捲った。
「私達が『世界を救う四つの可能性』なんて大層な名前で呼ばれている理由。今から教えてあげるわ」




