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九 優しさと甘え

 翌朝。日が昇った頃、ナチは酒場の裏庭に立っていた。目の前にはリルがナチと向かい合う様にして立ち、早朝の冷気を運ぶ南風が穏健な空気を根こそぎ巻き上げていく。二人は無言で互いを見据え、今か今かとその時を待ちわびている。


 そして今、変化はもたらされる。


「じゃあ、今から何しようか」


 ナチは腕を組みながら、相好を崩した。それにつられてリルも笑顔を見せる。二人は早朝の冷気に体を震わせると共に、一歩ずつ互いに寄っていく。


「そう言えばリルの能力って何なの?」


 大事な事を聞き忘れていた。リルを強くする為の特訓だというのに、リルの能力を知らないというのは大問題だ。この能力次第では特訓の内容は劇的に変わる。


 ラミルやマオの様に自然現象を操るのか、剛力の付加や五感や第六感の強化などの肉体強化なのか、他者の心に直接干渉する精神干渉などの能力なのか。もしナチには師事できない能力だった場合、特訓は体力の底上げと基本的な戦闘の立ち回りに変わる。


 リルは笑顔を保ったまま、石を拾うとそれをナチに手渡した。


「これを僕に投げてもらえますか」


「良いけど……」


 リルはナチから一メートル程距離を取ると、ナチに背を向けた。背を向けたまま、こちらを見ようともしない。どういうつもりなのだろうか。このまま投げれば当たるのは必至。だが、そんな事を提案してくるという事は、この行為こそがリルの能力に直結しているという事に他ならない。


 もしかしたら、後頭部に第三の目が備わっているかもしれない、とナチは密かに胸を躍らせた。



「投げるけど、大丈夫? 本当に当たらない?」


「大丈夫です。いつでもどうぞ」


 自信満々なリルの声。ナチは一抹の不安を抱えながらも、じゃあ、と石を下から掬い上げる様にリルに向けて投げた。それは緩やかな軌道を経て、リルの後頭部へ向かって飛んでいく。


 それをリルは、こちらを一度も見る事なく首を捻って躱した。リルの前方に落ちた石は地面へと落下し、転がることなくその場で制止していた。


 どうですか、と振り返るリルは期待の眼差しをナチへと向けているが、これだけではどういう能力なのか分からない。だが、彼はナチを見ることなく、飛来してくる石を躱した。ナチが見えていないという事は、ナチが石を投げるタイミングも分からないという事になる。


 それがリルの能力なのだろうか。だが、これだけの情報では能力の特定は難しい。


「ごめん、良く分かんないや。どういう能力なの?」


「えっとですね。僕は、僕に向かって飛んでくる物を予測する事が出来ます。僕に向かって飛んでくる物なら、それが見えてなくても分かるんですす」


「自身に向かって来る飛来物を予測する能力、か。これは、また」


 かなり限定的な能力だ。使い所がかなり限られる上に、最悪あってもなくても変わらない。敵が遠距離専門で飛び道具を多用する様な敵ならば天敵に成り得るが、もし相手が近接戦闘を得意とする者なら、この能力は封殺される。


 だが、限定的という事はその限られた状況の中では最高のパフォーマンスが期待できる。弱い能力は活躍が見込める場所が少ないだけで、意味が無いという事にはならない。適材適所というやつだ。


「じゃあ、この能力を使いながら僕と一回戦ってみようか。リルがどれくらい動けるのか見たいし」


 葉を拾いながら、ナチは言った。それを符に変換する。


「準備はいい?」


「はい。いつでも」



 リルは拳を構えた。構え慣れていないのか、腕が細すぎるせいなのか、あまり様になっていなかった。可愛いとは思う。


 ナチは符に属性を付加。「硬化」と「加速」。ナチが使う属性の中で最も使い勝手がよく、最も使用頻度が高い属性。それを込めると、ナチは感情を殺す。特訓と言えど情は不要。手加減など以ての外だ。特訓は実戦の様に真剣に命懸けで。それが符術を学んだ際にナチが最初に教えられた教訓。


 リルを見据える瞳孔は、人を殺す鬼の様な無機質な光を纏う。明確な殺意。滾る闘気は焔の様に猛々しい。ナチは呼吸を一度吐くと、リルに焦点を合わせる。



「行くよ?」


 ナチの言葉によってリルが浮かべた表情は、絶望に追い込まれた騎士が見せる様な恐怖。構えた拳がガタガタと震え、少しだけ素肌が見える足も、拳と同じように震えている。本人は気付いていない様だが、少しずつ彼の体は後退していた。


 戦い慣れていないという事が、これだけで分かる。けれどもそれはすぐに解決策を提示する事が出来る。慣れていないのならば、慣れればいいだけの話だ。実戦を重ねて、戦闘という行為に慣れればいい。


 ナチは符を投げ飛ばし、指先から霊力を放出。属性が具象化された符は、鋼鉄の様な硬度を手に入れると同時に、目で捉える事が出来ない程の加速を手に入れる。風切り音が裏庭に響き渡り、リルへと向かっていく。


 ナチは投げ飛ばした瞬間、左に移動し、一枚の葉を拾った。それを符に変換しようとした時、リルが最初に投げた符を腹にまともに受けて、後方へと大きく吹き飛ばされているのが見えた。


 地面を転がっていき裏庭を囲う白色の石壁に激突する直前で、リルは静止。仰向けに倒れるリルをナチはぽかん、としながら歩みを止め、リルに駆け足で近付いていく。


 起き上がる素振りも見せないリルを見て、少し嫌な予感が胸に宿る。彼はまだ病み上がり。ナチの符術は一撃こそ大した威力を持たないが、直撃すれば骨を折るくらいの威力は兼ね備えている。


「リル大丈夫?」


 リルは腹部を押さえながら、悶え苦しんでいた。だが、気絶している訳ではない様だ。荒い呼吸を繰り返し、歯を食いしばっている。顎に力が入り、皮膚が動いているのが見える。


「怪我はしてない?」


「大丈夫です」


 リルはかなり無理をして笑顔を作った。


「予測は出来たんですけど、速すぎて」


「そっか……そういう事ね」


 乾いた笑い声を発しながら、ナチはリルの上半身を起こした。そして、リルの腕を肩に回し、同時に立ち上がる。


「まだ続けられる?」


「はい。大丈夫です」


 力強い返答。ラミルに受けた傷も、先程の符による衝撃も大した事ではないのだ、と言わんばかりにリルは力強い声を紡ぎ、頷いた。


「じゃあ、今度はリルが僕に打ち込んでみて。殴っても蹴っても良い。飛び道具を使ってもいいよ。何でも使っていいから、僕に一回でいい。攻撃を当ててみよう」


「はい!」


 ナチの肩から離れていくリルは、ふらふらとした足取りでナチから一度距離を取った。そして、拳を構える。


 ナチは、符を作る事も用意する事も無く、リルを迎え撃つ様に拳を構えた。左腕を前に置き、右腕を僅かに後方へと回す。本格的に格闘技や武術を学んだことはないが、それでもそれらを得意とする戦士と幾度となく相対し、打ち負かしてきた。


 リル相手に引けを取る事は無い。


「いつでもどうぞ」



 リルが動き出す。突き出されるのは右腕。向かってくる遅い突きをナチは左腕で僅かに軌道を変え、右腕でリルの右腕を掴む。彼の右足を左足で蹴り飛ばす様に引っ掛けると、そのまま後方へと投げ飛ばし、地面を転がったリルを見下ろした。


 すぐに、立ち上がるリル。苦悶の表情を浮かべるリルはすぐにナチに追撃。


 右足を軸に、リルの左足がナチの顔面を狙う。意外と蹴りの速度が速いことに驚きながら、ナチはしゃがみ込んで蹴りを回避。頭上を通過するリルの細足には目を向けず、ナチは呼吸を止めた。


 しゃがみ込みながら、ナチは左足を伸ばし、その場で回転。回転する事によってたっぷりと遠心力を追加した左足で、リルが軸足にしている右足を蹴り飛ばす。


 折れた案山子の様にその場に倒れ込んだリル。無様に倒れ込む彼は全身を砂で汚し、口内に入った砂を唾を吐き出すと共に排出する。口内を切ったのか唾液には血液が混じっている事にリルは気付いていない。


 それでも、またすぐに立ち上がる。またすぐに拳を構える。相変わらず、構えは貧弱。それでも瞳に宿った光は、倒れる度に力強くなっていく。輝きを増していく瞳を見て、ナチは特訓であることを忘れそうになった。いや、忘れた。


 ナチは完全に楽しんでいた。倒れても倒れても折れない心を見て。何度も立ち上がって来る不屈を屈服させようとナチの嗜虐心が剥き出しになる。



 リルが拳を打ち出す要領でナチに対して、何かを投げ飛ばした。


 石。手の平に収まってしまう様な小さな石。


 頭に向かって飛んでくる石を、ナチは首を捻って難なく躱す。すると、リルの姿が視界から消失した。見えないリルの残影。しかしながら、ナチの表情に焦りは見られない。焦りどころか、ナチの表情に浮かんでいるのは全く逆の感情だ。


 ナチは微笑んでいた。微笑みながら下方向へと眼球だけを動かす。


 いた……。


 地に体を伏せ拳を溜め込んでいるリルの姿がそこにあった。


 石が顔面に向かっている間は、当然ナチは石に意識を集中させる。その僅かな時間、リルはナチの意識の外へと外れる。


 石を拾ったのは先程転がった時だろう。むしろ、その時しか考えられない。ナチは口角を歪に上げ、白い歯を覗かせると、リルに内心で称賛を送る。


 十分に合格点だ。



 リルが勢いよく拳をナチの顎に目掛けて撃ち出した。強烈なアッパーをナチは体を後方へと体を仰け反らす事で躱す。曲線を描く腰。しなやかに曲がっていく腰は更に降下。茶色の大地にナチは手を伸ばす。


 手を地面に着けた瞬間、ナチは思い切り地面を蹴った。浮かび上がる両足。猛烈に速度を上げるナチの両足はリルの顎を蹴り砕き、リルの体を僅かに上空へと押し上げた。吹き飛ぶ唾液に何かが壊れた嫌な破砕音。


 見事にバク転しながら、ナチは顔を青くしていた。足の爪先に残っているリルを蹴り飛ばした衝撃。顎を砕いた感触。嫌な感覚をまだ明瞭に感じることが出来る。


 ナチは両足を地面に着けると、すぐさまリルに駆け寄った。



 案の定、土の上で気絶しているリル。心の中で謝罪を繰り返しながら、ナチはリルを腕に抱えた。それから、リルの体を日の当たらない場所へと移動させ、土の上に寝かせると、ナチもその隣に腰を下ろした。


「疲れた……」


 服の袖で汗を拭いながら、日陰に吹く涼風に体を震わせる。その後に静かに呼吸を繰り返すリルに視線を向けると、彼の頭の下に自身のコートを丸めて設置した。


 今の戦闘で分かった事はリルも能力なしの戦闘ならば、それなりに動けるという事。非力な事と、少し動きに無駄が多いが、それはこれからの特訓次第で解消できる。それにリルは戦闘中に即座に策を弄するだけの余裕もある。


 問題は、能力だ。


 自身に向かってくる飛来物を予測する、という能力を戦闘中にどう活かせばいいのかナチには分からない。


 視認していなくても予測できるというのは、大きなメリットだとは思う。もしこれが乱戦ならば、大いに役に立つ。だが、それも避けられなければ意味が無い。


 せっかく、飛び道具を使う相手だったら常に有利に立てる能力なのだから、この能力を軸にリルを鍛えたい。


 だが、どうすれば。


「……ん」


 リルが呻き声を一瞬だけ、漏らすと静かに目を開いた。半開きの瞼の奥で視線がゆっくりと動き出す。右に左に、最後にナチを視界に入れると、リルの瞳は水を得た魚の様に大きく見開き、体を起き上がらせた。


 その体をナチは無理矢理に抑えつけ、再び地面に寝かせた。



「まだ寝てていいよ」


「……はい」


 リルは息を大きく吐き、大きく吸った。それから、澄んだ青空を見ながらリルは口を開いた。


「すみません、弱くて。……がっかりしましたか?」


 弱弱しく言葉を紡ぎながら体を丸めているリルを見て、ナチは苦笑を漏らす。


「そんな事はないよ。最後の石を使った攻撃は良かったと思う」


「嬉しいです」


 はにかみながら言うリルに、ナチは微笑を浮かべると視線を彼に傾ける。


「誰かに教えてもらったりしてるの?」


「シャミアに少し。シャミアは、能力は弱いんですけど、殴る蹴るみたいな戦いだったら滅茶苦茶強いんです」


「へえ、意外だね」


「僕もそう思います」


 

 お互いに笑った。静かな笑い声が裏庭に響く。


 シャミアと戦ってみないと何とも言えないが、格闘技術などはナチでは無く、シャミアに師事してもらった方が良いかもしれない。きっと、リルの動きはシャミアを模倣したもの。彼女の癖が少なからず反映されているはず。


 ならば、ここでナチの動きを取り入れるよりも、一度シャミアの動きを完成させた方がいい。確固たる一を見つけてから、他の一を取り入れた方が動きは洗練される。軸が固まっている分、中途半端な型にならない。


 格闘技術や近接戦闘に関してはシャミアに頼もうと、一人で納得していると、アジトの上げ下げ窓から支子(くちなし)色の髪が見えた気がした。気のせいではない。マオがこちらを見ている。


 不機嫌に顔を顰めながら。


「ねえ、リル」


「はい」


「マオがどうして不機嫌なのか知ってる?」


 その言葉にリルは気難しい顔をしながら、体を起こした。石壁に背を預け、ナチの隣に腰を落ち着かせる。それからたっぷりと息を吸い込むと、体内に含んだ空気を体外に吐き出していく。



「多分ですけど、僕がナチさんに特訓をお願いしたから、だと思います」


「新入りの僕にお願いしたから怒ってる、って事?」


「僕がサリスやシャミアに頼まなかったから、だと思います」


「あ、そんな理由なのね……」


 めんどくさ……。


「でも、優しい所もあるんですよ。仲間思いだし」



 左の人差し指を、右手でいじりながらリルは言った。頬と耳を赤くしながら、はにかんでいる。


 ナチは、それを見て驚愕の色を瞳に滲ませた。



「マオの事、好きなの?」


 リルの顔が茹蛸の様に真っ赤に染まる。湯気でも出そうなくらいに顔を紅潮させながら、視線を右往左往させる。あまりの分かり易い反応に、ナチは世界の広さを思い知らされる。


 確かにマオは綺麗な顔立ちをしているが、彼女のどこが良いのだろうか。だが、容姿が整っているというのはそれだけで好意を持たれる要因になり得る。特にリルやマオの年齢の少年少女達などは特に容姿の良し悪しが決め手になる場合が多い。


 ナチはリルの好みを理解する事はできないが、それでも応援しようとは思う。ナキと旅をしていた時はあまり他人と関わろうと思わなかったが、今は少し違う。今、ナチは一人しかいないのだ。だから、この繋がりを大事にしようと思う。


 それはただ寂しいだけなのかもしれない。この胸を燻らせる行動原理は判然としないが、それでもナチは素直にリルの恋に手を貸そうと思う。


「じゃあ、少しお節介でも焼こうかね」


「え?」


 ナチはリルに今からしてほしい事を事細かに説明した。明らかに動揺しているリルだが、これも恋愛成就の為だ。やってもらう他あるまい。


 上手くいけば、マオと接する機会が爆発的に増える。恋が成就する可能性も大きく飛躍する。


 全てを説明し終えると、リルは緊張の面持ちで固唾を飲んだ。



「出来る?」


「……はい」


「じゃあ行っておいで」


「頑張ります」



 頼りなく立ち上がったリルは、悠然と家屋へと歩き出した。その姿を見て少し心配になるが、ナチはリルから視線を外し、ゆっくりと瞼を下ろした。



 



 ナチとリルが特訓を開始してすぐ。リルがナチの符をまともに受け、吹き飛んだ頃だ。


 マオは窓からそれを、不機嫌を宿した眼差しで見つめた。


 吹き飛ぶリルに駆け寄るナチ。無理矢理に笑顔を作って再び立ち上がるリルを見て苛立ちを募らせた。



「まだ機嫌悪いの?」


「別に悪くないし」


 背後から聞こえて来たシャミアの声に、マオは素っ気なく返す。背後からシャミアが溜息を漏らしたのが聞こえて来た。


「もう、お子様なんだから。そんなに、リルがナチに特訓してもらうのが嫌なの?」



 マオは口を開こうとして言葉に詰まった。


 物心ついた時から側にいたシャミアと言えど、こんなみっともない愚痴を零していいものだろうか、と。シャミアは今年で二十二歳になるが、街でよく若奥様などと呼ばれ、マオの母親と間違えられる事が多い。


 母親にだってこんな事を打ち明けたりはしないだろう。


 言葉に詰まっていると、シャミアがマオの横に置いてある丸椅子に座った。



「で? 何がそんなに嫌なの?」


「……特訓だったらサリスとかシャミアとすればいいのに、って」


「リルがナチに教えてもらいたいって言ったんだから、別に良いじゃない。駄目なの?」


「駄目じゃないけど。でも……」


「でも?」


「何か納得いかない」


「子供か」


「子供じゃないし」



 マオはシャミアから目を逸らしながら、窓の外を見た。外では、ナチが珍しく拳を構えていた。あの男は符とか呼ばれる謎の紙を投げる以外に近接格闘も出来るのか、と目を見張らせる。


 彼の動きを目で追う。



 リルの動きが遅いというのもあるが、それでも慣れた手つきでナチはリルを軽々と捌いていた。余裕を感じさせる動き。目で捉えてから動けるだけの身体能力を以ってリルを地面に叩き伏せる。


 近接格闘すら得手にしているというのか、あの男は。



「へえ、ナチって結構強いのね。私も混ぜてもらおうかしら」


 シャミアもナチの動きを冷静に見つめていた。シャミアは近接格闘ならば、類稀なる強さを誇る。その彼女が言うのだ。ナチは強い。これは認めざるを得ない。



「ほら、私達にわざわざ教えを請わなくても問題ないじゃない」


「そうじゃないんだよ。分かってないなあ、シャミアは」


「面倒臭いわね……」



 窓へと視線を向けると、ナチがリルの顎を蹴り飛ばし、気絶させているのが見えた。慌ててリルに駆け寄るナチの顔は青ざめている。楽しくなりすぎてつい羽目を外してしまった、と言った様な顔だ。


「だって、私達は昔から側に居るんだから、最初に私達に相談してくれてもいいのに、って思わない?」


「思わないわよ」


「何で?」


 窓から視線を外し、壁にもたれ掛かったシャミアはマオの顔を見上げながら言った。


「リルはもう十七歳。もう自分で色々と決められる。リルがナチに戦い方を教えてほしいっていうのなら、私はリルの意見を尊重するわ」


「だけど……」


「だけどじゃないの。私達は確かに家族の様に育ったわ。私はウォルフ・サリの皆を家族同然だと思ってる。でもね、家族だからって本人の意思を捻じ曲げちゃ駄目。それは、本当の家族でもやってはいけない事なの」



 マオは反論する事が出来ず、黙った。それ即ち、少し腑に落ちてしまったという事になるのだが、言葉にはしない。言葉にするのは何だか悔しい。


 ちらりと窓を見ると、ナチと目が合った。その瞬間、マオはナチから視線を逸らした。



「多分、ナチはマオが不機嫌だって事に気付いてるわよ」


「え?」


「多分としか言えないけどね。不機嫌な事に気付いたから、すぐマオに声を掛けてくれたでしょ?」


「確かに……」


 

 確かにマオが苛立ちを胸の内に募らせたすぐ後に、ナチは声を掛けて来た。すぐに突っぱねてしまったが、あれはナチなりの気遣いだったのだろうか。


「ナチは大人ね。抜けている様に見えて、周りをよく見てる。出会ってすぐに変なことを言いだす娘を許容してくれる、懐の広さも持ち合わせてる」


 シャミアに言われて気付く。ナチと出会ってまだ三日。普通だったら、こんな我が儘を繰り返していれば見放されていてもおかしくは無い。それをしないのはナチが寛大だからだ。彼がどうしようもない程に優しいからだ。


 その事実に気付いた瞬間に、自身の行いの幼稚さを理解させられる。羞恥の熱がマオを包んでいく。


「ナチの優しさに甘えるだけでは駄目よ、マオ」


「……うん」



 マオが首を頷かせると、不意に家屋に設置された唯一の出入り口が開いた。マオとシャミアは視線を扉へと移動させる。


 ナチとリルが戻って来たのか。外出中のサリスが帰って来たのか。それとも酒場のマスターだろうか。


 誰だろうか、と思い扉を開けた人物が姿を現すのを待った。その姿を見た瞬間にシャミアが微笑み、机に肘をつく。


「あら、リル。どうしたの?」


 入って来たのはリル。だけだ。窓から外を見ると、ナチが石壁に背を預け瞳を閉じているのが見えた。

 入って来たリルが無言でマオとシャミアの前まで歩いてくると、真っ直ぐな視線をマオ達に向けた。


「……どうしたの?」


 マオが恐る恐る聞いた。


「二人にも僕の特訓の手伝いをしてほしいんだ」


「……どうして?」


「ナチさんが、僕は符術以外苦手だから、シャミアとマオにも手伝ってもらおうって」


「あらあら。あらあらあら」


 シャミアがマオの肩を叩く。振り返ると、シャミアは笑いを堪えながら、横目でマオを見ていた。からかう様なその視線が、腹立たしい。


「私は別に良いわよ。手伝ってあげる。マオはどうする?」


「……私も別に手伝っても良い」


「素直じゃないわね」


 シャミアが苦笑を漏らす。素直にはなれない。少なくとも今すぐには。


「……ちょっと風に当たって来る」


「行ってらっしゃい」


 励ます様な慈愛に満ちたシャミアの声を背後に受けながら、マオは扉を開き外へと出る。扉を閉める直前、リルの声が聞こえてきて、扉を締め切る前にマオは手で押さえた。耳を傾ける。


「ナチさん。マオが不機嫌だって気付いていたみたいなんだ」


「やっぱり。それで気を遣ってくれた訳ね」


「うん。多分、僕がシャミア達にお願いしなかったからだって言ったら、じゃあ二人にも頼んでみようか、って」


「そうよね。私もナチの動きを見てたけど、別にナチが教えても問題ないのよね。私達に頼む必要なんて本当は無いのよ」


「でも、二人が教えてくれるのは嬉しいよ」


「ありがと」


 マオは扉を音を立てずに閉めた。扉にもたれ掛かり、また己の幼稚さを恥じるとその幼稚さが少しでも抜ける様に息を大きく吐いた。瞑目し、脳裏にこの数日間での彼との思い出を並べていく。


 そうだ。彼は常に優しかった。初めて会ったマオの滅茶苦茶な言葉にも理解を示してくれた。突然、意味の分からない事を口にした小娘など、相手にしなければよかったのに。


 彼はマオを見捨てる事もせずに、街まで同行し、ウォルフ・サリの為に力を尽くしてくれている。今も自分勝手な理由で不機嫌になった生意気な娘に救いの手を差し伸べてくれている。


 シャミアの言う通り、彼の優しさに甘えてばかりでは駄目だ。マオは頬を一度強く叩くと、目を開けた。

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