孫一氏との対話
そろそろ11月になろうかという時期で、すぐに冬になる。
幸いこのあたりは冬でも雪は降らず、そのため寒いのを我慢できれば冬でも外で作業ができる。
浜の方にも1番艦製造の時の反省を踏まえて造船のための治具やら機械やらを準備をしたら、すっかり造船場の様相を呈してきた。
寒いと動作が鈍り怪我につながりやすいので、防寒対策をしっかり済ませて、2番艦の製造に掛かった。
1番艦の製造でこれから作るヨットタイプの製造にも慣れてきた九鬼様の仲間が中心になって1番艦を大きくした船で、九鬼様の水軍で旗艦となる船の製造に取り掛かった。
敵対する勢力は関船を擁しているが、これに対抗する大きさの船は当分作るつもりもない。
というか、このヨットタイプでこの大きさになると2本マスト以上の船になり、今の我々の技術では作り得ない。
しかし、1本マストの船でも風上に進める構造で、かつ高速性を有しているので充分に勝機はある。
それにアウトレンジ作戦を取るつもりであるので、船に搭載する武器の調達も考えていく。
そのためにも、どうしても堺には行く必要がある。
幸いに次の造船は、時間もかかりそうであるが、作業そのものは今までの延長上に有るため、既に作業に慣れた九鬼様のお仲間に任せられそうだ。
なので、製造に関しては、そのまま九鬼様のお仲間に任せ、俺は堺行きの準備に掛かった。
船で行くつもりなのだが、どうしても敵対勢力の志摩の近くを通らざる負えない。
危険なのは、志摩にある田城城付近を通過する際に見つかりそうなことだ。
ここだけを注意すれば、さほど勢力のない水軍衆なので、彼らへの遭遇だけを注意すれば堺まではいけそうなのだ。
あまり危険を冒したくはないので、このあたりの通過を夜間にできないかと考えていた。
この時代の航行は有視界が原則で、夜間は入江などで停泊するのが一般だった。
GPSは当然としても方位磁石すら一般的ではなかったのだ。
なので、俺は、早速一番艦を使って夕暮れからの夜間航行の訓練を始めた。
初めは危険のないように満月の日を狙って、訓練を重ね、北極星を使っての方角の見分け方なども習得してもらった。
それに、俺の虚覚えながら、紀伊半島の略図を描き、それについて説明を重ね、付近の地理情報の把握をしてもらったのだ。
幸い、九鬼様達は、昼間であれば見える地形から三重県側については正確に位置の把握が出来ていた。
なので、夜間に安全に航行するには方角と緯度経度がわかればどうにかなるが、あいにく緯度経度を測る術が俺らにはない。
緯度を計測する機械の簡単な原理は知っているので、六分儀とはいかないがひどく雑なものを拵え、藤林様の配下にこれを使って熊野の位置を計測してもらった。
天気さえ良ければいつでも計測ができるので、頼んだら翌々日には計測をして貰えた。
早速、堺への渡航準備にかかった。
船倉には堺での売り物となる干物や陶器入りの塩などを積み込み、また今回は、寺で作られるお茶や椿油も用意して積み込んだ。
それに、今まで蓄えた銭もほとんどを持ち出して積み込んだ。
できれば雑賀の鉄砲衆を味方に引き入れたいが、こればかりはどうなるか分からない。
今回の堺行きは夜間の航行までして行くのでかなりの危険が予想されたので、できれば男だけで行きたかったのだが、堺にしばらく滞在して、人脈もそれなりに有る張さんには付いてきてもらった。
当然珊さんにも張さんの護衛をお願いして一緒についてきてもらったが、いつも一緒に付いてくる葵や幸には今度ばかりはお留守番をお願いした。
かなりぐずられたが、堺でのお土産で手を打ってもらった。
驚いたことには、珊さんは帆の扱いに長けていたのだ。
珊さんは海賊時代に中国のジャンク船やヨーロッパから来ていたガレオン船などで帆の扱いを経験しており、また、夜間の航行も経験済みで、夜間の見張りを買って出てくれた。
小さな船であり、多くの積荷を詰めないので、今回は同行人数も絞っていた。
九鬼様とそのお仲間の一人に俺と張さん、珊さん、それに藤林様の6人だけでの船旅となった。
珊さんと張さんは一度海域を逆方向に進んできたので、このあたりの様子には見覚えがあるようだ。
満月とはいかなかったが、充分に月明かりもあり、田城城は比較的簡単に躱して外洋に出ることができた。
このあたりには黒潮の海流が流れており、ちょうど我々には潮の流れに逆らっての航行となるために、できる限り黒潮には近づかないように航路を選んで帆走していった。
冬に入り始めていたので、木枯らしまではいかなくとも北風は十分に吹いており、帆の取り回しに苦労はしたが、船足は申し分ないくらいに高速で移動できた。
なので、翌日早朝には熊野に着いていた。
夜通し船を走らせていたので、ここで昼過ぎまで体を休め、塩や干物などの商いを少しばかり行った後に船を走らせた。
昼過ぎに船を出しても風があるので、快速に船を飛ばして、夕方には田辺の港に入ることができた。
藤林様と九鬼様は街に入っていったが、残りは船で一夜を明かした。
翌朝に戻ってきた二人は、ここで雑賀の衆の一人と接触を持つことができたそうだ。
九鬼様の目的を話すと紹介状を頂くことができ、雑賀の本拠のある雑賀崎で傭兵について話す環境を整えてきた。
なので、今日の目的地は昼過ぎにはつくことのできる雑賀崎で先に傭兵について話を付けることになった。
早速ふたりを乗せ、雑賀崎まで船を出した。
昼前には雑賀崎に入ることができ、早速、雑賀の棟梁との面会を求めた。
傭兵の話し合いにガキの俺がしゃしゃり出るわけにも行かず、とりあえず船で待っていたら、すぐに呼び出された。
張さんに後を頼み、呼びに来た雑賀の若い衆について棟梁がいる建物に入っていった。
なんでも、雑賀では貿易などの商いも盛んで、すでに商いで力をつけてきた三蔵の衆についての知識があり、その頭がガキだということまで知っていた。
隠してはいなかったが、割と目立たないように活動をしていたはずだが、流石に後に名を残す一族である。
各地の情報を広く集めていたのには驚いた。
三蔵の衆の頭がいるのならば会わせろと言ってきたそうだ。
実際に会ってみると雑賀孫一は迫力のある人物であった。
俺らのこれからやろうとしていることを包み隠さず話し、傭兵として協力を求めた。
彼らは対価さえ払えば喜んで協力してくれることを約束してくれた。
なので、俺は、雑賀孫一に手付金を払い、来年の春の攻撃に傭兵として雇うことにした。
その後、孫一氏を囲んで会食となり、俺は売り物用として持ってきた干物を供して参加した。
話していると、彼らは、普段は海運や貿易などで銭を稼ぎ、鉄砲傭兵としての力をつけてきたそうだ。
なので、商いは盛んで、少しでも有利なことがあれば貪欲に取り込んでいた。
俺のことを知ったのが、八風峠で営んでいる茶屋からであった。
なんでも一族の一人にあの茶店をよく利用しているのが居り、あの茶屋にはひどく喜んでいるそうだ。
金を払うから、道の整備をしろと言ってきたのも彼だそうだ。
俺は孫一氏に銭の供出に感謝を伝え、道については少しづつではあるが整備していることを伝えた。
この後道を整備していく上でも地元勢力との協力と理解が不可欠なのだが、今のままだと望めない。
なので、できる限り早くに九鬼様に大名となって志摩ばかりではなく伊勢も治めて貰うつもりだと包み隠さずに話をした。
それを聞いた孫一氏は大声で笑ってはいたが、最大限の協力をしてくれることを約束してくれた。
なんだか俺は孫一氏にかなり気に入られたようだった。
結局その日は孫一氏の館でお世話になり、翌日に堺入りを果たした。
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