5.アリソン・ラルフ・ハイピスリタ・ユレ
貴族であり更にその中でも王家という肩書きが付いているラルフ公爵の家は、豪邸と呼んで差し支え無いほど広く立派な建物であった。
門から建物の入り口まで歩くのが億劫なくらいの距離があり、その間には手入れの施された美しい庭がある。今は花の季節ではないため色合いには乏しかったが、春先には様々な種類の植物が花をつけることだろう。
自動車は視界に入っているだけでも四台が駐車場に並んでいる。どれも高価で有名な車種である。ジーンの所有している小さな中古車とは比べ物にならない。
敷地の広さの割に、人影は少ないように感じた。警備は徹底しているようで、守衛の姿は見かけたものの、他の使用人の姿は見かけない。今さっきジーンとエルシーを送ってきた運転手だけである。屋敷の中に入れば誰かとすれ違うだろうか。
屋敷に通されたジーンは、まずエルシーから彼女の自室へと案内された。後輩であり今は護衛対象であるとは言え、女の部屋に入ることに抵抗がないわけではなかったが、本人が何の躊躇いもなくその部屋の扉を開けたため、ジーンは深く考えるのをやめた。
「ここが私の部屋です」
エルシーの部屋はジーンの想像通り、殺風景であった。もちろん置かれている最低限の家具からは高級感が漂っているし、部屋の広さもジーンのアパートとは比べ物にならない。
しかし、彼女の部屋には生活感がなかった。寮住まいだったから、と言われてしまったらそれまでだが、余計なものが全く置かれていなかった。
「なんとなく想像ついてると思うんですけど、私かなりインドアなので、多分一日のほとんどをここで過ごすと思います。色々やりづらいことが多いと思いますが、よろしくお願いします」
「それはつまり、俺もお前とここにいればいいのか?」
「まあ、そうですね……一人になりたい時はちゃんと言うので、それ以外の時は自由に出入りしていただいて大丈夫です」
その台詞はとても年頃の女の口から出てくるようなものではない。ジーンは動揺を通り越して、エルシーの適当さに呆れた。
「お前は俺を信用してるのか」
「えっ?はい、もちろん。尊敬できる先輩ですから」
「違う、そういうことじゃない」
ジーンはエルシーの物言いに頭を抱えた。
「いくら俺がお前の護衛だからって、女が簡単に男を部屋にあげるな」
「でもそれじゃあ護衛にならないじゃないですか」
「それはそうだが……」
「それとも何ですか?大尉は私に欲情してくれるんですか?」
「……は?」
普段のエルシーらしからぬ台詞に驚いたジーンは、間抜けな声を出した。彼女の顔に浮かぶ笑みは、ジーンを嘲笑っているようにも、自身を嘲笑っているようにも見えた。
「冗談ですよ。でも、」
エルシーはジーンに背を向けて、窓に駆け寄ってカーテンを開けた。部屋の中に太陽の光が差し込む。
「大尉にそういうやましい気持ちがあっても、私は別に軽蔑したりはしませんよ」
その声はひどく落ち着いていた。
「……お前、思ってたよりも性格悪いな」
「そうですか?前からこんな感じですよ。まあ、今は軍での上下関係もありませんしね」
ジーンは軍からの命令で護衛をしているため、正式には雇い主と雇われ者の関係ではない。しかし、確かにそこには軍での上下関係とは反対の力関係が存在していた。本来であれば、ジーンがエルシーに敬語を使うべきである。
「これでも一応、肩書きはプリンセスなんですよ。まあ、だから何ってわけでもないんですけど。大尉に敬語使われるのもなんか嫌ですし」
「お前がそう思うなら俺は何も言わないが」
エルシーはジーンのその返しに満足したのか、目を細めた。
ベッドに腰掛けて大きな旅行鞄から荷物を取り出すエルシーのもとへ、ジーンが持ってきた彼女の荷物を運ぶ。
「すみません、持ってもらっちゃって」
「別に構わない。それより、使用人はいないのか?」
「いますけど、あまり数は多くないですね。両親も私も軍人で、あまり家には帰ってこないですし。最低限の人数で回してます」
言われてみれば、生活感がないのはエルシーの部屋だけではない気がした。綺麗に保たれているこの建物は、人が住んでいるという感じがあまりしない。
「住み込みで働いてるのはほんの数人です。料理人さんも庭師さんも、夜には帰ってしまうので。警備員さんは交代制ですけどね」
生活費よりも維持費の方が高くつきそうだと、ジーンは心の中でぼやいた。庶民には理解できない感覚だ。
ジーンも仕事の忙しい時期は家に帰れない日もあるが、それとこれとは恐らく話が別なのであろう。
「私が小さい頃は、おにーちゃんたちが家族ぐるみでよく遊びに来てて。賑やかだったんですけどね」
そう懐かしむエルシーの表情には、一抹の寂しさが感じられた。
「あ、そうだ。賑やかといえば。大尉、パーティー用の服って持ってます?」
それはあまりにも突拍子もない質問だった。
***
ラルフ公爵家に護衛として派遣されて数日が経った。
広い家だったが、大体の時間をエルシーの自室と自分に割り当てられた部屋で過ごすため、特に困ったことはなかった。
エルシーは特に何をするでもなく、ぼーっと過ごす時間が多い。窓の外を眺めるエルシーの傍らで本を読むのがジーンの日課になっていた。
時折一人になりたいと言われて追い出されると、部屋の中からコルネットと思われる金管楽器の音が聞こえてくる。こうやって日に数時間、彼女はどこに披露するでもない楽器の練習をしていた。
そんな折、突然言い渡されたのがパーティーでの護衛だった。
ラルフ公爵家の大広間で行われる貴族を集めたダンスパーティーに、エルシーも参加するとのことであった。
できればあまり人の多い場に彼女を連れて行くのは避けたかったが、休職中の今、パーティーの参加はある意味で王家の娘としての公務のようなものであった。
パーティーに集まるのは皆名の知れた名士であり、ただのお金持ちではなく爵位を持つ本物の貴族である。同伴者や護衛も含めて厳しい入場チェックが行われるらしい。もちろん、素性のわからないものの入場は許可されないし、会場の警備も万全である。色んな身分や経歴を持つ人々が集まった軍とは、まるで違う。
エルシー曰く、こんなところで襲撃を行えるのならば、もっと前から何かしら行動を起こしていただろう、とのことであった。確かに、ただでさえ警戒が強まっているところに犯人グループがやってくるとは思えない。それができるのであれば、警戒が強くなかった時に不意打ちで狙えばよかったのだから。
ジーンは慣れない燕尾服に身を包み、パーティー会場の大広間の隅でワイングラス片手にその様子を眺めていた。燕尾服はエルシーの父親、ヒューバートのものらしい。余所行きの服など持っていなかったジーンに、エルシーは快くこの服を貸し出してくれたのだ。
そのエルシーは挨拶回りに忙しそうだった。社交界に姿を現わすのが久々とのことで、引っ張りだこである。オーケストラの奏でるワルツを、どこかの貴族の息子の相手をしながら、一緒に踊っているのが視界に入る。
ジーンにはもちろん知り合いなどいないので、誰かが親しげに話しかけてくることもない。物珍しさに声をかけてくる客人との会話も適当にあしらい、こうやって一人でエルシーのことを常に気にしながらじっとしていた。
「あらあら。似合ってるじゃない」
知り合いなど、いないはずだった。
しかしそれはとても聞き覚えのある声で、そちらに目を向けるとやはりそこにはジーンの想像した人物が立っていた。
「なんであんたがここにいる」
「あなたと同じ理由よ」
そう言いながらカレンが顎で示した先には、クリスがどこかの婦人と踊っているのが見えた。
カレンはその長身によく映えるロングドレスを身に纏っていた。足元には大きなスリットが入っており、彼女の締まった太腿が覗いている。露出はそこまで多くないが、身体の線がはっきりと表れるそのドレスを着る彼女からは色気が漂っている。
「せっかくなんだから、一曲どう?」
そう差し出された手を、ジーンは受け取らなかった。
「生憎だが、ダンスの心得はない」
「それは残念。私が手取り足取り教えてあげてもいいけれど?」
「遠慮する」
いつもの冗談だとわかっていても、カレンの含みを持たせた物言いに平静を装うのは容易なことではなかった。
「見張っておかなくていいのか、あの男を」
「大丈夫よ。中佐が遊びに選ぶ相手は自分より格下の女性だけだから。自分や家の不利になるような付き合いはしないのよ。だから軍でも下士官ばかりに手を出すの」
「……あんたはそれでいいのか?」
「いいのよ。それとも何?慰めてくれるのかしら?」
カレンは意地悪く笑ってジーンを見上げる。自身の腕をジーンの腕に絡ませると、わざとらしく胸を当ててくるのがわかった。
「やめてくれ」
冗談にしてもタチが悪い。かつて実際にそういう関係だっただけに、その誘いは余計に生々しく感じてしまう。
「えっと……」
カレンの戯れに付き合っていると、前方から声が聞こえた。
そこには料理を盛った皿を抱えたエルシーが、所在無さげに立ち尽くしていた。ジーンは頭を抱えた。
「あら、ご主人様の登場ね」
カレンは愉快そうに笑っていたが、誤解を招きそうなこの状況にそんな悠長なことを言える神経を疑う。
「お元気そうで何よりです、殿下。彼をダンスに誘ったのですが、断られてしまったんですよ。それでは、私は失礼しますね」
カレンは居心地悪そうなエルシーにそう挨拶をすると、風のように去って行ってしまった。
「すみません、邪魔して」
「誤解だ」
「大尉もやっぱり、ああいう色気のある女性には弱いんですね」
「だから誤解だ」
ジーンは否定をするが、エルシーは疑いの目を向ける。彼女は小さく溜息をつくと、手に持っていた料理を取り分けた皿をジーンに渡した。
「テラスに行きませんか?少し疲れてしまって」
先ほどまで代わる代わる貴族の相手をしていたエルシーは、苦笑いを浮かべながらジーンを連れ出した。
***
エルシーはまだ未成年であったが、この国では十八歳からお酒が飲めるため、テーブルには赤ワインが乗っている。
彼女は年頃の少女らしい清楚なイメージのドレスを身に纏っていた。若草色の膝丈のスカートが彼女の純朴さによく合っている。
普段はボサボサの髪の毛をそのままにし、ほとんど化粧もしないエルシーだったが、今日は髪の毛も結われており化粧も施されていた。いつもの彼女とは少しイメージが違う。
「カレン・チェイン中尉ですよね、さっきの。おにーちゃんのところの。随分と馴れ馴れしかった気がするんですけど」
「……カレンは士官学校時代の先輩だ」
「へえ。先輩なのに、そんな風に呼び捨てにするんですね」
エルシーは料理を食べながら、淡々と先ほどの状況について説明を求めてきた。
「付き合ってたんですか?」
「付き合ってはいない」
「ふうん」
ジーンのことをまるで信用していない風であった。いっそのこと怒るなり軽蔑するなりしてくれたらこちらも弁解の余地があるものの、こうも淡々と事実確認だけ迫られてしまうと逆にやりにくかった。
「その言い方だと、セックスはしてますね」
突然の彼女に似つかわしくない単語に、ジーンは飲んでいたワインを咽せてしまった。
「図星ですね」
「お前な……」
ナフキンで口元を拭いながら、ジーンはエルシーに忌々しい視線を送る。彼女は全く動じず、自身もワインをあおっていた。
「友だちいないとか言ってたくせに、そういうことする相手はいたんですね」
「カレンは先輩であって友だちじゃない」
「此の期に及んでそんな屁理屈言うんですか」
「事実だ。大体、そもそもが四年も前の話だ。今は全く連絡も取ってないし、さっき会ったのだってただの偶然でそれ以上でもそれ以下でもない」
なぜ自分がこんな風に弁明をしなければならないのかは謎であったが、エルシーの言葉にはそうさせるだけの圧があった。
「私のこともエルシーって呼んでください」
「は?」
突拍子もないその台詞に、ジーンは思わず聞き返した。
「おにーちゃんの女のことはファーストネームで呼ぶのに、私のことは階級呼びなんて、なんか嫌です。それに、あなたの護衛対象の私は軍人ではないですし。だから、エルシーって呼んでください」
エルシーは言いづらそうに、しかしはっきりとそう言ってみせた。先ほどからフォークとナイフで器用に切っている肉料理は細かくなる一方、全く口に運ばれていなかった。
「それで気が済むならいくらでも呼んでやる。エルシー、機嫌は直ったか?」
「別に機嫌悪くなんてない、です」
エルシーは照れ臭そうにはにかみながら、素直じゃない言葉を口にした。照れ隠しなのか、グラスに注がれていたワインを一気に飲み干す。ジーンはその様子を呆れながらも穏やかな気持ちで眺めていた。
しかし、そんな穏やかな気持ちで居られるのも束の間であった。
「おい、エルシー……お前、」
「ふぇ?」
ガチャ、という音ともにエルシーの手からナイフとフォークが離れる。ナイフは皿にぶつかってテーブルの上に、フォークは床に落ちる。
「あれ……おかしいな……」
エルシーは疑問符を浮かべながら、落としたフォークを拾ってもらうために、給仕に向かって手を上げようと椅子から身を乗り出した。
そしてそのまま、ドサリと椅子から転げ落ちたのだった。
***
どうやらあの時エルシーは本人の許容量を超えたアルコールを摂取していたようだった。あの場で気丈に振る舞っていたのも全て強がりで、内心は気が気ではなかったのかもしれない。いつの間にかエルシーのワインを飲むペースが早まっていたことに、ジーンは気がつかなかった。
ジーンはすっかり酔い潰れたエルシーを彼女の自室へ運び、使用人を呼んでドレスを着替えさせてベッドに寝かせた。扉の外で彼女の着替えが終わるのを待っていると、使用人の女性が部屋から顔を出した。
「お嬢様が、大尉殿を呼んできて欲しいと仰ってますが」
「意識はあるのか」
「はい。どうされますか?大尉殿もお疲れでしょうし、お部屋に戻られても」
「いや、いい。後のことは俺がやる。こうなるまで放っておいた俺の責任だ。わざわざ手間をかけて済まなかった」
ジーンは溜息をつきながら、使用人の女性に謝罪をする。近くで見ていたのに彼女の異変に気がつくのが遅れたのは、護衛として情けないことこの上なかった。
「いいえ、これが仕事ですから。それでは、何かあったらまたお呼びください」
使用人は嫌な顔一つせずに、そう告げて一礼してから持ち場へ戻って行った。
ジーンは扉を開けて、部屋に入る。ここ最近ですっかり見慣れた部屋である。エルシーが寝ているベッドに歩み寄り、その傍の椅子に腰掛ける。
「調子はどうだ」
「ん……大尉?」
ジーンに気がついたエルシーがこちらに身体を向けた。顔はほんのり赤く、アルコールはまだ抜けていないようだった。
「なんか、フワフワします。こんなの初めてで……」
「飲み過ぎだ。もう今夜はそのまま寝てろ」
ジーンはエルシーの髪の毛に手を伸ばす。髪が口に入っていたのを取ってやった。
すると、エルシーがその手を弱々しく握ってきた。
「どうした」
握られた手を解くことをせずに、ジーンはエルシーに問いかけた。
「夢を、見るんです。あの時の……」
エルシーの言う『あの時』とは、恐らく軍隊記念日のことだろう。入隊して一年しか経っていないエルシーにとって、あの日の出来事はあまりにも鮮烈すぎたはずだ。
「眠るのが、怖いんです。だから……手、握っててください」
そう言って弱々しくもしっかりと、エルシーは力を入れてジーンの手を握った。
「お前が寝付くまで、こうしておいてやる。だから心配するな」
自分でも信じられないくらい優しい言葉であった。こんな風に誰かに話しかけることなんて、まずなかった。
「……一緒に寝てくれてもいいんですよ」
「やっぱりお前酔ってるだろ」
ジーンはもう片方の手でエルシーの額を小突いた。彼女はわざとらしく小さな呻き声を上げた。
***
「大尉はチェイン中尉のどこが好きだったんですか?」
あのパーティーから一週間ほど経った昼下がり。ベッドに寝転がりながら、何をするでもなくだらだらと過ごしていたエルシーが、唐突にそう質問をした。
ジーンは読んでいた本を思わず床に落としそうになったが、すんでのところで耐えて見せた。
「何の話だ」
「年上好きなんですか?それともやっぱりあの見た目ですかね。すごく色っぽいですもんね」
「お前また酔ってるのか」
「私が真昼間からお酒なんて飲むわけないじゃないですか」
そう言ってエルシーは唇を尖らせた。ジーンは大きく溜息をつく。
「だから、俺とカレンは別に付き合ってたわけじゃない」
「でもセックスはしたんですよね」
「……」
容赦のない追撃に、ジーンは反論する言葉が思いつかない。関係を持ったことは事実のため、否定するのは嘘をつくことになるので気が引けた。
「どうしてお前がそんなことを気にするんだ」
「女っていうのはですね、色恋沙汰に興味を持ってしまう生き物なんですよ」
「人のことを気にするより、自分のことを考えたらどうだ」
「当て付けですか?自分が童貞じゃないからって調子乗ってますよね」
「お前……仮にも王家の人間がそんな品のない言葉を使うなよ」
「大体、こんな無駄に広い家の中で育てられたらそりゃ出会いなんてあるわけないじゃないですか。男どころか、友だちだってできやしない。価値観も狂うし、そのせいで士官学校でも全く馴染めなかったし」
ぶつくさと文句を並べるエルシーを、ジーンは呆れた表情で眺めていた。実家にいるということで部屋着はちゃんとしたものを着ているものの、ベッドに寝転がるこの状況は傍から見て王家の人間とは思えないようなだらしなさであった。
「……今日は随分と饒舌だな」
「溜まってるんです。こんなところに閉じ込められて。それに、この前のパーティーで酔ったところ見られてますし……もう何も包み隠す必要なんてないかなぁ、って」
「それは結構なことだが、だからと言って俺のプライベートを探るのは感心しないな」
「だって気になるじゃないですか。部屋で二人きりですよ。なのに大尉は全く下心とか見せないじゃないですか。こんなに隙だらけにしてるのに。やっぱり私にはチェイン中尉と違って色気がないから……」
「お前は一体何を言っているんだ」
エルシーの思わせぶりな言葉を一蹴すると、ジーンは読みかけの本を机の上に置く。
「大尉、ちょっとこっちに来てください」
「なんだ?」
ジーンは何の疑いも持たず、ベッドに寝転がるエルシーのもとへ行く。寝転がっていたエルシーも起き上がってベッドに腰掛けた。
「手、握ってください」
「なんだ突然」
「いいから」
座っているエルシーが目の前に立っているジーンに両手を突き出した。ジーンは訝しみながらも、その両手を自分の両手で握った。
すると、突然強い力で引き寄せられた。
「くらえっ」
そんな掛け声と共に、エルシーが身を乗り出して、ジーンの首筋に噛み付いた。
突然のことにジーンは何が起こったか理解するのに数秒を要した。首筋に鈍い痛みが走る。エルシーはくっきりと歯型がつくくらい強く、ジーンの首筋にかぶりついていた。
「おい、お前何して……」
ジーンは慌ててエルシーを引っぺがし、彼女の肩を掴みながら向き合った。エルシーはけろっとした顔でこちらを見つめている。
「すみません、つい」
「言い訳にすらなってないが」
「だってあまりにも無防備だったから」
今ジーンの目の前にいるのは本当にエルシーなのだろうか。ジーンの知るエルシーは、真面目だが卑屈で歳の割に既に人生を諦めたような残念感が漂う後輩だったはずだ。
「お母様が、とりあえず適当に押して行け、と言っていたので」
「全く以って意味がわからない」
そういえば、昨日からルヴィアがこの家に戻ってきていた。どうやらテロの件が関係しているようである。王家は狙われているから危険だ、という理由で仕事がもらえない、と夕食の席で嘆いていた。
「あのですね、大尉」
「なんだ」
「私も馬鹿ではないので」
「……そうか?」
「前から思ってましたが本当に失礼ですね」
「この状況を見て馬鹿だと思わない馬鹿はいないと思うが」
「馬鹿馬鹿って連呼しないでください。それでですね、本題に入りますと」
「……本題?」
中身のないやり取りを続けていると、エルシーは一呼吸置いてこちらを見た。
「私、大尉のことが好きになっちゃったみたいなんですよ。多分」
あまりに直球な告白に、ジーンは唖然とした。
「……お前、本当にエルシーか?双子の妹とかじゃないか?それとも頭でも打ったのか?」
「どれだけ信用ないんですか」
ジーンの返答に、エルシーは眉根を寄せる。
「……一応聞くが、理由はなんだ」
「理由?好きになった、ですか?そうですね……吊り橋効果、ってやつですかね」
「そうか、一時の思い込みだな。さっきのは忘れてやるから、早く目を覚ませ」
「なんでそうなるんですか!」
あくまで受け入れるつもりのないジーンに対して、エルシーは必死に食らいつく。その様子があまりにも可笑しくて、ジーンは頭がパンクしそうだった。
「大尉がチェイン中尉と仲良くしてるの見てたら、モヤモヤしちゃって。それを昨日お母様に話したら、それは嫉妬だって。大尉のことが好きなんだろう、って」
「随分とタイムリーな話だな」
「仕方ないじゃないですか。想いって人に相談とかすると加速してしまうらしいんですよ。お母様の受け売りなんですけど」
「お前の母親、見た目に寄らず恋愛脳なんだな」
「そりゃあ、もう。お母様って私の年齢の頃には既にお父様とよろしくやってましたから。あの二人って結構歳の差なんですけどね。お父様、ロリコンだったんですかね」
とんでもない言葉を口にしながら喋るエルシーに逐一突っ込みを入れるのも面倒になり、ジーンは小さく溜息をついた。
「で、お前は俺にどうして欲しいんだ」
「どう……?すみません、そこまで考えてませんでした。なにぶん、人を好きになったことなんてないもので」
「そうか。じゃあ、この話はなかったことに」
「ええっ!そんなぁ」
ベッドの側から離れようとするジーンの腕にエルシーが絡み付く。ジーンはそれを振り払おうとするが、曲がりなりにも軍人であったエルシーがそう簡単に振り落とされてくれるわけもなかった。
「大尉は私のこと嫌いですか?」
「少なくとも、恋愛感情はない」
「直球ですね……さすがに傷付きます」
「それに、お前相手に何か間違いが起こったら、俺は社会的に抹殺されるだろ」
エルシーは王家の人間だ。そう簡単に手出ししていいような相手ではない。そして、万が一にも間違いが起こってしまったら、ジーンは今のままではいられなくなるだろう。
「やっぱりチェイン中尉みたいに色っぽくないと駄目か……」
「お前、俺の話聞いてたか?あと一々カレンのことを引き合いに出すな」
「わかりました、私努力しますね。髪の毛も化粧も、ちゃんとします。スタイルはどうにもならないけど……」
「だから、そういう問題じゃ」
「あっ、もうこんな時間。ちょっとコルネット吹くんで外出ててください。二時間くらい」
ジーンの言うことを完全に無視して、エルシーはさっさとコルネットを吹く準備に取り掛かっていた。
ジーンは最後までこのやり取りが腑に落ちなかったが、出て行けと言われたら出て行くしかないため、エルシーの部屋を出た。どっと疲れてしまったためか、机の上に置いた読みかけの本を持って来るのを忘れてしまった。
「お、」
扉の前で溜息をついていると、目の前から聞き覚えのある声がした。慌てて顔を上げると、そこには銀髪の女性が立っていた。
「閣下……」
「その顔から察するに、エルシーに相当してやられたみたいだな」
エルシーの母、ルヴィアは蒼い目を細めながら愉快そうに笑った。元はと言えばこの人がエルシーに変な入れ知恵をしなければこうはならなかったのだ。
「あなたは何をお考えなのですか」
「別に。娘の恋愛相談に乗っただけだ」
「俺みたいな一介の軍人如きが、手出していい相手じゃないんですがそれは」
「お前は自分を過小評価しすぎだ。『最強の盾』の二つ名は伊達じゃないだろう。実際、お前は才能も実力もあるしな。前みたいに問題を起こさない限りは昇進だって約束されている」
「その二つ名だって、先に『最強の矛』がいたからそう呼ばれてるだけですよ。俺の『能力』は彼女のそれに比べたら欠陥だらけですから」
ジーンはエルシーの暴走を止めたことでルヴィアたちから評価されているものの、決して万能の力ではないことは自分が一番理解していた。『能力』を『無効化』できる『能力』は、聞こえは良くても結局は使い道はそれしかないのだ。銃弾やナイフの攻撃には耐えられないし、そのロジックを見抜かれてしまえばたちまち不利になってしまう。
「ところで、どうされたんですか?こんなところに」
「いや、ちょっとエルシーに野暮用があったんだが……コルネットを吹き始めたなら邪魔するのも悪いな。また出直す」
そう言ってルヴィアは長い銀髪を翻しながら、踵を返した。今日は髪の毛を結っていない。彼女の美しさに不釣合いな臙脂色の軍服も、身に纏っていない。落ち着いた色のワンピースとカーディガンがよく似合っていた。
「ああ、そうだ」
ルヴィアは何かを思い出したのか、こちらを振り向いた。
「エルシーに手を出すのは構わないが、決してうちの旦那には言わないことだ。あの人はお前をエルシーの護衛につけることもだいぶ渋ったからな。親バカなんだ」
「……言われなくても。そもそも手を出すつもりなど全くありません」
「そうか。それは残念だ」
一体何が残念なのか理解に苦しむが、ルヴィアは颯爽と去って行ってしまった。