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城崎を歩く

作者: 空蝉

「山手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした。」という理由で、観光で鳴らす城崎に来る人はもはやいまい。されど、「城の崎にて」において描かれた町、文学の薫る町を目当てに訪れる人は少なくない。私もその中の一人であった。

とは言っても、城崎に取材に行ったわけではなかった。大学時代の同期と久方ぶりに旅行でも行かないか、という話になったので、文学を好む私が提案した城崎に行くことにしたのであった。

当日は昼過ぎに現地集合ということにしたが、私は町をひとり漫ろ歩きたかったので、七時過ぎに梅田駅から高速バスに乗った。バスは途中で、青垣の道の駅で一度休憩を挟み、特に遅滞なく十時を少し回った頃に城崎温泉駅に到着した。

着いてすぐに私は裏道に入った。大谿川の沿道は友人と堪能しようという魂胆からであった。細い道を行くとすぐ左手に教会が現れた。城崎という温泉地の開湯の起源のひとつが仏教に由来するだけに少し意外な気持ちがした。そのまま道なりに進んで行くと墓地がある。何気なく墓石を眺めていると、十字架の形をした墓石がある。仏教と耶蘇教の墓石が町外れの斜面に並ぶ姿は、和洋折衷と呼ぶには余りにも日本的な佇まいであった。

道は途中で川にぶつかったので、上流の方へ歩いて行くことにした。板張りの塀を横目に歩いて行くと、極楽寺という寺がある。枯山水庭園を有する禅寺で、数多の文豪の愛した鄙びた雰囲気を今に伝えているようであった。

さて、極楽寺のほど近くに温泉寺という寺がある。時間も充分にあったので、温泉寺の奥の院まで行ってみることにした。山門の奥にある階段を登って行く。苔生した参道を歩いていると、確かに息があがるはずなのだが、不思議と心身ともに静まっていくのが感じられる。じきに、ロープウェイ温泉寺駅に到着したが、奥の院までは、まだ半分以上の道のりがあった。景色を一瞥して、急な坂を上がると、また墓がある。墓前を通過すると舗装されていない山道を登ることになる。粘土質の路面で一度大きな尻餅をついたが、それすら滑稽で愉快な登山であった。

山頂につくと城崎町が一望できる展望台がある。三方を山に、一方は川に囲まれた町は、要害というより揺籃を彷彿とさせる静けさを湛えていた。

下山するにあたり、城崎に行く直前にとある友人から偶然聞いた「予期悲嘆」という言葉を思い出した。簡単に言えば、「死ぬことに対する悲哀と喪失」を意味する言葉である。そして、「城の崎にて」を思い返してみた。生と死について考えてみることにした。作中の主人公は、自らの怪我が致命的でないにも関わらず、脊椎カリエスを怖れ、城崎まで湯治に来ている。一方で、作中で描かれる蜂,鼠,イモリはそれぞれ、突然の死や理不尽な死を象徴している。予期悲嘆までしても生き残ること、予期せぬ死を迎えること。ひいては、生きることと死ぬこと自体が両極でない。そう結論して、小説は終わる。

私は範囲を拡大して、生物と無生物の垣根自体が曖昧だと考えてみた。例えば、川の「死」が海に流れ込むことだとして、小川のせせらぎ、雨上がりの濁流などの過程に違いこそあれ、確実に死に向かって進んでいる。だが、そこに意志は介在しない。同様に、生物の死への動騒も俯瞰してみれば、川の流れの緩急に過ぎないのではないだろうか。

気がつくと大谿川を下りきり、円山川との合流地点まで来ていた。円山川と合流してからは河口まで近い。

私は踵を返すと、集合場所の駅に向かった。

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