第四十九話 VTOL
VTOLと聞いて何を思い浮かべるだろうか?
ピンと来た人はその通り、ハリアーとかオスプレイの事を指す。
ただ、ハリアーというのは非常に扱いが難しい機体で、実用化初期には事故が多発して本当に酷かったらしい。日本でオスプレイを未亡人製造機だとか、危険な機体だとか、欠陥機だとか言っていたが、ハリアーこそその称号にふさわしいだろう。
なにせ、オスプレイはレバー一本に装備されたスイッチを数個操作するだけで離着陸が容易にできる。普通の飛行機やヘリコプターと操縦難易度はさして違いはない。それに対してハリアーはいくつものレバーやボタンを操作しなければ離着陸ができない。
その違いは何かというと、コンピュータの違いといえる。ハリアーが作られた時代には速度や風速、ノズル角度などを瞬時に計算して最適化してくれるコンピュータなど未だに実用化しておらず、大半をパイロットが手動で操作していた。
それに対してオスプレイはコンピュータが計算して自動的に最適値を引き出して自動で調整してくれるため、よほど誤った操作をしないと墜落しないようにできている。コンピュータの進歩が安全性を高めているのだが、衝突防止装置やABSなど、自身が乗る車で恩恵を受けていながら、そのことが理解できない人々がオスプレイに反対していたのだろう。なにせ、衝突防止装置やABSがあったからといって、事故はゼロではないのだから。
閑話休題
そもそも、VTOLは垂直離着陸機の事で、長らくその地位を独占していたのはヘリコプターだった。
前世でのヘリの歴史はというと、亡命ロシア人技術者がアメリカで開発したヘリコプターが最初であるとされる。
そう、ロシア人。探したよ。すると、彼は極東ロシア公国に居た。
昭和二(1923)年にコンタクトを取ることが出来た。すでに彼は飛行機開発に着手しており、同時に垂直離着陸機の構想をすでに語っていた。
ロシアはまだ混乱の続く中だったが、彼への資金援助は最優先で行った。いきなり日本人から援助されても困惑するだろうと、アナスタシア名義で行っていたのだが、それをどう受け取ったのか、彼はニコライ・エアクラフトという会社を設立してしまった。名前が違うんだが・・・
そして、昭和八(1929)年には世界初の四発大型機を完成させた。しかし、大恐慌のあおりで三年ほどお蔵入り状態となり、昭和十一(1932)年に日露両軍が数機を発注し、哨戒機として運用することになった。
初期の四発機だけに、機体規模は大したことはなく、昭和十四(1935)年には双発の改良型が作られている。
前世の20年代から30年代の飛行機の発展をわずか数年でかっ飛ばすその驚異的なスピードにはさすがに俺も付いていけなかった。
ニコライ・エアクラフトでもそんなことを考えたのだろう。大型機開発に早々に見切りをつけるかのように、この頃からヘリコプター開発に注力しだしている。
昭和十六(1937)年、とうとう世にターボプロップエンジンが発表されたが、真っ先に飛びついたのは飛行機メーカーではなく、ニコライ・エアクラフトだった。
いくつかの種類がこの時点で発表されたが、すでに実機がある小型のエンジンに目を付けてきた。エンジンの大きさの割に馬力がある。しかし、瞬発性で見るとどうしてもガソリンエンジンの方が良い。
つまり、エアレーサーや戦闘機には向かないエンジンだった。しかし、ヘリコプターには関係がなかった。
エンジンメーカーと専用エンジンの開発に入り、わずか一年で世界初のヘリコプターを飛行させるまでになっている。
「こいつに磁気探知機と小型爆雷を積めないだろうか?あと、輸送型・・・」
他国の企業だが、エンジン開発の関係で日本にも支社があり、当然、日本軍も哨戒機を使っている。
そうそう、哨戒機にも対潜任務を行えるように磁気探知機やレーダーを装備して爆雷を積んだ型の試作依頼を出している。そのついでに、ヘリについても依頼してみた。
試験飛行がようやく終わったばかりの実験機しかない段階で無理な要求な気はしたが、とりあえず聞いてみた。
それがどうやらヘリコプター開発のコンセプトとなって開発が加速することになったのだから何が起きるかわからない。
まだまだ試行錯誤の状態だが、完成は五年程度でどうにかなるだろうと言われている、昭和二十二(1943)年あたりには出来てくるのかな?




