第二十話 明治から大正へ
コロンビア号事件の後、警備艦隊ではある試験が行われた。
前々から指摘していたのだが、この試験でやはりという結果となる。俺もやらかした。
それはなにかというと、人質救出能力について。
現在の乗り込み隊は海賊船の制圧や掃討が目的であって、人質救出を前提にはしていない。人質救出を前提にした突入訓練をやると人質も海賊も諸ともぶっ放す状態になる。
すべての乗り込み隊員が能力を持つのが理想だが、現状ではまず、選抜した特別チームを設ける事が一番との結論に達した。
前世でサバゲーの経験があった俺は誤射が少なかったので、宮さま枠など無くとも選抜組に入れた。
そこから半年にわたる特訓を積み、特別乗り込み隊の一員となったのだが、その頃にはアメリカによる朝鮮攻撃が目前の状態だった。
明治四十四(1911)年に入るとアメリカによる朝鮮沿岸砲撃で海賊村もかなりの被害を出している。
そして、攻撃が終るとロシアによる併合の動きが加速し、五月には併合が行われ、日露間には新たな協約が結ばれる事になる。
この協約では、ロシアが陸上だけでなく海上での警備も担うことになり、日本による黄海警備は縮小される事になった。
黄海警備の縮小はロシアの準備を待つことになり、さしあたっては日本から壱岐型警備艦を購入して充てるということで、済州や佐世保ではロシア軍人への教練が行われ、明治四十五(1912)年春にはロシア軍にも警備艦隊が正式に発足し、釜山、元山、仁川等に艦隊が配置され、日米露は黄海警備協定を結び互いに協力していく事になる。
この頃にはロシア軍、警察による陸海の取締りにより海賊は下火になり、一部の島嶼部を除いて安全宣言が出されるに至る。
この為、警備艦隊では、黄海や日本海の朝鮮沿岸海域に集中的に配備していた艦艇を全国各地に配備し、救難や漁業監視を主軸にした任務へと段階的に改編していく事になった。
その中で、乗り込み隊も海賊制圧から海難救助や漁船臨検へと役割が変わり、制圧、掃討、人質救出を任務とするのは特別乗り込み隊に限定されて行くことになる。
そうした改編の混乱がおき始めた七月、海保を参考にした沿岸警備組織作りを考えているところに、父が病気に倒れてしまったとの報が届けられた。
来るものが来てしまったと半ば緊張した。
「嘉仁と共に頼むぞ」
それが父の言葉だった。そして、俺は重ねて乃木大将の殉死阻止を頼み込んだ。
七月三十日、とうとう父が崩御。兄が践祚し元号が大正へと改められた。
その少し後に裕仁親王に会い、彼が成人するまでは何があっても死ぬなと父が乃木大将に伝えていることを聞かされた。
九月十四日、新聞に乃木大将の殉死の報はなく、裕仁親王の養育の任を続けているとの話にホッとした。




