第十五話 半島情勢
明治三十九(1906)年に日露協約が結ばれ、朝鮮半島は非武装化が求められたがそれをすぐさま実行するのは難しかった。
大韓帝国はロシアによる侵攻によって高宗が救出され、存続こそしていたが、国内は乱れ、各地で親日派による抵抗が続いていた。彼らは戦前、戦中に日本から持ち込まれた武器で武装し、満足な装備を持たない政府軍に対して優勢な状態だった。
この状況を見たロシア政府は日本の関与を疑い、様々な要求を行う。
その中には日本へ留学や就労目的で入国していた朝鮮出身者の帰国、朝鮮人名義の資産の凍結、日本人の朝鮮渡航の禁止、朝鮮への送金、交易の停止、在朝鮮日本人の帰国等が含まれていた。
日本側ではこれを口実にロシアが再び開戦するのではないかと慌てて要求に応じて各種措置を講じている。その中で社会主義者取締りや密輸、密航業者摘発なども同時に行われ、疑獄事件も複数発生している。
そうした混乱もありながら、一年に満たない期間でロシアに対して一定の成果を出し、日本に再戦の意思が無い事を示して見せた。
ロシア側でも韓国内での争乱の早期鎮圧の為に軍を投入しながら力押しで平定を行ない、日本人数百人を送還している。もちろん、日本の海賊対処にも協力的で、その態度に日本が驚く程だった。
これには日露の認識の違いがあった。
日本側の政府関係者にとって、陸軍の評価はすこぶる低く、海軍は能力はあるが、ロシアが再び戦端を開けば本土上陸は避けられないと恐怖していた。それが形振り構わぬ対処に繋がっていた。
かたやロシアはというと、秋山好古や乃木希典の巧みな戦術を高く評価しており、日本陸軍が朝鮮の親日派に呼応されたら朝鮮喪失は必至との観測をしていたという。
こうしたお互いの認識にズレが生じていたことがこの場合は功を奏し、お互いに衝突回避に全力を傾ける結果となった。
もちろん、全てが巧くいったわけではない。逃げ場を失った親日派は海へと逃れて多島海や峻険な海岸沿いの漁村に逃げ込み海賊勢力が増加する結果を招いている。
親日派であった彼らの多くは日本の敗退に接し、日本への友好など捨てており、更には日本が戦後の闘争を支援しなかった事で反日はピークに達し、さながら海上テロのような激しさであった。
こうした状況の変化の中で海賊取締りへの協力を求められた韓国政府が本気で取締りをするわけもなく、昨日の敵は今日の友とばかりに親日派から転向した海賊を裏で支援する有り様だった。
その上、ロシアに対しても日本よりも朝鮮投資が少なく利権要求ばかりが多いと不満を募らせ、翌年にはハーグで行われていた万国平和会議に使節を送るハーグ事件を起こし、ロシアによる締めつけがより厳しくなっていく。それは海賊行為の活発化へとエネルギーを逸らして行くことになるが、それも明治四十一(1908)年の半ばを過ぎると壱岐型警備艦の整備と艦隊の編成が進み陰りを見せ始める。向かう場所を押さえ付けられた朝鮮の不満は更なる悲劇へと向かうが、それは朝鮮宮廷内の新たな派閥抗争が向けた矛先でもあった。