第十二話 戦後の情勢
明治三十九(1906)年一月、前年末に結ばれたクリスマスじょ・・ゲフン、ポーツマス条約によって日本軍は遼東半島からの撤退を開始していた。
しかし、戦争が終わってなお、海賊行為が無くなることは無く、帰国船団への襲撃が起きていた。
こうした軍直属の船団や軍艦ならば有効な防護手段も持ち合わせていたが、日本軍の撤退以後も海賊行為が続き、被害範囲は黄海から対馬海峡、日本海にまで広がりを見せた。
日本は韓国側に取締りを求めたが、この時既に露韓講和条約により非武装化しており、海上警備はロシアに移管されていた。
そのロシア自身が日露戦争で太平洋艦隊が潰滅し、全く機能していないのだから取締りなど出来る筈もなく、日本は韓国、ロシアと協議の上で取締りを一任されることになった。
こうして、戦争終結からわずか数ヶ月で日露協約が結ばれ、日本の朝鮮半島への不可侵と海賊取締りの一任、ロシアの朝鮮半島での利権獲得と軍港不使用が確認されている。
こうして本格的に海賊取締りを始めることになるが、問題は使用する艦船だった。
巡洋艦や商船徴用による活動に対し、韓国は通商破壊と騒ぎ立てるばかりで全く協力的ではなかった。困った海軍は何故か俺に話を持ってきやがる。どうしろと・・・
そんなものに解決策など持ち合わせては居ないが、適当にあしらっておいた。
「ただの学生にそんなこと言われても・・・、いっそ、船体を白く塗って機砲程度の装備に抑えた警備艦隊を作ればどうでしょう」
サラッと巡視船みたいな船のスケッチを書いて渡しておいた。
一年しないうちにそのスケッチから書き起こした設計によって、警備艦なる艦種が出来上がりやがった。どうしてそうなる・・・
壱岐型警備艦
排水量 約700トン
全長 67メートル
幅 8メートル
主機 レシプロ一軸
出力 2000馬力
速力 17ノット
武装 12斤砲1門、
6斤砲3門、機関銃若干
という内容となっていた。砲は駆逐艦と同等で特に特筆するものはないが、配置は艦首側に6斤砲2門、艦尾側に6斤砲と12斤砲の背負式になっていた。形が時代に合わない、まるで第二次大戦中の米護衛駆逐艦だが、幸いなことにどこの国も興味を示して来なかった。レベルの低い低級艦艇であることは確かだが・・・
こうして完成した警備艦隊は実際に船体を白く塗っており、通常の艦隊と区別して扱われることになる。
もちろん、単に低級艦艇を作った訳ではなく、背負式配置の実証や量産体制のつくり方、民間への鉄船建造技術の普及という役割を担っている。
この警備艦が後に発展して船団護衛に活躍したり、警備艦隊が海軍から独立した沿岸警備隊となるのだが、それは別のはなし。
明治四十(1907)年には遼東半島への米軍展開や米国人の転入が本格的に始まり、地域に新たな展開を見せていたが、日本にとっては専ら海賊取締りが話題の中心だった。
警備艦隊が順次編成されて、済州、対馬、隠岐、竹島(日本が鬱陵島を占領したことで竹島へ復名、竹島も松島へ)等に警備所が設けられて海賊取締りを本格化させ、米国と協議して大連港にも常時寄港出来ることになった。
もちろん、「現代倭寇」が簡単に鎮静化する事もなかったが。