外伝4 それからの日本1
昭和二十七(1948)年十月。
日本でこの月に起きた大事件と言えばマンチュリスク事件と誰もが答えることが出来るのではないだろうか。
二度目の転生後、俺がこの事件に触れたのは記憶を取り戻してすぐだった。それほど事件は有名なモノで、歴史の授業となると常にここに触れるのは当然の事。
「岩崎~、嫁ばかり眺めてないで授業に集中しろ」
今もとうとう歴史の授業は明治から大正、そして、あの事件へと至っている。
今では教師にまでこんな扱いだが、それは気にしてはいけない。
授業は淡々と進むのだが、この事件の内容を初めて知った時は衝撃だった。
マンチュリスク事件は俺を狙って起きたわけではない。元々はマンチュリスクの米国人街を標的に計画されていたという。
現に、俺以外にも米国人企業家が複数殺害されている。そして、事件はマンチュリスクに留まらず、遼東半島やコリア半島にも及んでいる。
これを総称して朝鮮動乱と呼ばれ、マンチュリスク事件が発端という教え方が日本では主流となっている。
事のあらましはマンチュリスクを初め、各地でわずか数日のうちに同時多発的に起きたコリア人を中心とした武装蜂起だった。
済州島事件によって、一時は壊滅したと思われていた朝鮮独立党だが、一部が大陸で共産勢力の支援を受け、細々とだが半島へも出入りを繰り返していたという。
事が大きく動いたのは大陸における共産軍の大反攻だった。撤退を続け、規律の緩んだ米軍の隙を突いて黄海を渡り、半島へ、混乱の続く渤海沿岸を満州族に紛れてマンチュリスクや遼東半島へと共産軍による訓練が施されたゲリラが侵入し、コリア族に対して反米を説いて回り、組織を大きくしていった。
そもそも、遼東半島を得た米国は現地でコリア人を奴隷として扱い、黄海の治安維持のため、ロシア帝国より海賊狩りを実施する権利を得て以降、それを理由に沿岸部において昔米大陸西部で起こっていたような「狩り」を再現していた。
ロシア革命の後には十分な統治能力が無いロシア公国政府を支援する目的で半島の治安維持に乗り出している。当然、そこにはニコライ二世やミハイル大公との密約があったであろう。
こうして、半ば半島を遼東半島の属領の形で経営していたが、その実態は酷いものだったという。
済州島事件もそうした流れの中で起きているのだが、その点、俺も特に半島に興味もなく、放置していた。
済州島事件以後、米国は半島において相当な独立党狩りをやっていたらしいが、それが結果的にはマンチュリスク事件へと繋がってしまったのは、まあ、当然の帰結だっただろう。
そして、昭和二十八(1949)年に入ると、米軍による朝鮮掃討が始まる。それは何も残さない虐殺といった様相であったというが、日本もそこに加わっている。
はじめて聞いた時にはあ然とした。いや、正確には、アイツならやるだろうという感想も持ったが。何より腹が立ったのは上総宮の名を利用して総理の座をアレが手に入れたことだろうか。
そう、あの鶏だ。威勢が良いだけの空っぽ野郎の鶏が総理となり、半島に介入していた。
まず、順を追って説明すると、マンチュリスク事件の発生した十月十五日、時の内閣は俺を守れなかったとして衆議院を解散し、総理は選挙後の辞職を確約している。つまり、次の総理を選挙で選ぶという話になったようだ。
そこで奇声を上げ、人気を総なめしたのが鶏の改新民主党だった。あれだけ俺を批判していた鶏は三歩歩いて当時のことなど忘れていたのだろう。まるで昔から尊敬していたと言わんばかりの演説をぶって支持を集めて回っていた。
当然、その第一の公約は朝鮮誅罰だ。奴は民国と戦争できなかった腹いせに半島で一儲けすることを選んだらしい。
十二月に行われた選挙で見事第一党の座を射止めた鶏はその勢いのまま米国やロシアと協議し、日本も半島へ出兵することを決定する。
ただ、これと言って目的がある訳ではない。本当に単に戦争指導がしたかっただけで中身などなかった。
しかし、上総宮夫妻、きっと半ばアイドルだったアーシャ殺害への復讐に燃える国民は鶏のスッカラカンな中身など気づきもしなかったようだ。
多くの支持を得て日本軍が半島に上陸したのが二月半ばの事だった。
この頃にはロシア軍も加わって半島全土で蜂起した独立党鎮圧が本格化していた。日本は平定の終わっていない山間部へと分け入り、掃討戦を展開することとなったのだが、当然、指導者がアレである。緻密で地道な作戦が要求されるはずのところに戦艦による艦砲射撃や爆撃機による爆撃と言った派手な作戦をしつこく要求する鶏によって、無意味な砲撃、爆撃が行われていくことになる。そうして村や町が跡形もなく消えていく。
平野部では米軍がほぼ制圧を完了した八月、米国で大問題が起きた。
たしかに、殺朝感情が支配する米国ではあったが、とある地方紙が朝鮮において町の住民を数千人に渡って無差別に殺戮して回ったという記事を載せると、都市部を中心に反対運動が起きることとなった。
確かに、「善いコリアンは死んだコリアン」と言って憚らない米国ではあっても、無抵抗の住民を無差別に殺して誇る事への抵抗があったらしい。
それは少しの間をおいて日本にも飛び火した。
なにせ、日本ではまるで米国人の様にコリアン殺害に狂喜している人物が居たのだから。それが単なる一兵士や将校というならまだ良かったが、国会や記者の前で誇らしげに町をいくつ潰した。これからいくつ潰すんだとドヤ顔をしているのでは、矛先が向かない訳が無い。
同類を求めた米国の反戦派は喜々として鶏を攻撃する事を選んだ。
米国の反戦派は、米国は僅か数千人の虐殺だが、日本は総理が率先して国家ぐるみで十万人を虐殺したと大騒ぎしだした。それは日が経つごとに数字が増え、一か月後には日本の虐殺数は百万人という話になっていた。
このような騒ぎに鶏への風向きが日本でも変わっていく。実際にどれだけ殺したかは問題ではなかった。鶏自身が、艦砲射撃や爆撃を指向し、軍に求めていたという事実。国会で誇らしげに半島での破壊状況を演説していた事実があった。
結局、鶏は十月に退陣を余儀なくされ、半島での責任を取る形で政界から身を引くこととなった。
鶏が退陣した後の日本は以前の与党が政権に戻り、半島問題の処理にあたった。
昭和二十九(1950)年に入ると、半島での作戦は終了し、日米は撤退し、ロシアが治安維持にあたることとなった。
そして、半島での作戦についての詳細な調査が行われ、鶏が逮捕されるという事態に発展している。
事実はどうあれ、一時は百万人虐殺という話が流れた以上、何もしない訳にはいかなかった。
調査の結果、砲撃や爆撃は警告の後に行われており、反戦派が言うような被害は出ていないことが各所で判明している。しかし、それでも犠牲者は数万人に上っており、常識的な掃討戦を行っていればその大部分は助かったであろうという結論によって、鶏は国際法に反する戦争指導を行った罪で裁かれ、死刑となった。
鶏の死刑は多分に政治的な意味合いが強いが、後に判明した米軍による行為の実態が明らかにされるごとに、日本の鶏処刑が評価されることとなっている。
一連の朝鮮動乱後、コリアスタンは正式にロシア公国の施政が行われ、様々な工作によってソ連から逃れた亡命者たちの居住地へと変貌している。
北部では石炭や鉄鋼石の採掘が軌道に乗り、米国より返還された遼東半島周辺で発見された油田と相まってロシア経済を支える役割を果たしている。ただ、そこには今でも人権団体によって批判されるように、コリア民族の多くが鉱山労働者や林業労働者として強制移住を強いられたり、住みやすい南部を中心にロシア人の居住によってコリア民族の土地や文化が破壊されているのは事実らしい。事実、現在、コリア民族の居住地はバイカル湖の北部からオホーツク海へ伸びるスタノボイ山脈沿いやオホーツク海沿岸部に多数存在しており、コリアスタンにおいては人口の50%までがロシア人やマンチュリア系となっている。