第一章 5『その男、風と共に』
その現実離れした光景から俺は目が離せなかった。正確には、目を離したら殺されるのではないかという恐怖から体が硬直してしまっていた。
それは、深い闇から突如草木をかき分けて俺たちの前に立ちはだかった。その姿は犬とオオカミを混ぜ合わせたような姿をしており、長い尻尾は途中から体毛に覆われておらず、途中からウロコに覆われた皮が月光に照らされて光り輝いていた。
「何……これ……」
彼女は震えた声でこちらに問いかける。が、もちろん答えは出てこない。その問いの答えが知りたいのは俺も同じだった。
今までとは比にならないほどの現実離れした光景を目の当たりにし感情がショートしたのか、自分の意志とは裏腹に口角が釣り上がる。
「犬でもないしオオカミでもない……よな」
「白黒縞柄のオオカミなんてみたことないわよ……それと、尻尾のあれ……蛇よね?」
そう、この生物の一番ありえない構造を挙げるとすると、尻尾の先端から生えている蛇の頭の部分だった。
天敵から身を守るために進化し、その尻尾に蛇と同じようなものが形成されたと考えれば、新種の生物と捉えられたのかもしれないが、その頭部は明らかにこちらを睨み、胴体と思われる部分はゆらゆらと左右に揺れていた。その姿は見れば見るほど、生きたオオカミと生きた蛇の体が合成されているようにしか感じられなかった。
グルル―――。
「!!」
その生物が姿勢を低くし、身構えたところで我に返る。
俺たちは今狙われている。このまま襲われたら一瞬で奴の餌食になるだろう。
「背を向けずにゆっくりと後退しよう。正しい対処法かどうかはわからないけど、この暗闇の中走って逃げるのは明らかに不利だ」
そう彼女に伝えたあと、俺はその生物を興奮させないように静かに後退を始める。
しかし、彼女はついてこない。獣は、徐々に鼻息を荒くしながらこちらに近づいてきている。
「何してるんだ、はやくこっちに来い……!」
先程よりも少し大きめの声で彼女を急かす。明らかにその声は焦りを含んでいた。下手に動いたら獣を刺激してしまうかもしれない。かと言って、このままだと彼女が危ない。
先程から彼女の様子が明らかにおかしい事と、彼女と獣との距離が数メートルまで迫ったところで俺の中の選択肢がやっと一つに絞られた。
「くそっ!」
拳を手の平が音を上げるまで強く握り、自分に喝を入れたところで俺は全力で彼女のもとに走り出す。
助走の際にはね上げた土が俺の後方で音もなく地面に落ちると同時に、森中に響き渡る轟音が空気を震わせた。獣が完全に臨戦態勢に入ったのだ。
震える足が何度もバランスを崩しそうになる中、なんとか俺は彼女のもとへたどり着きその場に張り付いた様子の彼女を無理やり引き離す。そのままお姫様抱っこの姿勢で彼女を抱え上げ、獣を巻くように奴の脇道を駆け抜ける。
動く獲物を見て野生の本能が働いたのか、先程まで咆哮を上げていただけだった奴も俊敏な動きで木々をかき分け俺たちを追いかけてくる。
さすがに人一人抱えたまま走るのは体力的にももたない為俺は必死で無言のままの彼女に声をかけ続ける。
「おい、おい! なんとか言え!」
「……」
やはり反応がない。目を見開き怯えた表情のまま固まった彼女はまるで石に変えられてしまったかのように先程とは別人のように静かだった。
後方からオオカミと蛇の混ざった咆哮が上がった直後、今通り過ぎたばかりの木が薙ぎ払われたような音が聞こえた。
もうダメだ―――。
やっぱりこの暗闇の中、輝膜を持つ獣とエンカウントした時点で詰んでたんだな。俺は、その瞬間全てを悟りそっと目を閉じ、足を止めた。
「君だけは助かってくれ。諦めた俺をどうか許して欲しい」
誰に見られているわけでもないのに、最後に少しだけ意地を張り、無理やり笑みを作り上げる。そしてそのまま彼女の上に覆いかぶさった。
その後は一瞬の出来事だった。背後から聞こえていた獣の足音が強く地面を蹴る音が聞こえ、俺の真上で気配が静止したところで、俺たちの周りに暴風が起こり――――止まった。
―――何が起きた。
辺りはありえないほどの静寂に包まれていた。先程の暴風の残滓のようなものが周囲に流れているだけで何も感じられない。
「助かったのか……?」
訳がわからないまま伏せていた顔を上げる。視界に入るのは相変わらず闇に包まれた自然だけだった。
すると、突然後ろからひとつの足音が聞こえた。遠くから聞こえていた足音は段々と大きく聞こえ始め、俺たちの後ろに付いたところで、静まった。その静寂を破るように、俺たちを心配する声が耳に入る。
「大丈夫か、小僧」
獣ではなかったという事に安堵し、声のした方を振り向くとそこには、黄緑と白の生地で織られた着物から片腕だけを通し、空いている片方の手で煙管を構えた中年の男が立っていた。
「……助けてくれたんですか?」
「ん、まあそうなるな」
「なぜ助けてくれたんですか」
「他人のおせっかいに理由を求めるもんじゃねえよ」
そう言いながらその男は煙管を口に近づけ大きく吸い、吐き出した。煙は、宙を不規則に蠢き、やがて姿を消した。立ち居振る舞いからは、俺の理想の男性像そのものだった。
しかし、突然男は大きな溜息を吐き出し、それと同時に口からは思いもよらない言葉が放たれた。
「まあ、本当は俺の娘にけじめをつけさせに来たんだがな」
「娘……?」
「ほら、ちゃんと謝れ」
「あ、君は!」
男性の大きな着物の後ろから申し訳なさそうに顔を覗かせたのは、紛れもないワカナだった。
その両手には、刀身の長い不格好な刀が大事そうに抱えられていた。
「ごめんなさい……ミキト」
男性にこってり絞られたのか、その印象強かったジト目からは涙が溢れ、充血で少し赤くなっていた。それでも尚、強く結ばれた口だけは必死に泣くまいと抵抗し震えていた。
「こいつが森から立派な剣を拾ってきたもんだから、少し問いただしたら見ず知らずのあんたから盗んできたって言うからよ」
「だって……最初はわからなかったんだもん……名前が彫ってあるのはわかったけど……ミキト……剣を腰にさげる為のベルトしてないし……」
泣きながら必死に弁明するその口からは出会った当初の言葉遣いは見え隠れしておらず、ただ子供が親に叱られているだけに感じられ、他人事のようになぜか心が温かくなっていた。
「あの……その剣に彫られた名前はおそらく俺のもので間違いないんですが、俺の所持品ではないんです」
「どういうことだ?」
「この子も俺と同じ状況で森に迷い込んだらしいのですが、この子も目が覚めた時に自分の近くにこの短剣が落ちていたらしいんです」
この人は俺たちをどうこうしようという考えはなさそうだった為、ひなた あかねから聞いたことを俺は正直に告げる。
「目が覚めたって……こんな危ねえ森で昼寝でもしていたのか」
男性は俺たちを怪しむように、先程より眉間のしわを濃くしながら問いかける。その威圧に圧倒され言葉が出ないまま硬直していると、多少涙が収まった様子のワカナが助け舟を出してくれた。
「ミキトは……この森のことを理解していなかったの……誰かに連れてこられたのかも」
「そうなのか?」
「はい。俺は別の見覚えのある林を散歩していたはずだったんですが、気を失って気が付いたらここに」
俺がそう言ったあと、男は何か考えるように煙管をもったままの手を顎に当て唸り声を上げた。ものの数秒その行動をとったあと、だいたいの状況を理解したのかまた男性が話し始める。
「その頭の傷と話から察するに、あんたは誰かに殴られでもしてここに放り込まれたんじゃねえか?」
――――え?
誰が何のためにそんなことを。日頃から恨みを買っている人間などいただろうか。……いや、いるにはいるだろうがあの人たちはばあちゃんちには遊びに来ていなかったはずだ。その為、普段ひきこもってる俺が会って会話を交わす人物など思いつかなかった。
「心当たりはないですが……」
「ふむ、まあなんだ。ここでずっとお喋りしてっとまたあいつらに襲われるかもしれねえ。一旦俺たちの村に案内しよう」
「ありがとうございます、助かります」
「俺の名前はヒナワ・オウセン。よろしくな」
「俺は如月幹斗です。よろしくお願いします」
ヒナワ・オウセン。その名前は俺がここへ来て初めて人から聞いたフルネームだった。
「改めまして、ヒナワ・ワカナです。先程の件では申し訳ございませんでした」
いつの間にかしっかり敬語に元通りしていたワカナからも改めて本名が告げられる。面識のない相手だったからか、風習からか下の名前だけを伝えるようにしていたのだろう。
「あと、ミキト。そこどいてあげてください。その人の顔真っ赤っかです」
「え?」
四つん這いのままオウセンたちの方へ向き直っていたせいか、俺の下にはまだ《ひなた あかね》は横たわっていた。そう、顔を真っ赤にして。
「おお、意識が戻ったの――――」
俺の体は、左頬に受けた平手打ちの衝撃とともに軽く宙へ投げ出され、再び―――気絶した。
第五話まで読んでいただきありがとうございます。ほんとに読んでくれている方がいるだけで元気が出ます。ところでただいまゴールデンウィーク真っ只中ですよね(現在はですけど)。皆様は予定とかぎっちぎちに詰まっているのでしょうか。どこか旅行へ行ったり、家でゆっくりしたり?色々楽しみ方はあると思われます。
サービス業等の方は逆に忙しいですかね……体調など崩されないように気をつけてください。
自分はとりあえず、寝て起きて寝る。これ、がんばります。
これからも皆様よろしければ応援よろしくお願いします!




