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昔、とあるお城の片隅に、小さなお姫様が暮らしていました。まだ幼いお姫様は、とても賢く、大人びていて ― そしてたいそう風変りな子供でした。
お姫様は広いお城の北の端、深い森の入り口に面した一角で、ひっそりと暮らしていました。訪れる者もなく、話し相手といえば侍女のマリアだけでした。お姫様をここへ追いやったのはこの国の王様です。王様は、お姫様の実の兄でしたが、母親が違うからか、妹を毛嫌いしていました。まだ王子様だった頃には、部下に命じて、密かに殺してしまおうとしたこともありました。国王となってからは、命を狙うことはなくなりましたが、その代わり、ここに閉じ込めてしまったのです。お姫様の住むこの一角は、「北の宮」と呼ばれました。
ある昼下がり、西側に開いた窓から柔らかな秋の日差しがそそぐなか、お姫様は作業机の上に置かれた球体や、細長い棒を手に取り、熱心に観察していました。
「ガラクタとはいえ、さすがは王族の持ち物。味わいのある品が揃ってる」
お姫様が観察しているのは、何代か前の王様によると思われるコレクションの一部です。
北の宮の空き部屋には、いわくのある過去の遺物がところ狭しと並んでいました。新しい宮に引っ越す際に、置き捨てられたのです。お姫様はそんな中から気になる品を持ち出しては、自分の部屋で観察したり、修理したりするのを日課としていました。
お姫様が球体の周りの目盛りをいじっていると、ノックの音が響きました。
「マリアなの?入って」
ドアを開いて入室したのは侍女のマリア。黒髪、黒い瞳、異国風の顔立ちの、美しい娘です。両手には小さな樽を抱えています。
「お嬢様、それは何ですの?」
マリアはお姫様を「お嬢様」と呼び、気軽に話しかけます。身分の差を考えるとたいへん失礼にあたるのですが、お姫様は当たり前のように受け答えます。
「天体儀。これで星の運航を観察して、疫病の発生や天変地異を予測するの」
「まあ、便利ですわね」
「この杖は、魔術の道具。悪魔を召喚したりする・・・何代か前のご先祖様が、魔道に入れ込んでいたみたい」
「まあ、怖い」マリアは大げさに怖がってみせました。
「大丈夫。強い心を備えていれば、魔物を寄せ付けないというから。それより、その樽は?」お姫様はマリアの抱えている樽を指さします。
「地下の倉庫で見つけましたの。同じものがいくつかございました。古酒のようですわね」
「何か書いてある」お姫様が樽の表面をこすると、図形のようなものが現れました。
「消えかけていてよくわからないけれど・・・まるで魔法陣みたい。呪われたお酒だったりして」
「それでは、ぜひ、王様に献上いたしましょう」
これにはさすがのお姫様もぎょっとして、辺りをうかがいました。
「冗談でもそんな事を言わないで」
「冗談なものですか。でも、その前に中身を確認する必要がありますわね」
マリアがちらっとお姫様をうかがうと、お姫様はぷっと噴き出しました。マリアはお酒に目がないのです。
「わかった、それはマリアに任せる。毒見でもなんでも、好きにして」
「かしこまりました。しっかりと務めさせていただきます」
マリアは樽を抱えたまま、器用にお辞儀をしました。
「呪われても知らないから」
「その時は、お嬢様が助けてくださいませ」
その日の夕食時、マリアは上機嫌でした。「呪われたお酒」はとても上等で、保存状態の良い葡萄酒だったのです。マリアは一旦給仕を終えると、自らも席につきました。お姫様はいつも侍女のマリアを食事に同席させます。一人で食べてもつまらないからです。
マリアの前には件の葡萄酒、お姫様の前には葡萄ジュースが置かれています。ジュースには、ほんの少し葡萄酒を混ぜてあります。マリアが次々にグラスを空けるので、お姫様は心配になってきました。
「マリア、大丈夫?少し飲みすぎじゃない?」
「大丈夫ですわ。これはとても良い葡萄酒です。お嬢様、ジュースなどに混ぜたりせず、そのままお召し上がりになってはいかが?」
まだ子供であるお姫様に酒を勧めるなど、普段のマリアでは絶対にあり得ません。
(完全に出来上がってる・・・)
お姫様は途方に暮れて、天井を見上げ、ため息をつきました。そして視線を戻すと、食卓に男が座っていました。何の気配も、物音もさせず、目を離した一瞬に、突然現れたのです。お姫様は心臓が飛び出るほど驚きました。
「お前は誰?!」
思わず叫んでしまいましたが、男は返事もせず、にやにやと笑っています。マリアがたしなめるように言いました。
「お嬢様、大声を出したりして、お客様に失礼ですわ」
「お客様?この男が?」
今度はマリアに向かって叫ぶと、男がはじめて口を開きました。
「騒ぐな、子供。お前に用はない」
冷たく見下ろす深紅の瞳、そして整いすぎた容貌は、この世のことわりから外れているように思われて、お姫様は心の底からぞっとしました。男はマリアに顔を向けると、うって変わって魅惑的な笑顔を見せました。
「そなたを迎えに来た」
「私を?」
マリアの瞳がきらりと光ります。
「然り、美しい娘よ」
男は笑みを浮かべたまま、ゆっくりとマリアに近づくと、手をとって立ち上がらせました。
「我等の宴に招待しよう。我が館に滞在するがよい」
「光栄ですわ、素敵なお方」
マリアは男にすっかり心を奪われてしまったようです。蕩けたような表情で男を見つめる姿は、お姫様が一度も目にしたことのないものでした。そのまま一緒に行ってしまいそうで、あわてて呼びかけます。
「マリア、行ってはだめ!」
マリアはうっとりとした眼差しのまま、お姫様を振り返りました。
「お嬢様、しばらくお暇をいただきます」
「だめ。許さない。この男はきっと魔物のたぐいよ」
「まあ、ひどい」
マリアはすねたように言いながら、くすくすと笑っています。お姫様は馬鹿にされたような気がして、マリアを睨みつけました。男が口をはさみます。
「ひどい主だな。若い娘を無理やり縛りつけるのか」
「怪しげな場所に行くというのを引き留めるのは当然よ。何をされるかわからないわ!」
男はいやらしい笑みを浮かべました。
「我等は決して無理強いはしない。娘の本当の望みをかなえてやるだけさ」
そしてマリアの腰を抱くと、屋外へと続く扉に向けて歩き出しました。マリアはされるがままです。扉は自然に開き、二人は外庭を滑るように進んでいきました。お姫様も必死で後を追いますが、荒れた庭は石ころだらけで、華奢な靴ではなかなか先へ進めません。それでもなんとか見失わずについていくと、高い外塀が見えてきました。その向こうは深い森の入口です。
外塀の手前に、古い祠がありました。その中へ二人は入っていきます。少し遅れてお姫様が祠へ一歩足を踏み入れると、とたんに目の前が真っ暗になり、前も後ろもわからなくなりました。真の暗闇に、浮かんでいました。
「マリア!」お姫様は声の限りに叫びました。
すると、目の前に男が忽然と現れました。マリアの姿はありません。男は驚いたようにお姫様を見つめています。その頭には、山羊のような角が二本、はえていました。
「ここまでついて来るとは・・・お前、あの酒を飲んだな」
「マリアはどこ?」
「あの娘は自ら望んで我がもとにまいった。わかっているだろう」
「マリアを返せ、けがらわしい魔物め!」
すると暗闇の中で何かが喉を締めあげ、息ができずにもがく両腕を捕らえました。
「愚かで、醜く、きたならしい子供。屍肉にたかる蛆虫にも劣るこわっぱが。その言葉を後悔するがいい」
お姫様は次第に意識を失っていきました。