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ベビーシッター編

146センチ、44キロ。


こんな私よりも、無知でか弱い存在がこの世にいるんだろうか。

結論から言うと、いる。

今そいつは私のとなりで大声で泣きわめいている。

困った。手のつけようがない。


それは、赤ちゃんのことだ。

赤ちゃんというのはたいていどんな動物でも弱い。

だけど人間の赤ちゃんは、特に弱い。


昔、施設で飼っていた犬が赤ちゃんを産んだ。

(大人たちがヒニン手術の代金を支払うのを嫌がったからだ)

生まれた子は、一か月ほどで歩きはじめた。

(だけどそのあとすぐどこかの家にもらわれていった)


一方、人間の赤ちゃんは歩くのに半年もかかる。

それまでの間、できることと言えば、泣いて周りの人間の助けを呼ぶことばかり。

本当に、人間の赤ちゃんは弱い。


赤ちゃんは私に危害を加えない。加えることができない。

だから私はいつも、赤ちゃんといると安心する。

だから私はこの仕事を選んだ。

ベビーシッター。


だけど今の私は自分より弱いはずの赤ちゃんに自分の命をおびやかされている。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。


私がその気になれば、この子をどうにだってできるのに。


じゃあ試してみようか。


この子が泣きやまないのは、体じゅうにに青アザがあるからだろう。

やったのは父親だろうか、それとも母親?

たぶん母親だ。父親は赤ちゃんに少しも興味がなさそうだから。


かわいそうな赤ちゃん。あちこち痛んで、寝られないんだね。

かわいそうな赤ちゃん。いますぐ私が楽にしてあげるから。


気がかりなのは、赤ちゃんが静かになった後のことだ。

赤ちゃんが急に静かになったら、両親に気づかれるんじゃないだろうか。

そうなったら私はどうなってしまうのか。


いや、気付かれる可能性は少ないはずだ。

両親は今頃ぐっすりと寝ている。

(私を雇ったのはそのためだ)

赤ちゃんが静かになったら、彼らは安心してぐっすり寝てしまうだろう。

だから私は気付かれる心配がない。


いや、気付かれたっていいのかもしれない。

気付かれたら、気付かれたで、絶対に逃げきってやる。

問題は警察だ。彼らの手から逃れられるのか。


どうやって逃げる。どこへ?だれのもとへ?

劇団?それは無理だ。座長が私をかくまってくれるはずがない。

アレはそういう男だ。いや男なんてみんな座長みたいなものだ。


じゃあ他に考えられるのはアイツしかいない。

アイツは私のことを受け入れてくれるだろうか。あの女が。

アイツはいつもうまく立ち回ることばかり考えている。

舞台の上でも。プライベートでも。


だいたいアイツは私と一緒で文字が読めなかったはずだ。

少なくとも知り合った頃はそうだった。

それなのにいつの間にか、読めるようになっていた。

そうして、さっさと劇団をやめてしめて、ラジオ局に就職を決めた。


危険を冒してまでアイツに文字の読み方を教えたのは誰だろうか。

そのことが警察にバレたらただでは済まされない。

ひょっとしたら死刑になるかもしれない。


劇団のなかの人物で文字が読めるのは座長だけだ。

座長がアイツに文字の読み方を教えたとするとちょっとおもしろい。

座長は文字を教えるだけ教えてアイツに捨てられたことになる。

きっと下心丸出しでアイツに指導したのだろう。


座長はいいように利用されて捨てられたのだ。

自分がこれまで女の劇団員に対してしてきたことを自分もやりかえされたのだ。


アイツは本当に嫌な女だ。だけど話の分からない女ではない。

私が頼めば、きっとかくまってくれるはず。

しばらく身を潜めていれば警察の取り締まりも緩くなるだろう。

そしたら、あとはどこか遠くの町に引っ越せばいい。


私が急にいなくなったら、劇団のみんなや座長はどう思うのだろうか。

座長はたぶん私の悪口をみんなに言って回るだろう。


タケさんは私のことを心配するかもしれない。

タケさんは劇団の最年長としての責任感がある。

だからヘタに首をつっこんで嫌な思いをさせてしまうかもしれない。

それは嫌だ。アイツに頼んでタケさんだけには事情を伝えてもらおう。


さあ、これで心配事はすべて解決した。

あとはこの赤ちゃんを痛みから解放してあげるだけだ。

時間だって限界がある。


でも少し立ち止まって考えるくらいの時間はある。

だから私はこの時間をできるだけ有効に使う必要があるはずだ。

私には本当にもうすべきことはないのか。

今ここでこの赤ちゃんの命を奪ってしまってもよいのか。


痛みから解放するため、という理由について嘘偽りはない。

それが私の本心であることには疑いようはない。

だけどそこには、不純な感情がほんの少しばかりではあるが含まれている。


私は確かに今の状況、今の生活から解放されたいと願っている。

でも赤ちゃんを楽にしてあげたい、という気持ちは本心だ。

結果的に私は今の状況から解放されるのかもしれないが、それはおまけみたいなものだ。

私が行動を起こせば赤ちゃんはもちろんのこと、そのおまけとして私も救われる。


だから後ろめたいことなんてなにひとつない。

そのはずである。

それなのに、どうして私は、どうして。


赤ちゃんの両親?そんなのはどうでもいい。

そもそもあの人たちに親であることを堂々と名乗る資格なんてないのだ。

他人に自分の子どもの世話を任せっきりで自分たちは赤ちゃんを抱こうともしない。

そんな人を親と呼べるのか。


少なくとも私は呼べない。いや呼べなかった。

私の両親と名乗る人たちが施設を訪れたあの日、私は施設を飛び出した。

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