2、国務参謀ワイズ・レヴィン
この世界を支配する東西南国四カ国の中で、西国と呼ばれるエウリア君主国。その首都ケトロは、西国の中でも最西端にある。首都にそびえ立つ巨大な国城の敷地は街一つよりも広大で、議会の管轄である政殿、王室の住まう宮殿、そして巫女の住まう神殿の三つに分けられた。その三つは互いに独立しており、それぞれにそれぞれの役割がある。故に、儀式やよほどの用事のない限り、互いには干渉しあわないらしい。——本来は。
青年は、議会の管轄下である政殿の中を歩いていた。彼が国城にきてからそろそろ半年以上が過ぎるが、青年は本来政殿を歩く立場にはない。議会の人間でもなければ、政殿に仕える身分でもないためだ。彼の本来の職場は、国城の中でも特に異端な場所——神殿であった。
神殿を治めるのは、神の使いとも呼ばれる巫女である。巫女は神の代弁者と呼ばれ、この国の中では最も崇高な存在であった。故に彼女の住まう神殿には王室の住まう宮殿と同じだけの設備が用意されており、同じだけの使用人が彼女に仕えている。青年もまた、巫女に仕える一人であった。そのため彼は平常であれば神殿の中にいる。それなのに、彼が今、自分の管轄外である政殿を歩いているのにはきちんとした理由があった。他でもない、自分の唯一の主である巫女が、神殿の外へと抜け出してしまったのである。
「かぐわ様——!」
青年はその名を呼んで、政殿の窓から外を見下ろしている黒髪の少女の元へと駆け寄った。少女は下女のような服装をしているが、当然下女ではない。巫女の装束を纏ったまま神殿の外など歩こうものなら一大事である。皇帝にも等しい地位にあり、神に最も近い存在と言われる巫女が歩いていると知れたら、騒ぎは免れない。ゆえに目立たぬよう、彼女は神殿の外に出る時は自分に仕える下女の服を黙って借りるのであった。そのような姑息な手段を使ってまで外に飛び出すこのおてんば巫女の名を、カグワという。
「ようやく見つけましたよ……! 勝手に外出なさらないでくださいとあれほど口を酸っぱく……」
苦言を呈しながら窓辺に佇む少女の方へと近付くと、彼女がなにやら下にいる人間を見つめていることに気付いた。青年は彼女の後ろから下を眺める。外にいたのは王宮仕えの下男らしき男であり、少女を見上げて恍惚としていた。青年は思わずその下男を睨みつけて、窓辺から巫女カグワを引き剥がす。
「かぐわの君……参りましょう!」
「なによ、強引ね、もう……」
少女は口を尖らせながらも、彼に従った。が、神殿に帰ろうとする気配はない。
「今日はね、ワイズに会いに行くのよ」
「……レヴィン参謀ですか」
「そう」
「またそのようなことを……巫女が国政に口を出すなと多方面から叱られますよ」
「叱られるのが怖かったら、貴方は帰っていいわよ、ゆたや」
「ゆたや」というのが、この青年の名前である。東国の生まれである彼の名前は、この西国エウリアの人間には発音が難しいという。が、同じく東国の生まれである巫女カグワにとっては何ら難しいことはなかった。そして東国生まれの巫女の名前も、「かぐわ」とユタヤには楽に発音できる。
「かぐわの君から目を離してのこのこ帰ってしまったら……そちらの方が叱られますよ。私の役目は貴女の傍にいることです」
「なーんか、お守りみたいね」
「お守りではないです。護衛です」
ユタヤは、巫女カグワ専属の護衛であった。
古くからのしきたりによって、巫女には「仗身」と呼ばれる護衛がつくことが定められている。そしてそれは人間ではなく獣人であることが必須条件であった。すなわち、ユタヤも外見こそ普通の人間と変わりないが、その実は人間ではない。自分の意思で獣へと変化することのできる、獣人である。
獣人ユタヤは、この主と八つの頃からの付き合いであった。今年彼は十九になったところだから、もうすでに十一年彼女の傍に寄り添ったことになる。そしてこの十一年というもの、自由奔放な主に振り回される身分は変わらない。
「かぐわ様が神殿から外に出てしまうのは、百歩譲ってもう構いません。貴女から自由を奪うなという方が難しい。私も黙認致しましょう」
「神殿も宮殿も政殿も全部同じ、国城じゃない」
「それでも神殿の外は貴女の支配下ではない。外にお出になる時は、必ず私に声をおかけ下さいませ。付き添います」
「自分の支配下の場所なんて歩いたって、何にも面白くないんだもの。それに神殿に引きこもってたら世の中のことなんて何一つわからないわ!」
そう言って笑うと、カグワはくるりと身を翻した。綺麗な黒髪がなびいて、笑顔が輝く。例え下女の格好をしていたって、その姿は神の使い巫女そのものだ。ユタヤは目を細めてその姿を見つめてから、俯いた。
この神々しい存在に付き添うようになって、十一年の月日が流れた。出会った当初はまだ五つの童女であったカグワも成長し、今では十六だ。大人と子供の間を行き来する、不安定な年頃である。初めて出会った童女の時にも「まるで天女のようだ」と見とれたものであるが、少女はますます美しく育ちゆく。先刻窓の外から見知らぬ下男が彼女に見とれたように、その美しさに気付くのはユタヤだけにとどまらない。——だから、他との接触のない神殿に篭ってほしいだなんて、あまりにも身分不相応な願いである。ユタヤは心の中で己を戒めた。そもそも、獣人の分際で巫女の傍に寄り添うことができるという事実そのものが、身に余る処遇なのだ。この上彼女を縛り付ける権利など、彼にあろうはずもない。
「そろそろ全議会の評議が終わった頃だと思うのよね……午後からは部署ごとの仕事になるし、その前に捕まえないと、話もできないわ」
ユタヤの心中の葛藤など知らぬ巫女は、ぶつぶつと国務参謀に会う算段をたてていた。巫女となり神殿に入ってそろそろ半年以上、それまで国政のことなどほとんど何も知らなかったカグワはしかし、この短い月日の中で相当博識になった。故に国政に口を出すことこそなくとも、今では国政の最高権威とも呼ばれる国務参謀とも軽口を交わせる。
「しかし何故今、レヴィン参謀にお会いになるのですか……? 参謀は今、修道院を潰そうとしているともっぱらの噂ですよ」
国の各所に点在する修道院は、全て神殿の管轄下である。国政と信仰は交わらないことが原則となっている。それなのに、国政の頂に立つ参謀が修道院に手を下そうとしているという噂はたちまち神殿の中に広まり、大きな波紋を呼んでいた。もともと冷徹な参謀と呼ばれて有名なレヴィン参謀は、血も涙もない冷血漢と言われ、神殿内で嫌われている。
けれども肝心の神殿の長、巫女カグワは彼に対する恐れも嫌悪も抱いていない。カグワが巫女に就任した今から約半年前のこと。その頃からずっと彼女は冷徹なワイズ・レヴィン国務参謀に興味津々で、度々神殿を抜け出してはこうして彼に会いに行く。けろりと彼女は言ってのけた。
「だからこそ、会いに行くんじゃない。ワイズにはワイズの考えがあるんだわ。私はまだ神殿にきて一年も経っていないけれども、彼は二十年以上政殿にいるんだもの。彼には私には見えないものが見えているのよ」
「ではもしも、彼の考えを聞いてそれが納得に値するものであれば、かぐわ様は修道院を破棄なさるのですか」
「破棄するかどうかはわからないけど……もしそれが正しいなら彼に従うしかないでしょうね」
そんな見解は非常にカグワらしく、ユタヤには好ましく思えた。だが、信仰の長たる巫女にはふさわしくない。そこが彼女の危ういところである。
仮にも巫女ともあろう者が、「例え修道院を破棄されたとしても、それが正しいのなら認める」などと言ったことが知れれば、一大事だ。
「冗談でもそのようなことをおっしゃいますな」とユタヤが渋い顔をすると、さすがに自分の立場はわきまえているようで、「ゆたやにしか言わないわよ」と苦笑した。それだけ自分が信頼されているのだと思うとこそばゆくもあったが、そうそう軽々しく喜んでもいられない。政殿の廊下をまっすぐ進み、国務参謀の書斎を目指す彼女の行く末が、とても不安であった。
国務参謀の書斎は、政殿の上階、一つの塔の中にあった。かつてはただの物置とされていたらしいが、せっかくの空間がもったいないと言って参謀が自分の書斎にしてしまったらしい。以来、彼は此処に住み着いているも同然で、幾日も自宅に帰らずこの塔の書斎の中に引きこもることも少なくなかった。故に、評議と午後の業務の合間の時間は必ずといっていいほど、此処にいる。
半年通ってすっかりその道筋にも慣れたらしいカグワは、古びた小さな扉をノックすると、中の様子を伺った。
「ワイズ、いる? かぐわだけど……」
突然の巫女の到来に、普通の人間なら仰天することであろう。しかし、半年通われたワイズもワイズで、すっかり彼女の到来には慣れてしまっている。ややあってから、扉の内側から面倒臭そうな声がした。
「……なんの用です?」
そのぶっきらぼうな声は、他でもないワイズ・レヴィン国務参謀のものである。カグワは中に彼がいるのだと知って、意気揚々と扉を開いた。
「ワイズ!」
ばん、と音をたてて激しく開かれた扉は古く、その勢いで壊れてしまうのではないかと心配になるほどだ。彼女の後ろに続いたユタヤは慌ててその扉を押さえて丁寧に閉めると、部屋の中央に座っている男を見やった。
カグワと同じ黒髪を持つが、その顔立ちは生粋の西国生まれである。宮廷服をぴしと着こなし、少しの皺もない。にも関わらず、雑然とした部屋の中で本や書類に囲まれているため、その清楚な服装があまりにも似合わず、滑稽であった。ワイズは書類を眺めていた切れ長の目を持ち上げて、飛び込んで来た少女を睨んだ。
「わざわざこのようなところまで……一体何用ですか」
しかし睨まれて怯むようなカグワではない。少女はにこりと笑うと彼の向かっている机の反対側に立った。
「そんなに嫌そうな顔しないでよ」
「ならばこの激務の時間にお越しにならないでもらいたい」
「今は、評議と午後の業務の間よね。きちんと時機も見計らってきたのよ」
「それでも私は暇ではありません」
「ワイズいっつも忙しそうだものね」
「貴女はいつでも暇そうですね。巫女君」
ワイズは皮肉を飛ばしてくるが、それが心からの厭悪からくるものではないと、カグワもユタヤも知っている。彼は口の悪いことで有名だ。それでも業務は着実にこなす。彼の皮肉は挨拶代わりのようなものであり、例えば内大臣共のように心底こちらを疎ましく思って揶揄してくるわけではないので、カグワもいちいちそれに取り合うことはなかった。
「今日はね、別に遊びに来たわけじゃないのよ。ワイズに聞きたいことがあって来たの」
遊びに来たわけじゃないと言うわけには軽い口調でカグワは机の上に身を乗り出す。わずかに後ろに身を引いたワイズは書類を机上に置いて、険しい顔をした。
「なんだ……修道院の話を聞きに来られたのか」
即座に言い当てたワイズの声は低い。何しろ、彼は修道院をここ西国エウリアから排除しようとしているのだというもっぱらの噂だ。そして、修道院等、信仰の長を務めるのは今彼に対峙している巫女、カグワである。ワイズは巫女に、カグワに真っ向から対抗したのだという見方も出来なくはない。当然、ワイズが柔らかな表情をするはずもなかった。——それなのに、カグワは依然として、笑顔だ。
「そうそう! さすがに話が早いわね。貴方がこの国から神教を消滅させてしまうんじゃないかって、神殿では連日連夜大騒ぎよ」
「そうでしょうとも」
「口を開けばみんなレヴィン参謀レヴィン参謀って、貴方の名前を聞かない日はないんだから」
「ほう」
「人気者ねぇ」
「嬉しくもなんともありませんが」
厭味ですか、と自分の言行は棚に上げて彼は言う。カグワは「まさか」と微笑むと、小首を傾げた。
「それで? 本当にこの国から神教を消滅させるつもり?」
問いかけた少女の目は、東国生まれならではの綺麗な黒である。ワイズはその目を見つめて眉をひそめると、書卓の椅子に深々と座り直して腕を組んだ。
「……神教は人々の心に根付く、思想です。私の一存で消滅させられるようなものでもない」
それは確かに、そうである。例え修道院を撤去したところで、修道士のいなくなったところで、人々の中に信仰心のある限り、神はなくならない。
「そうなの? じゃあみんな、何を騒いでいるのかしら」
「皆、自分の身が可愛いのです。私はなにも信仰を奪おうとしているわけではない。ただ、修道院などという馬鹿げた制度を取り払いたいだけです」
きっぱりと言い放った彼の言葉を受けて、カグワはきょとんとしている。それを見ながらユタヤは苦い顔をした。すなわちそれは、神殿を頂点とする宗教制度を崩壊させると言っているのと同じではないか。
「馬鹿げた制度……」
「都に立つような大きな修道院は、莫大な権力と経済力を所有しております。政治と信仰が不干渉であるのをいいことに、やりたい放題だ。大司教の中には信仰を笠に着て、何をしてもいいと勘違いしているような輩がごろごろいる。そんな奴らを引きずり下ろしたいだけのこと——信仰の長である巫女君には酷な話かもしれませんが」
彼は意地の悪い言い方をする。しかし当の巫女カグワは別段気にした風でもない。
「そうねぇ……大司教の中に、内大臣の派閥と癒着している者がいるのは知っているわ」
「その通り。よくご存知ですね」
「神殿の中に引きこもってたんじゃわからなかったでしょうけど……政殿に来ると、いろんなことが聞こえてくるんだもの。——貴方は、内大臣たちの財源を絶ちたいのね?」
政殿の中には、いくつかの派閥が存在している。その中でも有力なのが、内大臣を中心とする古参の派閥だ。古くから代々引き継がれ、保守的なことで有名な派閥である。そして、一代で国務参謀にまで登り詰めた革新派のワイズとは、当然の如く対立しているのが現状だ。
「それもありますが……いずれは是正するつもりだったのです。そもそも大司教が余り余るほどの財を持っている時点で間違っている。あれは市民から信仰の代償に巻き上げた金だ」
「ええ、そうね……貴方の言いたいこと、すごくよくわかるわ」
「ご理解頂けて光栄ですな」
「でも、不思議なのは、どうして今それをやるのかってことよ。どうして今になって、修道院制度の是正を?」
「時期などいつでもいいでしょう。早ければ早いほどいい」
「そうなの? でも、今は北国がたくさんの軍をここ西国に差し向けて、北との国境付近では戦が繰り広げられている。そちらの方が優先されるべきじゃないの? それなのに、どうして、今?」
彼女たちの住まう西国エウリアに、隣国北ラウグリア帝国が戦をしかけてきたのは、今から半年前のことだ。——実は巫女カグワはこの戦の発端に、一枚噛んでいる。——とにもかくにも、まだ、国境線は破られていないものの、西国エウリアは半年以上も北ラウグリアと戦を続けていた。それなのに、何故この緊迫した状況下で、国内における修道院の問題などを扱おうと言うのか。
カグワの疑問は至極尤もに思えた。しかしワイズはそれを受け、ふんと鼻で笑う。
「そこまでわかっていながら、何故、と問われるか……今だからこそ、是正が必要なのです」
「どうして?」
「正直申し上げますと、今の状況では、北ラウグリア帝国に戦で勝利するのは難しいでしょう。今でこそ国境付近でなんとか踏み留まっていられるものの、それもいつまで保つか……やがて戦は拡大し、奴らが西国の領地内へと攻め込んでくるのも時間の問題です。ならば、まだ余力のある今のうちに、反乱分子は叩いておきたいところ」
「反乱分子……内大臣のこと?」
「内大臣を筆頭とする一派、そして大司教どもです。内大臣は政治の舞台で堂々と反乱する。大司教どもは信仰を武器に民意を操り、じわじわと反乱することでしょう。そのどちらも、早いところ片付けなくてはならない問題です」
「それで……北ラウグリア帝国の軍が攻め込んでくる前に、邪魔者は排除してしまおうって、そういうこと?」
「乱雑な言い方をすればそういうことになりますね。これでおわかり頂けたか?」
なんならもう一度最初から説明致しましょうか、などと言うワイズは本当に性格が悪い。いちいちそんな言い方をしなくとも、とカグワの後ろで苛立つユタヤとは異なり、カグワは飄々として小首を傾げた。
「んー……貴方の言うことはわかるわ。貴方の思惑もわかる……でも、どうしても腑に落ちないのよね」
「これ以上、何がわからないというのです? 実に単純な話でしょう」
「だから、どうしてその単純な話をもっときちんと世の中に説明しないのかっていうことよ」
カグワは書卓を軽く叩いて、まっすぐワイズを見つめた。
「貴方の言うこと、理にかなっていると思うわ。民衆から信仰の代償として金を巻き上げる大司教なんて間違ってる。そこから賄賂をもらって政治をしてる内大臣はもっと間違ってる。だから、戦の激化する前に奴らを一網打尽にしてとっちめてやる、って、すごく正しいことだと思うの。——なのに、私の耳に届いた噂は、レヴィン国務参謀が修道院を嫌い、この国から神教を消滅させようとしている。レヴィン参謀は神さえ恐れぬ残虐非道な人間だ、って話よ?」
「大方、内大臣一派がそのように流言しているのでしょう。まあ、あながち間違ってはおりません。確かに私は修道院制度を廃止しようとしている。捉え方は人それぞれですから、それを神教消滅と言われれば、私には反論するべくもありませんが」
「でも貴方には、貴方の大義名分があるじゃない。どうして流言蜚語をほっておくの」
きちんと対抗すればいいのに、とカグワは言う。それを聞きながら、なるほどとユタヤは納得していた。
最初は何故カグワはわざわざワイズに会いに行くのだろうかと思っていた。ワイズは神殿を長とする信仰の対象を潰そうとしている専らの噂だ。そんな相手に会いに行ってどうするつもりなのか、と。
だが、カグワはその噂の真偽を確かめにきたのだ。本当にワイズは信仰を排除しようとしているのか。彼の思惑とは何なのか。——ユタヤは内大臣一派の流す蜚語などに騙されていた自分を恥じた。
「別に、私は自分の大義名分を誰かに押し付ける必要はないと思っておりますから。私は目的が果たされればそれでいいのです」
「……冷めてるのねー」
思わず気の抜けるようなカグワの相槌に、ワイズはがっくりと肩を落としている。ユタヤはその光景を見て内心苦笑しながらも、ふと、扉の外から聞こえる物音に気が付いた。
ユタヤは、巫女カグワの仗身——すなわち護衛を務める、獣人である。見た目こそ人と変わらないが、その五感は獣並に特化し、例えば人間の耳には聞こえないような些細な音も披露ことができるのだ。
「……かぐわの君、誰かがこちらへ向かってきます」
ユタヤは主とワイズの会話を邪魔することのないようにと配慮し、低い声で告げた。
本来巫女とは神殿の奥に篭って外界には決して姿を現さないものである。その巫女が、国務参謀の書斎をわざわざ訪れているのだと知れると大騒ぎだ。とは言え、彼女が外に逃げ出すのはこれが初めてではないわけで、今更と言えば今更なのであるが、なるべくなら隠しておきたいところ。
と、思って、来訪者の存在を報告したのだが、当のカグワは「あらそう」と少しの危機感も抱かない。そして巫女を自分の書斎に入れていることが露見すればそれはそれで一大事であろう国務参謀もまた、のんびりとしていた。
「そろそろ午後の業務の始まる頃だからな……秘書がきたのだろう」
「えっ、セレストがっ?」
ワイズの言葉を受けて、カグワは瞳をきらりと輝かせる。セレストというのは、国務参謀であるワイズ専属の秘書の一人であり、中でも特に優秀と言われる唯一の女性秘書であった。故に、秘書は多々いるものの、彼の書斎まで足を運んで来るのは大概第一秘書のセレストだ。そして今日のようにたまたま彼の書斎に来ていたカグワと鉢合わせることもある。もちろん、それを厭うカグワではないわけで。
「じゃあセレストに会って行こうかなっ」
意気揚々と言葉をはずませるカグワに失笑し、ワイズはゆっくりと椅子から腰をあげた。
「何をおっしゃいますか。午後の業務が始まるのです。お引き取り下さい」
「えー、そうやってセレスト独り占めするのねっ」
「仕事ですから。巫女君にも巫女君の仕事があるでしょう」
「巫女の仕事なんてほとんどないに等しいわよ。祭典でもない限り、神殿の奥に引きこもってるくらいしかやることもないんだから」
「巫女は巫女らしく、民の幸せを祈ってなさい」
「いやよ。祈るだけなんて、柄じゃないわ。民の幸せのためと言うなら、国中奔走するくらいのことはしなくちゃ」
ああいえば、こう言う。これが、西国エウリア君主国では皇帝と並ぶ最高権威の巫女なのだから、困ったものだ。
立ち上がったワイズは書卓の前で駄々をこねる巫女の背中を軽く押すと、扉脇に立っているユタヤを睨んだ。
「そこの仗身。お前の主を連れて行け。これ以上は業務妨害だ」
一国の最高権威、巫女に対して随分な言い草であるが、それを受けて「ひどーい」と声をあげるのが巫女なのだから、致し方ない。
ユタヤは国務参謀に向かって軽く会釈をすると、カグワの手を引いた。
「参りましょう、かぐわ様」
「……セレストに会いたかったのになー」
カグワは小さな声で不平を漏らすが、本気でワイズの業務を妨害する気はないのだろう、大人しくユタヤに手を引かれた。
「じゃあね、ワイズ、また来るから!」
まるで友人にでも挨拶をするかのように気軽に手を振って、少女は国務参謀の書斎を後にする。中に残された参謀の苦い顔が全てを物語っているようだ。ばたん、と音をたてて、二人が外に出るなり書斎の扉は閉められた。
国務参謀の書斎を出た主従は、元来た道を戻り、政殿の外へと向かっていた。なるべく人とすれ違わないようにと、人通りの少ない道を辿る。それでも時折政殿に勤めている下男や下女とすれ違うことはあったが、カグワもまた下女の服を纏っているため、訝られることはない。ただしかし、その後ろに控えるユタヤは、巫女の仗身の正装である「装衣」と呼ばれる白い布一枚で作られた服を纏い、その上から獣人の獣の性を封じる数珠玉を巻き付けているため、妙な格好をしている男だと注目を浴びた。が、神殿の外の者にはその格好の持つ意味もわからなかろうから、あまり問題はない。
「……とりあえず、聞きたいことが聞けてよかったわ」
誰もいない政殿の廊下で、ぽつりとカグワが呟いた。ちらりとその顔を伺えば、先刻参謀の書斎で駄々をこねていたとは思えないほど大人びた表情で、少女は前を見据えている。その変容に何故か胸の奥がしめつけられるように苦しくなるが、ユタヤは平然を装って答えた。
「私も、彼の話を聞いて、ようやく事の子細が見えたような気がします……かと言って、これからどうなるのか、どうするべきなのか、未来は何も見えませんが」
「そうね……」
小さく呟いた少女は、巫女であった。
信仰の頂点に立つ巫女は、神の使いとも呼ばれている。カグワは先ほど「巫女には特にやることもない」などと零したが、実際には神の使いであるからにはそれだけの能力と修行が必要とされていた。そもそも、巫女は只人には務められない。「巫力」と呼ばれる特殊な能力が備わっていることが絶対条件だ。そして現在巫女の位に就いているカグワにももちろん、「巫力」が備わっている。
「最近、先見の夢は……ご覧になりませんか」
巫女の能力「巫力」にはいくつかの種類があり、「先見」の技も、そのうちの一つだ。それは、今はまだ訪れない未来を見ることを言う。夢という形で見られることが多く、それを「先見の夢」と言った。すなわち、予知夢である。
「最近は……全然ね。私の巫力なんて、大したことないし」
「そんなことはございません」
主の言葉を即座に否定したユタヤは、彼女の『力』が本来どれほど高い物であるか、知っている。確かに彼女の『力』は少々特殊で、追いつめられなければ発揮できないのか、いざという時にしかはっきりとは顕在しない。が、いざという時に発揮される彼女の『力』の強さは並大抵のものではない。
というわけで、断固として彼女の言葉を否定するユタヤを見上げ、カグワはくすと笑った。
「そんなこと言ってくれるの、ゆたやくらいなものよ。ワイズなんて、私に巫力が備わっているかどうかさえ怪しんでるだろうし」
「そんなことはありますまい。そもそも国務参謀の前で巫力を発揮するような場面がないでしょう」
「まあね……」
言って、少女は思案するような顔をした。その表情を見下ろして、ユタヤは彼女がワイズという国務参謀のことを考えているのだと理解する。それが理解できてしまうくらいに、彼らの付き合いは長く、また、深い。だが、そんな彼女の表情を見て、心の奥がもやもやとするようになったのは、最近になってからだ。
「……随分と、こだわりますね。参謀に」
思わず口に出してしまってから、後悔する。予想以上に刺のある言い方をしてしまった。しかし、カグワはそんなことには気付かなかったようで、あるいは気付いていても気にしなかったのか、平常通りに「うーん」と唸る。
「少しね、気になることがあって……」
「気になること?」
少女は東国風の愛らしい顔を手で撫でて、目を細めた。
「時々、彼の周りに、影が見えるの」
「影……?」
「ゆたやには見えない?」
「私は……一度も目にしたことはございませんが」
「そう……。じゃあ、私の気の所為かもしれないけど」
言って、再びカグワは思案するような顔をした。
影、という抽象的な言い方をするが、それはすなわち、凡人には見えない「なにか」という意味なのだろう。カグワは巫女であり、巫力を持つ。故に、凡人には見えない「なにか」を見ることができる。そしてまた、獣人であるユタヤも凡人には見えない「なにか」を多少ならば見ることができる。とは言え、巫女には及ぶべくもない。
「私には見えなかっただけのことかもしれません。かぐわの君に見えたのならば、それが正しいのではないかと」
「どうかしら……私にもよくわからないから」
言って、カグワは困ったように笑った。そんなふとした瞬間にさえ、「ああ、綺麗になったなぁ」などと思う自分は病気かもしれない。
ユタヤは彼女から目線を逸らすと、まっすぐ道の先を見据えた。この心は、決して彼女の前に晒してはならない。
獣人に生まれたユタヤは、本来、人に迫害される対象でしかなかった。というのも、獣人は人として生まれながら、成長するうちに獣になっていく。そして獣と化した獣人は、人を襲う。人にとって有害な生き物なのである。故に、獣人は幼いうちに殺されることがしきたりとなっていた。——ユタヤもかつて、獣人であることが知れた瞬間に、殺されそうになった経験がある。村人に追われ、体中に傷を負い、血だらけになって走ることもできなくなって行き倒れていたところに現れたのが、彼女だった。
——貴方さえよければ、私の仗身になってくれないかしら?
そう言って手を差し伸べてくれた少女が、ユタヤには天女のように尊く見えた。
死にかけていた獣人ユタヤは、その時齢八歳であった。当時五歳であった少女に「仗身」として仕える誓約を交わし、獣人でありながら人の心を保ち、そして現在に至っている。
ユタヤはその時に、何があってもこの天女のように尊い少女を護るのだと心に誓った。例え何があっても、彼女に尽くし、彼女のためにならば何でもする、と。
それなのに、いつからか、彼女に淡い想いを抱くようになり、彼の中では彼女に尽くすのだという忠誠心と、彼女を他に渡したくないという利己心が常に格闘している。この想いの名前を、彼は知っていた。知っていて、口に出来ずにいる。いや、してはならないのだ。この想いは獣人にはあまりにも身分不相応である。決して、知られてはならない——
それは、カグワが十六歳、ユタヤが十九歳を迎える、そんな不安定な時期のことであった。
まだ巫女になったばかりの少女の回りには、いくつもの悩みの種が知らず知らずのうちに蒔かれている。




