第十一章 日の下の色
インファは面白くなかった。
衝立の向こうで、同じ年頃らしい娘たちが、店の表に立つシウォンの話をしている。
「見た?洪家の護衛の方」
「背の高い方でしょう?」
「そう。いつも洪家のお嬢様についている人」
インファは、広げられた反物へ視線を落とした。
淡い桃色の布だった。
細い銀糸で織られた花が、店の戸口から差し込む光を受けて、かすかに浮かび上がっている。
少し前までは、きれいだと思っていたが、今はどうでもよくなっていた。
「近くで見ると、思っていたよりずっと格好いいのね」
「顔がとても整っていたわ」
「でも、少し怖くない? 目が鋭くて」
「そこがいいんじゃない」
楽しそうな声が重なる。
インファの指先が、反物の端をつまんだ。
シウォンの顔が整っていることくらい、インファも知っている。
けれど、それがどうしたというのだろう。
「笑ったところ、見たことある?」
「私はないわ」
「私は一度だけ見たことがあるわ。洪家のお嬢様が何か話しかけたときに、ほんの少し」
「いいなあ」
反物をつまんでいたインファの指に、力が入った。
シウォンが笑ったところを見たことのある娘がいる。
それも、面白くなかった。
「近寄りがたいから、皆、見ているだけなのよ」
「でも、狙っている人はいるでしょう?」
「いるに決まってるわ。あんな人、放っておくものですか」
インファは桃色の反物を畳んだ。
先ほどまできれいに見えていた花模様が、急に気に入らなくなった。
「これは違う」
向かいに座っていた乳母が、布とインファの顔を交互に見る。
「先ほどは、お好きだとおっしゃっていたではございませんか」
「日の下で見たら、違うと思う」
「まだ外へは持ち出しておりません」
「……部屋の中でも、光は変わるもの」
苦しい言い訳だった。
乳母は何も言わず、次の反物を手に取った。
インファは横を向く。
開け放たれた戸の向こうに、シウォンの背が見えていた。
店の前を、大きな荷を担いだ男が横切った。
遮られたのは一瞬だったが、シウォンはすぐに位置をずらし、店内のインファを視界へ戻した。
誰も気づかないほど自然な動きだった。
けれど、インファは知っている。
寒い日には、何も言わず風上へ立ってくれる。
人混みでは一歩先を見て、危ないものが近づけば間へ入る。
好きな菓子も、苦手な薬草の匂いも覚えている。
泣いている子どもへ近づくときは、怖がらせないよう刀から手を離してしゃがむ。
シウォンは、見た目だけではない。
とても優しい人なのだ。
それなのに、衝立の向こうの娘たちは、背が高いだの、顔が整っているだの、笑った顔を見たいだの、そればかり話している。
「シウォンは、見た目だけじゃないし」
考えていたことが、そのまま口からこぼれた。
乳母の手が止まる。
「お嬢様?」
「とっても優しいんだから」
インファは何事もなかったように、乳母が持っている反物を指した。
「次は、それを見せて」
乳母は何かを言いたそうにインファを見つめた。
だが、結局は何も言わず、淡い杏色の布を広げた。
インファが町の仕立て屋へ来ることになったのは、その日の朝、父が乳母へ告げた一言が始まりだった。
「漢陽から、大切な客人がお見えになる」
朝食を終えたあとのことである。
春鈴祭まで、あとひと月ほど。
戸の向こうでは、冬の名残を含んだ風が、葉を落とした庭木の枝を揺らしていた。
「新しい衣を一揃い、仕立ててやりなさい」
父がそう命じると、乳母はすぐに頭を下げた。
「かしこまりました」
インファは、自分の袖を見下ろした。
淡い色のチョゴリには、細かな花の刺繍が入っている。
昨日着た衣も、その前の日に着た衣も、どこにも傷んだところはなかった。
「新しくしなくても、衣ならあるよ」
「客人を迎えるためのものだ」
父は文机の上の書状へ目を戻しながら答えた。
「でも、まだきれいだよ?」
「お嬢様」
乳母の声には、これ以上言い返してはならないという響きがあった。
インファは口を閉じた。
十五歳の春鈴祭から、もうすぐ三年になる。
洪仁花――ホン・インファは十八歳になった。
五歳の頃と比べれば、背は伸びた。
とはいえ、同じ年頃の娘たちと並べば、やはり小柄な方である。
艶のある黒髪は腰近くまで伸び、今日は後ろでゆるくまとめられていた。
小さな顔には、まだ少女らしい柔らかな丸みが残っている。
けれど顎先はすっと細く、横を向けば、両班の令嬢らしい端正さがあった。
誰もが振り返り、息をのむような美人ではない。
ただ、とても可愛かった。
季節の花を思わせるような、柔らかな華やかさもあった。
黒曜石を水に沈めたような大きな瞳は、嬉しいものを見つければ言葉より先に輝き、驚けばこぼれ落ちそうなほど丸くなる。
小さな鼻に、細い鼻筋。
花びらのような唇は、黙っていても両端が少し上を向いていた。
そのため、澄まして座っていても、今にも笑い出しそうに見える。
実際、鈴の音が一つ聞こえれば、澄ました顔など三つ数える間ももたない。
育ちのよさは、姿勢や衣の着こなしに自然と表れていた。
けれど、それ以上に人の目を引くのは、歩くだけで周囲の空気まで柔らかくなるような、可憐な雰囲気だった。
乳母はそんなインファを頭の先から足元まで眺めた。
「寸法も測り直さなければなりませんね」
「前と変わってないよ」
「前に仕立てたのは一年前でございます」
「一年前と同じだもの」
「同じではございません」
乳母はきっぱりと言うと、インファの肩から腰元へゆっくりと目を移した。
去年より肩の線はやわらかくなり、華奢な身体にも、いつの間にか娘らしい丸みが宿っている。
幼い頃から見守ってきた乳母は、どこか眩しそうに目を細めた。
インファは、自分の肩や腕を確かめるように見下ろした。
何が変わったのか、本人にはよく分からない。
「仕立て屋を屋敷へ呼びましょう」
乳母が言った。
インファは顔を上げる。
「町のお店へ行きたい」
「なりません」
返事が早かった。
「どうして?」
「どうしても何もございません。反物を持ってこさせれば済むことでございます」
「でも、お店にはもっとたくさんあるでしょう?」
「必要なものを選んで持ってこさせます」
「部屋の中で見る色と、日の下で見る色は違うの」
乳母の動きが止まった。
父も書状から目を上げる。
インファは、できるだけ真面目な顔を作った。
「光の入り方で、色は変わって見えるでしょう? 部屋ではきれいでも、外へ出たら顔色が悪く見えるかもしれないもの。大切なお客様にお会いする衣なら、きちんと日の下で見なければいけないと思うの」
もっともらしい。
自分でも、なかなかよい理由を思いついたと思った。
乳母は疑わしそうにインファを見る。
「町を歩きたいだけではございませんね?」
「違うよ」
「菓子屋へ寄ろうとも思っておりませんね?」
「思ってないよ」
「風鈴の店を見ようとも?」
「それは少し思ってるけど」
乳母が深く息を吐いた。
父は口元へ手を当てた。
咳払いをしているようにも見えたが、おそらく笑いを隠したのだ。
「ジュノに案内させなさい」
父が言った。
「シウォンも同行させる。寄り道はせず、仕立て屋だけだ」
「はい」
インファはすぐに返事をした。
「お嬢様」
乳母が横から念を押す。
「分かってる。仕立て屋だけ」
返事が早すぎたせいか、乳母の疑いは最後まで晴れなかった。
町へ出る支度を終えたインファは、乳母とともに前庭へ下りた。
シウォンは、すでに門の近くで待っていた。
二十三歳になった今、その姿には、少年だった頃の痩せた面影はほとんど残っていない。
黒い護衛服を隙なく身につけ、腰には刀を帯びている。
背は高く、肩幅も広い。
細身ではあるが、まっすぐに立つ姿勢と衣の上から分かる引き締まった身体には、十三年の鍛錬が刻まれていた。
額から鼻先へ続く線はまっすぐで、頬から顎にかけての輪郭には無駄がない。
濃い眉の下には、細く鋭い切れ長の目。
薄い唇は固く閉じられ、立っているだけで、容易には近づけない空気がある。
華やかな顔ではない。
けれど、冷たく見えるほど端正だった。
人の顔より先に手元を見て、笑い声より先に足音を聞く。
門を出入りする家人たちも、シウォンの前を通るときだけ、無意識に姿勢を正していく。
「シウォン」
インファが呼ぶ。
こちらを向いた瞬間、鋭かった目元がほんの少し緩んだ。
それだけで、近寄りがたかった顔が驚くほど若く見える。
本人は、何も変わっていないつもりらしい。
「お支度はお済みですか」
「うん。ジュノは?」
シウォンが屋敷の方を見る。
「旦那様に呼ばれています。先に向かうようにと」
「ジュノが案内するんじゃなかったの?」
「店の場所は分かります」
「私も分かるよ」
「お嬢様は、以前、同じ道を三度通って気づきませんでした」
「似た道だったの」
「同じ道です」
インファは口を尖らせた。
「では参りましょう」
シウォンが門の外を確かめる。
インファが歩き出すと、いつものように半歩後ろへついた。
その頃、ジュノは主人の部屋へ呼ばれていた。
「失礼します」
頭を下げて部屋へ入る。
主人は文机の前に座り、先ほどインファへ見せていたものとは別の書状を広げていた。
「インファたちは出たか」
「はい。シウォンがついています」
「そうか」
主人は書状を折り、ジュノへ向き直った。
「今度の客人について、お前には先に話しておく」
ジュノの表情が変わる。
ただの客人なら、わざわざインファを先に出し、自分だけを部屋へ呼ぶ必要はない。
「漢陽からお見えになるのは、驪興閔氏の次男、ミン・ソンジン殿だ」
ジュノは聞き覚えのある家名に、わずかに眉を上げた。
漢陽でも名の通った家である。
地方両班の洪家とは、同じ両班といっても持つ影響力が違う。
「なぜ、そのようなお方がこちらへ?」
「インファとの縁談だ」
ジュノの口が閉じた。
すぐには言葉が出なかった。
「……縁談」
「まだ決まった話ではない」
主人は落ち着いた声で続けた。
「先方から話があり、まずは互いを知るためにお招きする。本人を見ずに話を進めるつもりはない。インファの意思も聞く」
「お嬢様は、ご存じなんですか」
「まだ知らせていない」
「どうしてです」
「決まってもいない話で、余計な心配をさせる必要はない。それに、あの子が黙って話を聞くと思うか」
ジュノは答えなかった。
思わない。
相手はどんな人なのか。
なぜ自分なのか。
いつ決まったのか。
父はどう思っているのか。
納得するまで、いくつでも尋ねるだろう。
主人は、わずかに息をついた。
「話すなら、こちらも答えを用意してからだ」
主人の答えに、ジュノは黙った。
乳母が知っているからこそ、仕立てる衣へあれほど気を配っていたのだろう。
インファだけが、何も知らずに日の下で色を見ると言っている。
「乳母には話してある」
「シウォンは」
「まだだ」
主人は少し間を置いた。
「常にインファのそばにいる。本人へ聞かれずに話す機会がなかった」
それから、ジュノをまっすぐに見る。
「お前から知らせておきなさい」
「俺がですか」
「いずれ知ることだ。護衛として、客人の身元も訪問の目的も把握しておく必要がある」
それはもっともだった。
もっともではあったが、ジュノはすぐに返事をしなかった。
十三年間。
誰より近くでインファを守り続けてきたシウォンへ、インファの縁談を知らせる。
なぜか、ひどく言いづらい役目に思えた。
「……分かりました」
ジュノは頭を下げた。
ジュノが仕立て屋へ着いたのは、インファが「シウォンは見た目だけではない」とこぼした、ちょうどそのときだった。
店の戸が開く。
「遅くなりました」
聞き慣れた声に、インファが顔を向けた。
ジュノだった。
冷たい風とともに店へ入ってきたジュノは、戸口で一度立ち止まり、店の中を見渡した。
日に焼けた顔。
短く整えた黒髪。
濃い眉に、まっすぐな鼻筋。
すっきりとした頬から顎の線には、幼い頃の活発な少年の面影がわずかに残っている。
けれど、もう少年には見えない。
健康的に引き締まった身体には働く男らしい力強さがあり、冬物の作業着もきちんと着こなしていた。
荷を担げば腕の筋が張り、家人たちへ指示を出す声には迷いがない。
黙っていれば、なかなか端正で精悍な青年だった。
あくまで、黙っていればの話である。
「あら、ジュノさん」
店の若い娘が顔を明るくした。
衝立の向こうにいた娘たちも、先ほどまでシウォンの話をしていたことなど忘れたかのように、そっと顔をのぞかせる。
ジュノはそれに気づくと、誰に対しても変わらない笑顔を向けた。
怒れば鋭くなる目が柔らかく細まり、頬にかすかな窪みが浮かぶ。
その笑顔には、初対面の相手まで昔からの知り合いのように安心させる明るさがあった。
「こんにちは。今日は忙しそうだな」
「春鈴祭が近いですから。ジュノさんこそ、お仕事ですか?」
若い娘が嬉しそうに笑い返す。
町でジュノがもてる理由は、インファ以外にはよく分かるらしい。
インファには、やはり分からなかった。
どれほど町で評判がよくても、インファにとってのジュノは、池へ近づけば怒り、木に登れば怒り、一人で町へ出ようとすれば門まで追いかけてくる、口うるさいお兄ちゃんである。
「お嬢様のお供」
言いながら、インファの方へ来る。
その言葉が聞こえた途端、衝立の向こうの話し声がぴたりと止まった。
「遅い」
「旦那様に呼ばれてたんだよ」
「私たち、先に着いたよ」
「見れば分かる」
人前でなければ、相変わらずの言い方だった。
乳母が咳払いをする。
ジュノは姿勢を正した。
「旦那様から、仕立ては客人がお見えになる前日までに間に合わせるようにと。それから、必要なものがあれば遠慮なく揃えるようにとのことです」
「分かりました」
乳母は短く答えた。
二人の間に、インファの知らない何かがある。
そう感じたが、尋ねる前にジュノは店の外へ目を向けた。
「シウォンと話してくる」
「何を?」
「仕事の話だ」
「私に聞かれたら困る話?」
「お前は布を選んでろ」
やはり口うるさい。
インファが言い返す前に、ジュノは外へ出ていった。
シウォンは入口の脇に立ったまま、通りへ目を向けていた。
ジュノが隣へ並ぶ。
「旦那様から聞いた」
シウォンは視線を動かさなかった。
「何を」
ジュノは店内を一度見る。
衝立と積まれた反物に隠れ、インファの姿は見えない。
声も、ここまでは届いていなかった。
「今度の客人のことだ」
「漢陽から来ると聞いている」
「驪興閔氏の次男だ。ミン・ソンジン。二十五歳」
シウォンの目が、わずかに動いた。
「それから」
ジュノは声を落とした。
「インファの縁談相手だ」
通りを、荷を担いだ男が横切った。
子どもが二人、追いかけるように走っていく。
向かいの店からは、客を呼び込む声がしている。
シウォンは何も言わなかった。
表情も変わらない。
ただ、通りを見ていた目が、一度だけ店の奥へ向いた。
「まだ決まった話じゃない」
ジュノが続ける。
「まずは会って、互いを知るために来る。旦那様は、インファの意思も聞くと言っている」
「そうか」
それだけだった。
ジュノは横顔を見る。
「今、選んでる衣も、そのためだ」
シウォンの指が、刀の鞘へ触れた。
握ったわけではない。
普段と同じ位置へ手を置いただけだった。
「護衛として、客人の身元と訪問の目的を知っておけって、旦那様からだ」
「分かった」
「……それだけか?」
シウォンがジュノを見る。
「ほかに何がある」
「いや」
ジュノは頭をかいた。
何か言うと思ったわけではない。
むしろ、何も言わないと分かっていた。
それでも、もう少し何かあるのではないかと思ったのだ。
「お前、本当に分かりやすいのか、分かりにくいのか、どっちかにしろよ」
「何の話だ」
「何でもねぇ」
店の中から乳母の声がした。
「ジュノ!」
ジュノの肩が跳ねる。
二十三歳になり、屋敷の使用人たちをまとめる立場になっても、母親に呼ばれたときの反応だけは十歳の頃と変わらない。
「何だよ、母さん」
「こちらへ来なさい」
「今、話を――」
「早く」
ジュノはシウォンを見る。
シウォンは何も言わず、わずかに顔をそらした。
笑ったわけではない。
少なくとも、ジュノにはそう見えた。
「お前、あとで覚えてろよ」
「何のことだ」
ジュノは店へ戻った。
「先ほど、お嬢様は日の下で色を見たいとおっしゃっていましたので」
店の女主人が、選び出した反物を数本、ジュノの腕へ載せた。
「表で当ててみてはいかがでしょう」
「何で俺が持つんだよ」
「シウォンは護衛中でしょう。お前以外に誰がいるのです」
ジュノは口を閉じ、両腕へ反物を抱える。
「はいはい。持てばいいんだろ」
「返事は一度でよろしい」
「はい」
ジュノが外へ出る。
乳母とインファも続いた。
店の前には、柔らかな日差しが落ちていた。
乳母が最初の反物を取り、インファの肩へ当てる。
深い紅色だった。
「少し強すぎない?」
「顔色は明るく見えます」
ジュノが言う。
「シウォンはどう思う?」
突然尋ねられ、シウォンがインファを見る。
紅色の布。
白い襟。
艶のある黒髪。
似合わないはずがなかった。
けれど、それが何のための衣なのか知っている今、似合っている。
そう答えればよいだけなのに、言葉が出なかった。
「シウォン?」
「……華やかなお色です」
「色のことじゃなくて、私に似合うか聞いたの」
「お嬢様なら、どの色でもお似合いになります」
「それ、選んでないのと同じだよ」
ジュノが横から口を挟む。
「紅は悪くないだろ。でも、客人を迎えるなら、もう少し落ち着いた色の方が――」
「ジュノには聞いてない」
「俺が持ってるんだから、意見くらい言わせろ」
次は淡い杏色だった。
「これは?」
「先ほどより柔らかく見えますよ」
「シウォン」
「よくお似合いです」
先ほどと同じ調子だった。
「本当に見てる?」
「見ています」
「布を?」
シウォンが一瞬、黙る。
三年前の春鈴祭なら、迷わず答えていた。
――お嬢様を。
けれど今は、その言葉を口にしなかった。
「両方です」
代わりに、そう答えた。
インファは杏色の布を下ろした。
「次」
「お前、今のは結構似合ってたぞ」
ジュノが言う。
「うるさいな」
「人が真面目に選んでやってるのに」
「ジュノが選んだら、地味な色ばっかりになるもの」
「客人を迎える衣だぞ。遊びに行くんじゃないんだからな」
「分かってるよ」
いつものジュノの小言だとインファは聞き流していた。
乳母が三本目を肩へ当てる。
薄い空色だった。
「きれい」
インファが呟く。
日の光を受けると、部屋の中で見たときより少し白く見えた。
「少し顔が青く見えるかもしれませんね」
乳母が首を傾げる。
ジュノも腕を組み、真剣に眺めた。
「悪くはないけどな」
「シウォンは?」
「……」
「また、どれでも似合うって言うの?」
「その色も、お似合いです」
インファは頬を膨らませた。
その後も、何本かの反物を肩へ当てた。
淡い紫。
桜の花びらに似た薄紅。
乳白色。
シウォンの答えは、どれも変わらなかった。
よくお似合いです。
華やかです。
上品なお色です。
インファが聞きたいことだけは、決して言わない。
最後に、乳母が一番下の反物を持ち上げた。
雨上がりの若葉を、さらに淡くしたような色だった。
緑というには柔らかく、青というには温かい。
日の下へ出すと細い糸が光を含み、布の表面に春の水面のような艶が浮かんだ。
乳母がインファの肩へ当てる。
その瞬間、シウォンの目が止まった。
ほんの一瞬だった。
表情が変わったわけではない。
けれど、先ほどまで布と通りを行き来していた視線が、一瞬だけインファから動かなかった。
鋭い目元が、ごくわずかに緩む。
インファはそれを見逃さなかった。
十三年間、誰より近くにいた。
他の者には同じ顔にしか見えなくても、インファには分かる。
「これにする」
即座に言った。
ジュノが目を丸くする。
「決めるの早くないか?」
「これがいい」
「さっきまで、あれが違う、これも違うって言ってただろ」
反物の束とインファを見比べながらジュノが言う。
「日の下で見たら、一番きれいだったの」
インファは布を胸元へ当てたまま、シウォンを見る。
「似合う?」
シウォンはすぐに答えなかった。
自分がわずかに反応したせいで選ばれたとは、気づいていないらしい。
やがて、いつもの静かな声で言った。
「……はい」
たった一言だった。
けれどインファは満足そうに笑った。
「じゃあ、これ」
ジュノが二人を交互に見る。
何か言いたそうな顔をしていたが、乳母に反物を渡すよう命じられ、口を閉じた。
店内へ戻ると、先ほどの娘たちは声を潜めて話していた。
シウォンの話ではなかった。
「本当に、漢陽からいらっしゃるの?」
「間違いないわ。宿の離れを整えるよう、話が来ているんだって」
「でも、どうしてこんな町へ?」
インファは選んだ反物を女主人へ渡しながら、何となく耳を傾けた。
「驪興閔氏の若様でしょう?」
その家名を聞いた瞬間、反物を運んでいたジュノの足が止まった。
店の入口に立つシウォンも、顔をわずかに向ける。
「ミン・ソンジン様よ。漢陽では有名なんですって」
「家柄が?」
「それもあるけど、遊び好きで」
娘たちの声が少し弾んだ。
「堅い席でも冗談ばかりで、いつも扇子を持って笑っていらっしゃるとか」
「初対面でも、昔からの知り合いみたいに話すんですって」
「ずいぶん馴れ馴れしいお方なのね」
「町の娘にも気軽に声をかけるそうよ。だから軽薄なお方だって」
「縁談の話も、いくつかまとまらなかったらしいわよ」
「まあ」
面白がる声が重なる。
「名門の若様なのに、町をふらふら歩くのがお好きなんですって」
「遊び好きの若様が、こんな静かな町で何をなさるのかしら」
ジュノの眉間へ、深い皺が寄った。
シウォンの顔は変わらない。
ただ、聞き流してはいないことだけは分かった。
インファは二人を見る。
「知ってる人?」
「知らない」
シウォンが答える。
「今のところはな」
ジュノが続けた。
「今のところ?」
「何でもありません」
人前のため、急に丁寧な言葉へ戻る。
インファは怪しんだが、乳母から寸法を測るため奥へ来るよう呼ばれた。
振り返りながら、もう一度二人を見る。
ジュノとシウォンは、同じ顔をしていた。
何か気に入らないものを見つけたときの顔だった。
それから数日間、ジュノは仕事の合間を縫って町で話を聞いた。
布屋の女主人。
茶屋で働く娘。
宿の台所を任されている女。
漢陽から嫁いできた商家の妻。
だが、集まるのは仕立て屋で耳にしたものと似た噂ばかりだった。
誰かの姉が見た。
知り合いの従姉妹が聞いた。
漢陽から来た行商人が言っていた。
話は遠くなるほど大きくなる。
一方、シウォンも男たちから話を集めていた。
客人の身元を確かめるのは、護衛として当然のことだった。
家柄。
同行する者。
滞在先。
町へ入る道。
本来なら、それだけ分かればよい。
それでも、二人が持ち帰った紙には、客人の身元だけでは済まない話まで、いつの間にか増えていた。
夜。
行廊棟の一室で、ジュノとシウォンは向かい合っていた。
低い卓の上には、二人が集めた話を書き留めた紙が並べられている。
ジュノの文字は大きく、要点ごとに分けてあった。
シウォンの文字は小さく、どこで、誰から、どの話を聞いたかまで細かく記されている。
「お前、ここまで書く必要あるか?」
ジュノが一枚を持ち上げる。
「同じ噂でも、元が一つなら数に入らない」
「分かってるけどよ」
シウォンは紙を一枚ずつ分けた。
直接見た話。
誰かから聞いた話。
出所の分からない話。
「女性の扱いに慣れている、ってのは四人から聞いた」
ジュノが言う。
「四人とも、同じ茶屋の客から聞いた可能性がある」
「じゃあ、これは?」
「馴れ馴れしい」
「三人」
「二人は姉妹だ。同じ話だろう」
「細かいな、お前」
「確認するために集めた」
シウォンは次の紙へ目を落とす。
「宴席を好むという話は多い」
「だろ?」
「だが、酒で騒ぎを起こしたという話はない」
「軽薄だって話は?」
「多い」
「縁談がまとまらなかったってのは」
「理由は分からない」
「町をふらつく」
「本人を見た者がいる」
「身分に関係なく、誰にでも声をかける」
「お前もしている」
シウォンが手元の紙から視線を上げずに言う。
ジュノが顔を上げた。
「俺と一緒にするな」
「同じだ」
「俺は普通に挨拶してるだけだ!」
「向こうもそうかもしれない」
「お前、そいつをかばいたいのか?」
「事実と噂を分けているだけだ」
ジュノは腕を組んだ。
その言い方は、いかにもシウォンらしかった。
感情を挟まず、危険かどうかだけを見極めようとしている。
少なくとも、本人はそのつもりなのだろう。
ジュノは卓の上の紙を見渡した。
遊び好き。
軽薄。
本心が分からない。
女に慣れている。
縁談がまとまらない。
身分のわりに町を歩き回る。
一つ一つは、決定的な悪事ではない。
けれど、かわいい妹のように育ったインファの縁談相手として考えれば、どれも気になる。
かなり気になる。
ジュノは紙を一枚、卓へ戻した。
「……なあ、シウォン」
「何だ」
「これっていい縁談なのか?」
シウォンは答えなかった。
卓の上へ目を落としたまま、出所の分からない噂を端へ寄せ、直接本人を見た者の話だけをもう一度並べ直す。
ジュノは黙って待った。
やがてシウォンは、最初に分けた紙を一枚ずつ見直した。
酒で騒ぎを起こした事実はない。
家人へ乱暴を働いた話もない。
借りた銭を返さなかったという者もいない。
悪人だと判断できる材料は、何一つなかった。
それでも、よい相手だと安心できる材料も、何一つなかった。
「悪い噂の多くは、確かめられない」
「だろ?」
「だが、安心できるほどのよい評判も見つからない」
ジュノが顔をしかめた。
「それ、一番困るやつじゃねぇか」
「ああ」
シウォンが短く答える。
ジュノは片肘を卓へつき、額を押さえた。
しばらくして向かいを見ると、シウォンも眉間へ指を当て、並べた紙を睨んでいた。
「本人に会って確かめるしかないか」
「それしかない」
「お前、絶対に怖い顔するなよ」
「していない」
「今もしてる」
「お前もだ」
ジュノは言い返そうとした。
けれど、シウォンの眉間に刻まれた皺が、自分のものとよく似ていることに気づき、口を閉じた。
二人はもう一度、卓の上の紙へ目を落とした。
まだ顔すら見ていない若様のことで、ジュノとシウォンは同じように頭を悩ませていた。




