第9話:なにをして喜ぶ
三月も半ばを過ぎた、ある土曜日の午後。
札幌の街は、ようやく雪解けの泥濘から乾いたアスファルトへと変わりつつあった。丸山隆は、週に一度の特売品を買い込むため、少し離れた大型スーパーからの帰り道を重い買い物袋を両手に提げて歩いていた。
三十六歳、独身。相変わらずサイズの合わない休日のスウェット姿で、少し歩くだけで額にはじっとりと汗が滲む。
丸山が、片側一車線の比較的交通量の多い道路沿いを歩いていた時のことだった。
前方から、一台の自転車がフラフラと走ってくるのが見えた。乗っているのは、小柄な高齢の女性だ。前カゴにはスーパーの袋がパンパンに詰め込まれており、どうやらバランスを崩しているらしい。
「あっ……!」
丸山が声を上げるより早く、女性の自転車は歩道と車道を隔てる小さな段差に車輪を取られ、ガチャンという派手な音を立てて車道側へと転倒してしまった。
運悪く、前カゴから飛び出した玉ねぎやリンゴが、コロコロと車道の中央へと転がっていく。
女性は足を痛めたのか、すぐには立ち上がれない様子だ。
そして、その数十メートル先からは、一台のトラックがそこそこのスピードでこちらに向かって走ってきていた。
丸山の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
――危ない。
頭で考えるより先に、丸山は持っていた特売品の入った自分の買い物袋をその場に放り出し、車道へと駆け出していた。
ドンくさい小太りの体が、これまでの人生で一番のスピードでアスファルトを蹴る。
「危ないですよ! 止まってください!!」
丸山は、転倒した女性の前に立ちはだかり、迫り来るトラックに向かって両腕を大きく広げ、必死に振った。
キキィィィィィッ!!
トラックの運転手が慌てて急ブレーキを踏み、けたたましいスキール音が周囲に響き渡った。
トラックの巨大なフロントグリルは、両腕を広げて目を固く瞑る丸山のわずか数十センチ手前で、完全に停止した。
「……っ!」
丸山は腰が抜けそうになるのを必死に堪え、荒い息を吐きながら目を開けた。
「てめぇ!! どこ見て歩いてんだ、死にたいのか!!」
トラックの窓が開き、血相を変えた運転手が身を乗り出して丸山を怒鳴りつけた。
「す、すみませんっ! おばあさんが、転んじゃって……っ!」
丸山はパニックになりながら、背後でうずくまる女性を庇うように頭を何度も下げた。
「チッ! 余計なことしやがって! 危ねぇだろが!」
運転手は苛立たしげに舌打ちをし、窓を乱暴に閉めると、丸山たちを避けるようにして乱暴に走り去っていった。
クラクションを鳴らして通り過ぎていく他の車。
歩道から「何やってんだあの太ったおじさん」「トラックの邪魔してバカみたい」と冷ややかに見つめる通行人たち。
誰も、丸山が女性を助けようとしたことなど見ていなかった。ただ、急に車道に飛び出してトラックの進行を妨げた、迷惑で非常識な中年男として映っただけだ。
「……あ、あの、大丈夫ですか?」
丸山は震える手で、転倒した女性に駆け寄り、散らばった荷物を拾い集め始めた。
「……っ、痛い……」
女性は膝を擦りむき、顔をしかめていた。そして、丸山が差し出したリンゴを受け取ると、怯えたような目で丸山を見た。
「あ、あなたが急に飛び出してくるから、トラックが急ブレーキをかけたじゃないの! もっとトラックが滑ってこっちに突っ込んできたら、どうするつもりだったのよ!」
女性は、感謝するどころか、パニック状態のまま丸山を責め立てた。
「え……」
「もういいわ! 触らないでちょうだい!」
女性は丸山の手から荷物をひったくるように奪い取ると、足を引きずりながら、そそくさと自転車を押して逃げるように去っていった。
歩道に放り出された丸山の特売品の卵は、無惨にもパックごと割れて、黄身がアスファルトに流れ出していた。
丸山は、車道の真ん中で一人、泥だらけになって立ち尽くした。
トラックの運転手に怒鳴られ、通行人に冷笑され、助けようとした当の本人にまで理不尽に責め立てられ、拒絶された。
卵も割れた。膝もすりむいた。スーツのズボンも泥だらけだ。
なにが君の幸せ。なにをして喜ぶ。
丸山は、自分の汚れた両手を見つめ、ふと、小学生の時に泣いている健太に肉団子をあげた日のことを思い出した。
あの時も、誰にも感謝されず、ただ笑い者にされただけだった。
でも。
もし僕が飛び出していなければ、あのトラックの運転手は転がったリンゴに気を取られ、女性の自転車に気づくのが遅れていたかもしれない。
僕が泥を被り、理不尽に怒鳴られたことで、あの女性は命を落とさずに済んだのだ。トラックの運転手も、人殺しにならずに済んだ。
誰も僕の勇気を褒めてくれなくても。
僕が行動したことで、最悪の未来が一つ、確かに消え去った。
そうだ、うれしいんだ。
生きるよろこび。
丸山は、割れた卵を拾い集めながら、泥だらけの顔を歪め、へへへ、と小さく笑った。
理不尽で、痛くて、ただ損をしただけの惨めな午後。それでも丸山の胸の奥には、愛と勇気という友達が灯した、決して消えない熱い火が確かに燃えていた。




