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第8話:それでも君は飛ぶ

三月の札幌は、朝晩の冷え込みがまだ厳しく、ダウンコートを手放せない日が続く。

 午前八時。通勤ラッシュの大通駅は、足早に行き交う人々の熱気と、湿った雪の匂いが混じり合っていた。

 丸山隆まるやま・たかしは、地下鉄の車内でつり革に捕まり、息苦しそうに丸いお腹を揺らしていた。

 三十六歳にもなると、毎朝の満員電車は体に堪える。少し前までなら、空いた席を見つければすかさず座り、目を閉じて体力を温存していたはずだ。

 けれど、丸山は目の前のシートが空いても、決して座ろうとはしなかった。

 ドドドッ、と次の駅で大量の乗客が押し込んでくる。

 丸山の隣に、大きなマタニティマークをカバンにつけた、顔色の悪い若い女性が押し出されるようにして立たされた。彼女は重たそうなため息をつき、お腹を庇うように手すりをきつく握りしめている。

 丸山は、チラリと自分の目の前でスマートフォンに熱中している若いサラリーマンを見た。彼はヘッドホンをしており、目の前の妊婦の存在に気づく様子もない。

 周りの乗客たちも、皆が一様に目を伏せ、寝たふりやスマホに意識を向けて「関わりたくない」というオーラを出している。

 ――だめだ。あんなにお腹が大きいのに、この揺れで転んだら大変だ。

 丸山は、自分の汗ばんだ手のひらをズボンで拭うと、不器用に咳払いをした。

「あ、あの……! す、すみません!」

 丸山は、スマホに夢中になっている若いサラリーマンの肩を、ポンポンと軽く叩いた。

「なんだよ」と、サラリーマンが不機嫌そうに顔を上げ、ヘッドホンを片方外す。

「そ、その……僕、次で降りるんで。よかったら、この方に席を譲ってあげてもらえませんか?」

 丸山は、隣の妊婦を指差して、へらへらと愛想笑いを浮かべながら言った。

「はあ? あんたが譲りゃいいだろ。俺は立ってねえんだから」

「い、いや! 僕、もうすぐ降りるから……お願いできませんか?」

 丸山が必死に食い下がると、サラリーマンは「チッ」と舌打ちをして、面倒くさそうに立ち上がった。

「ほら、座りなよ」と、サラリーマンは妊婦に席を譲り、丸山を睨みつけながら別の車両へと移動していった。

「……あ、ありがとうございます」

 妊婦がホッとした顔で席に座り、丸山に小さく頭を下げる。

「い、いえ! とんでもないです! へへへ」

 丸山は、相変わらずだらしなく笑いながら、彼女から少し離れたドアの近くへと移動した。

 本当は、丸山が降りる駅はまだずっと先だ。足も腰も痛いし、座りたかった。それに、さっきのサラリーマンに舌打ちされたのは理不尽だし、腹立たしい。

 でも、もし僕が直接「席を譲ってあげてください」と言えば、きっと角が立つ。僕が「次で降りるから」と嘘をついて泥を被ることで、彼女は誰かに申し訳ないと思わずに、安心して座ることができるのだ。

 誰も、丸山を褒めてはくれない。

 妊婦も、席を譲ってくれたのはあのサラリーマンだと思っているだろう。丸山はただ、少しお節介で要領の悪い、変な小太りのおじさんとして映っただけだ。

 それでも。

 あの時、僕が声を上げなければ、彼女はずっと苦しい思いをして立っていたかもしれない。僕が泥を被ることで、ほんの少しだけ、誰かの世界が優しくなった。

 愛と勇気だけが、友達さ。

 地下鉄の窓ガラスに映る、汗ばんでシワだらけの自分の顔を見つめる。

 ヒーローのように空は飛べない。マントもないし、かっこいいセリフも言えない。でも、僕の心の中には、確かに熱く燃えるものがある。

 だから、君は飛ぶんだ、どこまでも。

 丸山は、誰にも気づかれないように、窓ガラスに映る自分に向かって、ひどく不格好に微笑んだ。

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