第7話:光る星は消える
三月半ば。札幌の街はまだ雪解けの泥でぬかるみ、深夜の冷え込みは厳しい。
丸山隆は、会社帰りに行きつけの安い居酒屋に寄った後、六畳一間の薄暗いアパートの部屋で、一人、発泡酒の缶を開けた。
「ぷはぁ……」
安っぽいアルコールが、疲労の溜まった身体に染み渡る。
三十六歳。彼女なし。貯金はわずか。休日はスーパーの特売品を買いに行く以外は、一日中テレビの前で寝転がっているだけだ。
今夜もまた、職場の飲み会で若手の分まで多めにカンパを支払い、終電を逃した酔っ払いたちをタクシーに押し込み、一番最後に一人で帰ってきた。
誰も、丸山をタクシーで見送ってくれたりはしない。
「丸山さん、いつもすんませーん!」という軽い調子の言葉と、愛想笑いで手を振る若手たちの顔が、発泡酒の泡と一緒に弾けて消える。
部屋の隅には、脱ぎ捨てたままのシワだらけのスーツが転がっている。
丸山は、床に座り込んだまま、部屋の小さな窓から夜空を見上げた。札幌の空は空気が澄んでいるはずなのに、街の明かりのせいで星はほとんど見えない。
「……なにが君の幸せ、なにをして喜ぶ」
ふいに、いつかどこかで聞いたようなフレーズが口を突いて出た。
それは、丸山がずっと心の奥底に封じ込めてきた、残酷な自問自答だった。
小学生の時、泣いている同級生に大好きな肉団子をあげた。
中学生の時、いじめられっ子の身代わりになってボコボコに殴られた。
就職活動で、ライバルに決定的なノートを譲った。
会社で、後輩のミスを被って部長に土下座をした。
密かに想いを寄せていた結衣のために、泥だらけになって工場を走り回り、その手柄を後輩に譲った。
全部、自分が「そうしたい」と思ってやったことだ。
誰かが泣いているのを見過ごせないから。誰かの絶望を笑顔に変えることが、僕の生きる喜びだったはずだから。
でも。
丸山は、二缶目の発泡酒を開け、ぬるい液体を喉に流し込んだ。
「僕の幸せ」って、一体なんなんだろう。
誰かの身代わりになって泥を被るたびに、心の中の「愛と勇気」という架空の友達は僕を褒めてくれた。けれど、現実の僕はどうだ。
誰からも愛されず、誰の記憶にも残らず、ただ都合よく消費されて、シワだらけのおじさんになっていくだけだ。僕が身を挺して守った「みんなの夢」や「幸せ」の中に、僕の居場所はどこにもない。
わからないまま終わる、そんなのはいやだ。
そう思って生きてきたはずなのに。三十六歳になった今でも、丸山は自分の幸せの形が何一つわからなかった。
窓枠に頭を預け、丸山は目を閉じた。
もし、僕がもっと要領よく、自分の利益だけを考えて生きていたら。今頃は温かい家庭を持ち、綺麗な星空を誰かと一緒に見上げていたのだろうか。
光る星は、消える。
若かった頃に思い描いていた、ささやかで平凡な幸せの可能性は、僕が泥水に顔を突っ込むたびに一つ、また一つと確実に消えていった。
それでも。
たとえ僕が誰からも忘れ去られても、あの時肉団子を食べた健太の顔や、結衣さんが流した嬉し涙は、絶対に嘘じゃない。僕がこの世界に生きた、確かな証拠だ。
丸山は、泥酔した頭でぐらりと横に倒れ込んだ。
冷たい床に頬を押し当てたまま、丸山は不格好に顔を歪め、へへへ、と声を出さずに笑った。
答えなんて、出なくていい。僕は僕のやり方で、泥だらけのマーチを歩き続けるしかないのだから。




