第6話:時は早く過ぎる
三十五歳。時の流れは、残酷なほどに早い。
「丸山さん、その段ボール、会議室に運んどいて。あと、シュレッダーのゴミも満杯だったからよろしく」
「はいっ、ただいま!」
新卒で入ったあの冴えない商社で、丸山隆の扱いは十年前から何一つ変わっていなかった。
相変わらずサイズの合わないスーツを着て、額に汗を浮かべながら重いコピー用紙の段ボールを運んでいる。丸く突き出たお腹は年々大きくなり、頭頂部には少しずつ白いものが混じり始めていた。
「……ねえ、丸山さんって佐々木課長より年上だよね? なんでまだ平社員なの?」
「さあ。昔からああいう雑用係らしいよ。万年パシリっていうか、要領悪いんだよね」
給湯室から漏れ聞こえてくる、若い新入社員たちのヒソヒソ話。
丸山は聞こえないふりをして、へへへ、とだらしなく笑いながら段ボールを抱え直した。
彼らが話題にしている「佐々木課長」とは、かつて丸山が身代わりになってミスを被り、そして丸山が密かに想いを寄せていた結衣と結婚した後輩の佐々木のことだ。
佐々木は持ち前の要領の良さと人当たりの良さでメキメキと頭角を現し、先月の春の人事で、異例の若さで営業課長に抜擢されたばかりだった。今や彼は、会社を牽引する期待の星だ。
会議室に荷物を運び終えた丸山は、トイレの洗面台で顔を洗った。
鏡に映る自分を見つめる。水滴の滴る丸い顔。疲れ切った、冴えない中年男の目。
――時は早く過ぎる。
本当に、あっという間だった。
誰かのミスを被り、誰かのために頭を下げ、泥だらけになって走り回っているうちに、丸山の二十代は跡形もなく消え去っていた。気がつけば、同期はみんな出世するか転職して立派な肩書きを持ち、結婚して家を建て、眩しいほどの光を放っている。
それに比べて、僕の人生はどうだ。
誇れるキャリアもない。愛してくれる家族もない。貯金だって、後輩の結婚祝いや部署の飲み会のカンパで消えていくばかりで、ちっとも貯まっていない。
光る星は、消える。
僕にもし、ほんの少しでも輝ける可能性があったのだとしたら。あの就職活動の時や、佐々木のミスを被った時、自分を優先していれば、少しはマシな人生があったのだろうか。
洗面台の縁を握りしめ、丸山はギュッと目を閉じた。
みじめだった。誰からも尊敬されず、ただ「都合のいい人間」として消費されていく自分の人生が、急に恐ろしくてたまらなくなった。焦りと、どうしようもない諦めが、黒い泥水のように胸の奥に溜まっていく。
「……丸山さん? どうかしましたか?」
ふいにトイレに入ってきた佐々木が、心配そうに声をかけてきた。パリッとした高級なスーツを着こなし、左手の薬指には結婚指輪が光っている。
「あっ、佐々木課長! いや、ちょっと顔を洗ってただけで……! 今、会議室の準備終わりましたんで!」
丸山は慌てて顔を拭き、いつもの愛想笑いを浮かべてペコペコと頭を下げた。
「ありがとうございます。いつも丸山さんに雑用ばかり押し付けて、すみません」
「とんでもない! 僕にはこういう仕事しかできませんから! へへへ」
佐々木の申し訳なさそうな顔を見て、丸山の胸の奥の黒い泥水は、すっと引いていった。
これでいいのだ。僕が光る星になれなくても、僕が泥を被ったことで、佐々木という星がこんなにも眩しく輝いている。彼が家に帰れば、あの結衣さんが笑顔で出迎えるのだ。
誰かの人生を輝かせるための、真っ暗な夜空。
それが、なんの取り柄もない僕がこの世界に存在する意味なんだ。
「じゃあ、僕、シュレッダーのゴミ捨ててきますから!」
丸山は不格好に背筋を伸ばし、小走りでトイレを後にした。過ぎ去っていく時間への未練を、靴の底で力強く踏み潰しながら。




