第4話:ただ損をする役回り
丸山隆が勤めるのは、都内にある社員三十名ほどの小さな商社だった。
入社して数年、丸山の定位置はいつもオフィスの隅。コピー取り、シュレッダーのゴミ捨て、誰もやりたがらない雑用ばかりを押し付けられる毎日だ。サイズの合わない安物のスーツはいつもシワが寄っていて、少し動くだけで額には汗が滲む。
「おい丸山! この発注ミスの件、どういうことだ!」
フロアに、営業部長の怒鳴り声が響き渡った。
取引先への発注数が、一桁間違っていたのだ。損害額は決して小さくない。パソコンの画面を指差す部長の顔は、茹でダコのように真っ赤に紅潮していた。
丸山はビクッと肩を揺らし、立ち上がった。
本当は、丸山のミスではない。発注書を作成したのは、一つ後輩の佐々木だった。佐々木は要領が良く、ルックスも爽やかで、フロアの女性社員たちからの人気も高い。何より、彼は来期の若手リーダー候補として名前が挙がっており、ここで決定的なミスを咎められれば、その輝かしい出世の道は絶たれてしまうかもしれない。
その佐々木は今、丸山の斜め後ろの席で、キーボードを叩く手を止め、顔面を蒼白にして震えている。
――佐々木くんには、期待してくれる上司や、慕ってくれる同僚がたくさんいる。これからの会社を背負って立つ、光り輝く星のような存在だ。
丸山は、自分の汗ばんだ手のひらをズボンの横でギュッと握りしめた。
独身で、彼女もいなくて、休日はアパートで寝て過ごすだけの自分。失うキャリアも名誉も、何もないじゃないか。
「……す、すみません! 僕の、確認不足でした!」
丸山は、部長の前に進み出ると、深く、深く頭を下げた。
空気が一瞬で凍りつく。後ろで、佐々木が小さく息を呑む気配がした。
「お前ってやつは……! いつもいつも、どんくさいミスばかりしやがって! 給料泥棒め、今すぐ取引先に謝りに行け!!」
「はいっ! 申し訳ありませんでしたっ!」
丸山は、雨あられと降ってくる罵声と怒号を、ただひたすらに頭を下げて受け止め続けた。小太りの背中に冷や汗が伝い、ワイシャツがじっとりと張り付く。周りの社員たちは「また丸山か」と冷ややかな視線を向け、誰も庇おうとはしなかった。
その日の夕方。
取引先で土下座まがいの謝罪をして、クタクタになってオフィスに戻ってきた丸山に、給湯室の陰で佐々木がこっそりと声をかけてきた。
「あの……丸山さん。本当に、すみませんでした。僕のミスなのに……」
佐々木は申し訳なさそうに視線を落とし、丸山に缶コーヒーを差し出した。
「いいんだよ、佐々木くん。僕なんて、元々怒られ慣れてるからさ。へへへっ」
丸山がいつものようにだらしなく笑うと、佐々木は「恩に着ます」とだけ言い残し、誰かに見られるのを恐れるように足早に去っていった。
彼が自首して丸山の名誉を回復してくれることはない。丸山の評価は地に落ち、ボーナスも減らされるだろう。ただ損をして、泥を被っただけだ。
給湯室に一人残された丸山は、佐々木から渡された微温い缶コーヒーのプルタブを開けた。
一口飲むと、安っぽい甘さと苦味が口の中に広がる。
理不尽で、情けなくて、惨めだ。
でも、あのまま佐々木が怒鳴られ、築き上げてきた自信や未来への希望を打ち砕かれるのを見るよりは、ずっといい。僕が泥を被ったことで、彼の前途洋々たる未来が守られ、彼を慕う人たちが今日も笑顔でいられるのだから。
そうだ、うれしいんだ。
生きるよろこびって、きっとこういうことなんだ。
丸山は、誰にも褒められない自分だけの勲章のように、空になったコーヒー缶を握りしめ、ふぅっと長く息を吐き出した。




