最終話:微笑みの行方
三月も終わりに近づき、札幌の街にようやく本格的な春の気配が漂い始めた頃。
丸山隆は、休出の仕事を終え、夕暮れの住宅街をとぼとぼと歩いていた。
スーツは相変わらずヨレヨレで、手にはコンビニで買った半額の弁当がぶら下がっていた。
三十六年の人生。振り返ってみれば、損な役回りを引き受け続け、泥だらけになってばかりの冴えない毎日だった。
大通りから一本入った、信号機のない小さな横断歩道に差し掛かった時だった。
丸山の数メートル前を歩いていた若い母親が、ベビーカーのタイヤを段差に取られ、ほんの一瞬だけ手を離してしまった。その隙に、母親の横を歩いていた三歳くらいの小さな女の子が、道の反対側に気を取られ、一人で車道へと飛び出してしまったのだ。
そこへ、夕方の配達を急ぐワンボックスカーが、脇見運転のまま角を曲がってくる。
「あっ……!」
母親が悲鳴を上げた瞬間、丸山の小太りの体は、考えるよりも早くアスファルトを蹴っていた。
――いけ! みんなのゆめ、まもるため。
心の中の、熱く燃える友達の声がした。
丸山は車道に飛び込み、迫り来る鉄の塊の前に身を投げ出し、両腕で女の子の小さな体を力いっぱい歩道側へと突き飛ばした。
鈍く、重たい衝撃音が周囲に響き渡った。
宙を舞った丸山の体は、冷たいアスファルトへと叩きつけられた。手から離れたコンビニ弁当が散乱し、泥と混ざり合う。
「キャァァァァァッ!!」
母親の絶叫。そして、突き飛ばされて膝を擦りむいた女の子の、火のついたような泣き声。
丸山は、仰向けに倒れたまま、ぼんやりと札幌の灰色の空を見つめていた。
痛みはなかった。ただ、自分の体から急速に熱が奪われていくのだけがわかった。
時は早く過ぎる。光る星は消える。
ああ、これで終わるんだな、と丸山は思った。
あの女の子の泣き声は、きっとすぐに泣き止むだろう。彼女には、これから光る星のように生きていく長い未来がある。僕が泥を被ったことで、今日、一つの未来が確かに守られたのだ。
丸山は、泥に塗れた顔をほんの少しだけ動かし、へへへ、といつものように、ひどく不格好に微笑んだ。
――なにが君の幸せ、なにをして喜ぶ。
冷たいアスファルトの上で、丸山は静かに目を閉じた。
愛と勇気だけを友達にして生きた、冴えない男の最期だった。
***
数日後。
丸山の葬儀は、身寄りがない彼のために会社が手配した小さな斎場で行われた。参列者は身内もおらず、職場の人間が数名義理で顔を出すだけの、寂しいものになるはずだった。
しかし、焼香が始まる頃、小さな斎場は入りきれないほどの人であふれかえっていた。
最前列で泣き崩れていたのは、あの日、丸山が命に代えて守り抜いた小さな女の子とその母親だった。「この方がいなければ、娘は今頃……本当に、本当にごめんなさい、そして、ありがとうございます」と、母親は丸山の遺影に向かって何度も何度も土下座をして泣き続けた。
その後ろには、ニュースで事故の顔写真を見て駆けつけた、見知らぬ人々の姿があった。
「あの日、車道に飛び出して私をトラックから守ってくれたのは、この人だったのね……ひどい言葉をぶつけてしまったのに……」
転倒した自転車の老女が、震える手でハンカチを握りしめていた。
「あの時、面接のメモを譲ってくれなかったら、今の僕はいません。あなたは僕の恩人です」
立派なスーツを着た同級生の長谷川が、涙を堪えながら遺影を見上げていた。
そして、最後列で、誰よりも激しく嗚咽を漏らしていたのは、後輩の佐々木だった。
佐々木は、隣で戸惑う妻の結衣の手を強く握りしめ、懺悔するように声を絞り出した。
「結衣、ごめん……俺、ずっと嘘をついてた。あの日、君のイベントのピンチを救うために、土砂降りの雨の中で泥だらけになって工場を回ってくれたのは、丸山さんなんだ。俺の大きな発注ミスを被って、部長に土下座してくれたのも……全部、丸山さんだったんだよ……っ!」
結衣は目を見開き、そしてポロポロと大粒の涙をこぼした。
いつも汗をかいて、不格好に笑って、みんなから「冴えない雑用係」だと馬鹿にされていたあの丸山が、本当は誰よりも深く、誰よりも優しい「ヒーロー」だったのだと、その場にいた全員が悟った瞬間だった。
誰にも知られず、ただ損な役回りを引き受け続けてきた泥だらけの人生。
丸山自身は、「自分は空っぽで、誰からも愛されていない」と思い込んだまま逝ってしまったかもしれない。
けれど、遺影の中でだらしなく「へへへ」と笑う彼の前には、彼が蒔いた「愛と勇気」の種が、こんなにも美しい感謝と涙の花を咲かせていた。
彼の命は消えてしまったけれど。
彼に救われた人々の心の中で、丸山隆という不器用で優しい男のマーチは、これからもずっと、温かく鳴り響き続けていく。




