安輝野春那(あきの はるな)編
《あの時のあなたは、もういなくなっちゃったんだね》
一、春那・二十二歳の春
二〇二四年四月。あれから十五年が過ぎ、春がやってきた。
春那はここ、恵聖大学の体育館にいた。春那が入学して二週間が経ち、
部活動に入部していた。運動部であるが、競技はサッカーではない。
十五時が少し過ぎた。春那を含め、十四人の入部希望者が横一列に並んでいた。
その向かいには、現在の部員が不作為に立っている。二年~四年生で、合計三十九人。
部員の中には私服の者も数人いるが、ほとんどがジャージ。上半身はTシャツ姿だ。
大学は高校のように指定の体操服など無いので、全員バラバラである。
新入生に私服の者はおらず、全員がジャージ姿だ。
現部員の集団の中から、一歩前に出る者がいた。
「キャプテンの麻嶌慶哉 (あさじま けいや)、四回生です。選手と兼任で、マネージャーもしています。みんな、フットサル部に入ってくれて、ありがとう」
黒いジャージとTシャツ姿、身長は百八十センチ越え。基本的にフットサルは屋内競技なので日焼けをしていない選手が多いのだが、彼は一段と白かった。
端正な顔立ちの、爽やかな青年である。『選手と兼任でマネージャー』。
その言葉に新入部員達は皆驚いた様子だったが、慶哉は続けた。
「簡単に自己紹介をしておきます。サッカー部に所属していたのですが、去年大怪我をして、フットサルに転向しました。怪我の影響で長時間のプレーはできません。ですが練習の手伝いなど、運営でも部の力になりたいと思い、選手とマネージャーを兼任しています」
慶哉に続いて、話し始める女性がいた。
慶哉より後方にいたのだが、前に踏み込み、横に並んで言った。
「もうプレイヤーがメインじゃないんだけど、頼れるキャプテンですよ。
ポジションはフィクソ。フィクソの人は、特にお話を聞いてみたらいいんじゃないかな」
そう話していると、慶哉が左腕の肘で、軽く小突きながら言った。
「先に名前ね」
「ア八ッ、そうでした! 私の名前は三条 夏美菜 (さんじょう なみな)です。
二回生で、マネージャーをしています。今年は初の女子部員も入ってくれて、嬉しいです。
困った事があったら、何でも言ってください。よろしくお願いします」
夏美菜は満面の笑みで上半身を折って、深々と頭を下げた。
新入生の列から「可愛い!」という小声が、いくつも聞こえてきた。
身長は百五十五センチ。細身であり、ヘアスタイルはミディアムと呼ばれる、
肩ぐらいまでの長さだ。うっすらと茶色いヘアカラーをしている。
慶哉は新入生の列にいる一番左の男子に、自己紹介をうながした。
「じゃあ新入部員のみんな、自己紹介をしてもらおうかな。一番左の君から」
左から一人一人と続いていき、終わる度に拍手が送られる。
そして春那の番がきた。
「安輝野 春那です。この大学を選んだ理由は、フットサルが盛ん・学生寮があるなど、色々です。高校一年まではサッカーをしていましたが、
フットサルに転向しました。希望ポジションはアラです。よろしくお願いします」
そう言うと、ニッコリ笑って深々と頭を下げた。パチパチと拍手もおきた。
新入部員の中では…というより、フットサル部全体でも春那は目立っていた。
新入を含めた全部員で唯一の女子部員であり、背は百七十五センチある。
男子部員と比べたら普通かもしれないが、女子としては高い方だ。
化粧はしておらず、肌はやや褐色である。長くて黒い髪を後ろの上部でまとめていた。
Tシャツは白だが、ジャージのズボンはオレンジ色。シューズもオレンジだ。
慶哉が質問した。
「ちょっと聞いていい?」
「はい?」
「大学の志望理由なんだけど、色々って他にもあるの?」
「えーっと、入試の成績次第で奨学生扱いになって、学費が安くなるとか。
あと、ユニフォームがオレンジ色で可愛いとか」
ユニフォームの色が理由と聞いて、夏美菜はクスリと笑った。
それに気付いた春那は夏美菜を見て、二人は目を合わせて微笑みあった。
そんな二人を他所に慶哉はある事に気付き、春那に聞いた。
「奨学生って…? 確かウチの部に、受験を首席で通った奨学生が来るって
監督が言ってたけど、君の事?」
「…たぶん、そうだと思います」
『えーっ・へーっ』という言葉が入り交じりながら、部員たちは少しざわついた。
「でもまぁ、そんな感心してもらう事じゃないです」
「なぜ? 勉強ができたら感心するよ」
「私、中学卒業から高校入学まで二年間空いてるし、高校在学中に二年間休学してるんですよね。普通の学生の倍近い時間があったから、勉強ばかりしていたんです」
「合計四年間か。じゃあ君、いくつなの?」
「二十二です」
部員たちは、さらにざわついた。『二十二に見えない』という声が多数聞こえた。
春那は困った様子で少し笑った。
「アハハ…、それ褒められてるのかな」
その後は練習が通常通り行われた。初日と言う事で短めに切り上げ、その後に
新入部員対上級生で練習試合も行われた。優秀な新入部員が多いと感心されたが、
特に春那の注目度と評価は高かった。
●
練習後、新入部員の歓迎会をするので、都合の良い者は食堂に集まるように言われた。
歓迎会と言っても食堂のテーブルにお菓子を並べ、立食で雑談する簡単なものだ。
アルコール類も無い。
春那はタオルで汗を拭きながら、食堂へ向かって歩いていた。
「安輝野さん」
そう言って、春那の左肩をポンッと叩く手があった。夏美菜である。
二人は歩きながら話し始めた。
「あっ、えーっと、三条さんですよね?」
「ナミでいいよ。あと敬語も使わなくていいし。私も使わないからさ」
「うん、分かった」
笑顔で春那が答えると、夏美菜も笑顔になった。
「私はなんて呼んだらいいの? 春那だから、ハルさん?」
少し考えて、春那は答えた。
「うーん、アキって呼んでほしいかな」
「分かった。安輝野のアキだね。アキさん、私が声かける前、ちょっと困った顔してたように見えたんだけど、気のせい? もしかして歓迎会とか苦手?」
春那は目を見開いて、右手のひらを振った。
「いや、そうじゃないよ。ただ、練習や試合が面白かったから、
もっとしたかったなーって思ってただけ。歓迎会してくれるなんて、感謝してるよ」
身長百五十五センチの夏美菜は、百七十五センチある春那を見上げながら言った。
「へーっ、ホントにフットサル好きなんだね」
その直後、夏美菜はある事に気付き、立ち止まって春那の左手首を両手で軽くつかんだ。
春那の左手薬指にはめてある、銀色の指輪。
それを見ながら夏美菜は言った。
「左手薬指の指輪かー。これってさ、そういう事?」
「えーっと、どうなんだろ?」
春那は視線をそらして答えた。頬がだんだんと赤らんでくる。
「いいじゃん! この大学の人? 年下?」
ニヤけながら、夏美菜は聞いた。
「そういうんじゃなくて、幸運のお守りみたいなモノなんだ」
「へーっ、そうなの? あっ---」
二ヤけていた夏美菜だったが、途中で急に真面目な口調になり、春那の左手を放した。
「細かい事言って悪いんだけど、練習や試合中に貴金属類を付けたらダメだよ」
「付けてないよ。体育館に入る前に外して、出たから付けたんだ」
そう言いながら、春那はジャージのポケットに右手を入れ、ある物を見せた。
直系三センチ。厚みは一センチくらいの、オレンジ色のプラスチックケース。
百均で買った収納グッズを、指輪用として使っている。
夏美菜は再びニヤけながら、自分の口を右手で隠して言った。
「へーっ、なるほど。ケースを持ち歩いてるんだ。フットサルしてる時以外は、
とにかく絶対付けていたいワケだ。この『お守り』をさ」
「うーん…」
春那は右手で、自分の後頭部を撫でた。
●
大学の食堂で歓迎会は行われていた。お菓子を中心とした食事・ペットボトルのソフトドリンク・紙コップがテーブルに並べられている。椅子は食堂の端に置かれて、立食形式で行われていた。数人で輪を作って話している者もいれば、イスに座って二人で話し込んでいる者もいる。笑い声も絶えない。そんな盛り上がりの中、私服に着替え終えている慶哉が遅れて食堂に入ってきた。それに気づいた夏美菜は、参加していた会話のグループから離れた。そして飲み物の入った紙コップをもって、慶哉の元に行って差し出した。
「はい、キャプテン」
「おっ、サンキュー」
一口飲むと、慶哉は言った。
「どうだ? 今年の盛り上がり具合は?」
「盛り上がってますよ。今年の目玉は、なんと言ってもアキさんです」
そう言って、夏美菜は右腕を伸ばして指を差した。その十メートルほど先に、
春那が壁を背にして立っていた。回りには五・六人の部員が取り囲んでいる。
「すごいな、囲まれてるじゃないか」
「いえ、最初は十人くらいいたんですよ。あれでも減ったんです」
「すごいな。でも、去年のナミもあんな感じだったろう?」
「そうですけど、あんなには集まってくれませんでしたよ。
アキさんに部のアイドルの座を奪われました!」
夏美菜はブーッと頬を膨らませ、おどけた。
「アハハ!」
二人は遠くの春那を見ながら笑った。春那を見た慶哉は、服装に気付く事があった。
「あいつ、まだジャージ着てるな。どうしてだろう?」
春那以外は、みんな私服に着替え終えている。
「この後、まだ練習したいそうですよ」
「練習? へえ…」
慶哉と夏美菜が話していると、春那に動きがあった。
取り囲んでいたグループの男子部員達に手を振り、二人の方へ向かってきた。
春那は慶哉の前に到着すると言った。
「あらためまして、キャプテン。安輝野といいます。これからよろしくお願いします」
春那は会釈をした。
「こちらこそよろしく。敬語は使わなくていいよ。同い年だしね。
それと、俺もアキって呼んでいいかな?」
「じゃあ、敬語はナシで。うん、アキでいいよ」
慶哉と夏美菜に手を振ると、食堂を出ようとドアに向かって行った。
それを慶哉が声をかけて止めた。
「あっ、ちょっと待って。よかったら少し話を聞かせてくれないか?」
「話? いいよ」
春那と夏美菜は壁際に置かれている椅子に並んで座り、慶哉は椅子を持ってきて向かいに座った。夏美菜は背筋を伸ばし、背もたれにあまりもたれていない。足も閉じている。
春那は背中を背もたれに預けている感じで、足はリラックスしているのか開いていた。
三人とも手に飲み物の入った紙コップを持っている。
慶哉が春那に尋ねた。
「さっきの試合見たけど、アキってすごい技術をもってるし、練習も熱心。
入試は首席の奨学生で、年齢が二十二歳。もう、すごい興味が沸いてさ」
夏美菜は横で、『うんうん』と深くうなずいた。
「そう、めっちゃ興味ある! もう突っ込みドコロ満載だよ」
夏美菜の目は期待で輝いている。慶哉は右手のひらを、春那の方に向けて言った。
「もちろん、言いたくない事は言わなくていいから」
春那はニコリとして言った。
「ううん、そんなの何も無いよ。なんでも聞いてよ」
夏美菜が尋ねた。
「ウチに入学したのが二十二歳っていう理由聞いていい?
自己紹介の時にも少し言ってたよね?」
「私、幼いころは病気がち…というか病気してたんだよね。
小学校高学年くらいから少しづつ良くなったんだけど、中高は波があってさ。
中学卒業してからは二年間、高校は行かずに療養したの。高校は十七歳で入学したんだ。
でも休みがちだったから二年間休学してさ、結局五年間在籍してたんだよ」
「あっ、辛い事聞いちゃったかな?」
夏美菜は申し訳なさそうだったが、春那は気にしてないようだ。
「全然大丈夫だよ。もう体調は良いんだ」
今度は慶哉が尋ねた。
「自己紹介で、『高校からフットサルに転向した』って言ってたけど、
いつからサッカー始めたの?」
「中学の時は体が万全じゃなかったから、一人でボール蹴ってるだけって感じで。
部活は高校に入学してすぐ入ったんだ。でも、ちょっと期待していたのと違ったんだよね」
「期待と違う?」
「うん。試合の話なんだけど、思ったよりボールに触る機会が少ないって感じて。
もちろん直接ボールを触っていない選手だって、ポジショニングとかでプレーしているのは分かってる。けど、私はとにかくボールに触れたかったんだ」
「なるほどね、それで転向したのか。」
フットサルはサッカーよりプレイヤーの数が半減し、ピッチの広さも九分の一。
サッカーと比較すると、選手とボールがグッと密集する。
「そう。ボールを蹴るだけがプレーじゃないけど、
やっぱりボールを蹴ってるトコロを見てほしいんだよね」
「親とか友達に?」
「うん…まあそんなトコロ。それで高校一年の秋にはフットサル部に移籍したんだけど、あまり盛んな部じゃなかったから物足りなくて。個人で作っているチーム…、野球で言う草野球チームみたいなチーム見つけて、練習や試合に混ぜてもらってたんだ」
「すごい行動力!」
夏美菜は感心していた。慶哉も同様だった。
「アキのプレーってアグレッシブだと思ってたけど、行動力もすごいな」
「そうかな? まあ、環境が無ければ、無いなりになんとかしたかったんだ。
要は『知恵と工夫』だよ。そうしたら、そういう答えになったっていう感じなんだ」
「フットサルの強豪なら他の大学もあるだろう? ウチを選んだ理由ってなんなの?」
慶哉が一番興味のある事柄だった。
「私、地方から来てるから、寮に住めたらお金の負担が軽くなるでしょ?
小さな時、親には苦労させちゃったから、なるべく節約したかった。
でもフットサルと勉強に集中したいから、できたらアルバイトはしなくなかったの。
つまりさ、寮があって・奨学生制度があって・フットサルが強くて・ユニフォームが
オレンジ色で---」
『ユニフォームがオレンジ色で』と聞いて、夏美菜は春那の話をさえぎった。
「それ驚いた! 制服が可愛い高校に行きたいってのと、同じような感じなのかな?」
「うーん、そうかもね」
「オレンジなのは何故? 好きなFリーグチームがオレンジとか?」
「違うよ。サッカー漫画の『とびだせ! 青空へ!』ってあるじゃない?
あれのキャラクターで氷上神住が好きなんだ。
氷上のユニフォームがオレンジだからだよ」
春那がそう言うと、慶哉と夏美菜は視線を合わせて笑った。
春那はキョロキョロと、二人の顔を交互に見た。
「えっ、なになに?」
夏美菜は笑いながら言った。
「いや、ごめんごめん! 別にアキさんの事を笑ったんじゃないよ」
夏美菜が謝ると、慶哉も同様に謝った。
「ごめんな。ウチの部員と話していると、ほとんどの奴が『とびだせ』の話するんだよ。
『サッカー好きになったキッカケです』って。
タフな経歴を持っているアキでも、そうなんだと思うと可笑しくってさ」
夏美菜も楽しそうに言った。
「私もキャプテンも、『とびだせ』がサッカーのキッカケなんだ。
私はマネージャーになったけど」
「俺も好きでさ、今でも漫画読み返したりするぜ」
二人に続いて、春那も言った。
「私も大好き。今でも漫画読むよ」
「すごいね、アキさん」
「アハハ、感心されちゃった」
春那が笑った後、夏美菜は少し残念そうな顔をして言った。
「私もあの漫画大好きなんだけど、一つだけ嫌なトコロあるんだよね」
「嫌なトコロ?」
春那が尋ねると、夏美菜は言った。
「ぱふぱふ。」
春那は口を手で隠す事もなく、大きな声で笑った。
「ぱふぱふかぁ、アハハッ!」
慶哉は少しため息をついて言った。
「あのなぁ、ナミ。あの氷上神住は不可抗力だぞ。むしろ被害者に近い」
「でも喜んでますから!」
春那は笑いながら、右手で夏美菜の左肩をポンポンと叩きながら言った。
「まあまあ、いいじゃん。
相手の女の子と氷上は相思相愛だったんだから、問題ないでしょ?」
「アキさん! 私の味方してよぉ」
春那は夏美菜の懇願を聞かずに、夏美菜の胸を見ながら言った。
「いいなぁ」
「何が?」
春那は右手で、夏美菜の胸を軽く触りながら言った。
「ぱふぱふできるじゃん。私じゃあ、ちょっと無理かも」
「ちょっ、ちょっとアキさん!」
春那は笑い、夏美菜は困っていた。
そんな二人を他所に、慶哉は目をつむって下を向いていた。
「あのなぁ二人とも、そんな事は俺のいない時にやってくれ」
「アハハ、ごめーん。キャプテン」
「私は被害者ですから!」
春那は手を引っ込め、右手を自分の顔の前に立てて、夏美菜に向けて『ごめん!』というポーズをした。それを見た夏美菜が『いいよー』という感じで笑顔で返した。
ふと、春那は壁にある時計を見た。三十分ほどが経過していた。
「さてと、そろそろ練習に行こうかな」
そう言うと春那は立ち上がり、「んーっ!」と言いながら体を伸ばした。
「楽しかったよ二人とも。これからよろしくね」
慶哉は春那に言った。
「練習だったら、俺達も付き合うよ。
膝は悪いんだが、練習の相手ぐらいなら問題ないんだ。ナミも来るだろ?」
「もちろん! マネージャーだし、アキさん面白いし」
「いいの?」
「もちろんだ。あと、他の部員も五~六人呼ぼう。ミニゲームとかしてみたいし。
俺も短時間のプレーなら大丈夫だ」
慶哉にそう言われ、春那は慌てて右手のひらを振った。
「あっ、それは悪いよ。みんな着替え終わってるしさ」
「大丈夫だ。みんなフットサル好きな連中ばかりだし、有志で集めるよ。
一人でやるより、複数でやった方が断然上達する。それはアキも思うだろ?」
「まあ、そうだけど…」
夏美菜も言った。
「それにさ、アキさんがいるって言ったら、みんな喜んで集まると思うよ」
春那は照れて笑った。
「だと良いんだけど」
夏美菜は思い出して言った。
「そうだ! さっき話を止めちゃってごめんね」
「話?」
「ほら、大学を選んだ理由。『ユニフォームがオレンジ色だから』っていうトコロで
止めちゃったじゃない? その続き、聞かせてほしいな」
「あっ、理由ね。この街に、昔お世話になった恩師みたいな人がいるんだよ。
その人に、私がプレーしているトコロを見てほしいからなんだ」
「恩師かー、それはすごいね。学校の先生って事?」
春那は右手の人差し指をアゴに当て、夏美菜と視線を外して考えた。
「んーっと、学校の先生? …うん、そうだね。私の先生」
慶哉は春那に尋ねた。
「その人もプレイヤーなのか?」
春那は思わず吹きだした。
「プッ、アハハッ! ぜんっぜん! スポーツがまるでダメな人でさ、
かけっこは万年最下位だったらしいから」
春那は何かを思い出したかのように、ゲラゲラと笑った。
そんな春那を見て、慶哉と夏美菜はキョトンとしていた。プレーする姿を見せたいと言うから、フットサルに精通した人物像を思い浮かべていたからだ。
同時に思った。
『アキはこうも楽しそうに、その人の事を話すんだな』と。
その後、春那を含めた十人ほどで汗を流した。
みんな春那が練習をしたがっていると聞くと、快く応じてくれた。
春那がこのチームに馴染むのに、時間はかからなかった。
二、霧師希・四十八歳の秋
二〇二四年十月二日。八歳の春那と別れ、十五年が過ぎていた。四十八歳となった霧師希は、製鉄所の工場で働いていた。安輝野夫妻が経営していた工場ではない。
個人で経営している自営業の工場だ。広さは学校の教室ぐらい。
従業員は霧師希を含めて五人。霧師希はここで会社員として働き初めて、ちょうど十三年になる。もう新入りを指導する事もあるのでベテランの域だ。仕事内容も以前の様な、
簡単な製品のチェックなどではない。製品を作る為の設計を任されるようになっていた。
昼休みになった。ここは以前のような工場と違って、食堂などはない。自分が担当している機械の近くに、食事ができる場所を作る。工具など仕事道具が置かれている机を整理して場所を作り、イスを持ってきて食事をする。霧師希は自作の弁当を広げ、昼食を済ませた。弁当箱を片づけようとしていると、手元にトンッと缶コーヒーを置かれた。
その缶コーヒーから手元をたどって、相手の顔を見た。
「あっ、社長。お疲れ様です」
「霧師希さんも、お疲れさまです。はい、コーヒー」
霧師希は缶コーヒーを受け取り、ペコッと会釈をした。
彼の名は牧野友行。四十三歳。以前、安輝野夫妻が経営していた工場で働いていた、霧師希の元上司。会社が売却されたのをキッカケに独立していた。
牧野はその辺りのパイプ椅子を引っ張ってきて、霧師希の前に置いて座った。
そして笑顔で自分の缶コーヒーのブルタブを引いた。
「今年もあと三ヶ月か。
今年も霧師希さんのおかげで、ウチの会社もなんとか年が越せそうです」
「勘弁してくださいよ。社長やみんなが助けてくれてこそなんで。
だから僕は自分の仕事に集中できるんですよ、社長」
「あっ、そうですよね。俺は社長だ」
十五年前、安輝野夫妻の工場を退職した二人。牧野は二年かけて自分の工場を立ち上げた。霧師希は就職しようと奮闘していたが、上手くいかなかった。
そんな時、霧師希の事を耳にした牧野が、自分の工場への就職を誘ったのである。
寡黙で愛想の無い霧師希ではあったが、仕事には真摯に取り組む姿勢を買っていた。
「いや、霧師希さんには感謝してますよ。設計の部分はほとんど、あなたに丸投げしてますもん。立派なエンジニアですね。重たい資材運びも、一番やってくれますし」
「いえ、牧野さんが丁寧に教えてくれたからです」
「お願いですから、ヘッドハントとかで辞めないでくださいよ」
霧師希は腕組みをして、首を傾けて言った。
「うーん、どうしようかな? 条件によるかも」
「ちょっとちょっと!」
「アハハ、冗談ですよ」
霧師希はそう言うと、缶コーヒーに口をつけた。
そんな霧師希を見て、牧野は言った。
「霧師希さん、変わりましたね」
「えっ?」
「初めてお会いしたのは、十七~八年くらい前ですか? あの頃の事、覚えてますか?」
「えーっと、どうでしたっけ?」
牧野は眉間にシワを寄せて言った。
「もうとにかく愛想が無い・喋らない・人の目を見ない・暗い・冗談なんて絶対言わない。喫煙所でよくお会いしたけど、『うわぁ、またいるわ』って毎回思ってました」
「ひどいなぁ。でもまぁ、おっしゃる通りでしたけど」
霧師希は参っている様子だ。
「でも、少しづつ変わっていきましたよね。工場を辞める頃には、もう別人だった」
「当時はとにかく就職が決まらなくて困っていたので、本当に助かりました」
そう言われた牧野は、何かを思い出したかのように言った。
「そうだ、そんな話をしに来たんじゃないんです。そろそろですね。一ヶ月後でしたっけ?」
「あっ、そうなんです」
「何年振りですか?」
「えーっと、十五年でしょうか」
来月の十一月三日。春那の通う恵聖大学で、他校との練習試合が行われる。
霧師希は、春那から観戦の招待を受けていた。
「楽しみですね」
「とても楽しみです。少し緊張もしてますけど」
「えっと、春那ちゃんでしたっけ? 僕は会った事ないんですけど。
十五年振りだったら、見た目が全然違うでしょうね。見つけられます?
まあ、ケータイがあるから大丈夫でしょうけど」
「それが、アドレスを知らないんです」
「本当ですか? じゃあ、今回の約束はどうやって決めたんです?」
「両親…安輝野さん夫婦のアドレスは知っているので。メールで」
「この十五年間、一度も会っていないのですか?」
「親は僕に何度か会わせようとしてくださったんですけど、本人が嫌がったらしくて。
段々と疎遠になりました」
「へーっ、嫌がったんですか? まぁ女の子は繊細なのかも。でも、なぜこのタイミングで霧師希さんに会おうと思ったんでしょうか? 連絡があったのは先月なんですよね?」
「そうなんです。副社長…母親からのメールでした」
「まっ、一ヶ月後に全部分かりますね。またお話を聞かせてくださいね」
そう言いながら、牧野は立ち上がった。
「そうだ、スーツはもう出来てるんですよね?」
「あ、はい。アドバイス通り、新調しましたけど…。
大学の練習試合を見に行くのに、スーツを着た方がいいんでしょうか?」
「スーツが無難ですよ。霧師希さんは部外者だし、家族でもないでしょう? そんな人が大学の中をウロウロするんですから。あと、春那ちゃんの立場を考えてもね。俺は娘が小学生の時、授業参観にスーツを着て行ったんですけど、やっぱりそれで良かったですよ」
「僕は授業参観でしょうか?」
「まあ、その例えが一番近いかも」
二人は少し吹きだした。
「まあ、霧師希さんはスーツが似合うと思いますよ。なで肩じゃないし、肩幅がある。
あと、筋肉質でしょう? 細身な方なのに、筋肉はしっかりありますものね」
「まあ、仕事柄ですけど。鍛えた事なんて一度もありません」
「知り合いの娘さんとはいえ、女性に会うんだから身だしなみはしっかりしてくださいよ。
髭なんて当たり前だし、鼻毛も気を付けてください。眉毛は専用のお店があるので、整えた方がいいです。二千円くらいですし。カッターシャツのアイロンがけは済んでますよね? あとは---」
「まるでデートに行くみたいになってません?」
「デートと同じ心構えで行ってください」
三、親友・夏美菜
春那が大学に入学してから半年以上が過ぎた。春那には同級生の友達もいるし、
フットサル部の部員とも仲良くしている。その中でも、一番の親友は夏美菜だ。
部内で貴重な女性であり、フットサルに理解もある。選手としても友人としてもいたわってくれるし、「今時のオシャレ女子」なトコロにも憧れがある。
カフェでも何処でも、夏美菜と他愛無い事を話せる時間を気に入っていた。
春那も同じく十月二日。繁華街にある喫茶店で、春那と夏美菜はお茶をしていた。
夏美菜は上半身がピンク色をしたニット。下半身は白いパンツルックだ。
春那は無地で灰色のトレーナーとジーンズだ。髪は頭の下でくくっている。
二人は向かい合って座っており、春那が通路側の椅子・夏美菜が奥のソファに座っている。
「アキさんとは数えきれないくらいお茶しているけど、
絶対に私をソファに座らせてくれるよね。エスコートばっちりじゃん」
夏美菜はそう言って、右手でOKマークを作って笑った。
春那はアハハと豪快に笑って言った。
「女にしとくのは勿体ないかな?」
そしてメニューを手に取った。
「お腹空いてんだよね。お米食べたいなー。ピラフにしよう」
「私はまあまあかな。サンドイッチにしよう。ここの名物だし」
夏美菜もオーダーを決めた。ドリンクセットで春那はホットコーヒー、夏美菜はホット紅茶にした。間もなく、ドリンクだけが先に運ばれてきた。
春那がコーヒーを口につけていると、夏美菜は言った。
「アキさん、カフェだと絶対コーヒーだよね。コーヒー以外飲んでるの、思い出せないよ」
「うん、好きだね。初めて飲んだのは五歳かな」
「五歳? えーっ、それは良くないかも」
「ううん、でもコーヒーじゃないんだよね」
「コーヒーじゃないの?」
「うん、違うよ。しかも変わった味」
「どういう事?」
「五歳の時にさ、私コーヒー飲みたいってダダこねた事があって---」
話の途中であったが、春那はクスリと笑うと言った。
「この話はもうイイや。ややこしいし、ごめんね」
「気になるんですけどー!」
そうこうしている間に料理が運ばれてきた。
春那はスプーンにタップリとピラフをすくい、豪快に食べ始めた。
「あー腹減った!」
「ピラフを牛丼みたいに食べる女子って、アキさんぐらいだよ」
と、夏美菜は言ったが、春那は食べる事に夢中で聞いていなかった。
「ふぁい? ふぁんふぁふぇふぇおえあ? (何? 何か言った?)」
口にピラフが入っている為、さっぱり聞き取れない。
「なんでもないよ!」
夏美菜は、いつも豪快に食べる春那の姿が好きだ。
春那はピラフを飲み込んだ後に、水を飲んだ。
「ぷはーっ!」
そして、トレーナーの袖で口元を拭いた。
「ちょっとアキさん! それ止めてってば! おしぼりかハンカチで拭いてよ」
「あっ、そうだった。何回注意されてるんだろね、私」
「それと足広げて座るクセ、直したほうがいいよ」
「いいじゃない。女同士なんだし」
「周囲に見えてるってば! もう」
春那は顔をしかめた。
「かーっ、いつもいつもうるさいよナミは。お母さんかっての!」
「私、くやしいんだよね。アキさんって、すごいポテンシャル持ってるんだよ。
そういうトコロを直してくれたらさ、絶対にすごい『モテ女子』になるよ」
「はーい」
春那の空返事に、夏美菜は呆れた。
「まったく…」
「夏美菜ってさ、すごい可愛いじゃない? 彼氏ほしくないの?」
「ほしいよ。だから頑張っているんだけどね」
「頑張っているって何を?」
「合コン」
「それって、何回くらい行ってるの?」
「今年? えーっと---」
夏美菜はそう言うと、指で数え始めた。しかし、片手だけでは足りないようだ。
「すごい…。じゃあ彼氏できるじゃん。ナミだったら、引く手あまたでしょ?」
「ううん、合コンは出会っているだけだから。ここから選ぶんだよ。
実質、これは婚活だからね」
「婚活! ナミってまだ二十歳だよね?」
「これぐらい普通。大学を卒業する頃には、『優良物件』はもう刈り取られているから」
「ぶっ、物件…」
「ほら、少し言った事あると思うけど、ウチの親、離婚してるじゃん? 私のお母さんが痛い目にあってるからさ。だから沢山の男と出会って・吟味して、選びたいんだよね」
「そういうもんなの?」
「アハハ、そういうもんなの! アキさんは、男に無頓着すぎるよ。
でも、合コンも春過ぎからは行ってないかなぁ」
「どうして?」
「うーん、ちょっとね。うん…なんとなくだよ。
でも、ちょうど良かったかな。変な悪口も広がっているし」
春那は黙った。
「アキさんも知っているでしょう?」
「うん、まあ。」
「男あさりすぎだとか・金持ち探してるとか・高望みしすぎとか。
何で合コンに何度も行ったら、そう言われるのかわかんない。
その上に、学内で告白されて何人も断ってるから、余計なんだろうけど」
「まあ、それは嫉みだからさ、気にしなくていいよ」
「うん、気にしないよ」
夏美菜はそう言いながら、春那の皿を見た。とピラフが無くなっていた。
「アキさん、よかったら一つ取ってよ」
夏美菜はそう言うと、サンドイッチの皿を春那に差し出した。
サンドイッチは三種類あった。ハムチーズ・トンカツ・タマゴサンドだ。
ハムチーズは夏美菜が食べた。
「アキさん、一つ食べる? 私そんなにお腹空いてないからどうぞ」
「ありがと! じゃあ遠慮なく」
トンカツサンドとタマゴサンドが並んでいたが、春那は迷うことなくトンカツをつかんだ。
「美味しい!」
喜んでいる春那に、夏美菜は言った。
「良かったら、タマゴもどう?」
春那はタマゴサンドを少しの間、見つめて言った。
「ううん、いいよ。これで十分」
「遠慮しなくていいのに。アキさんらしくない」
「遠慮じゃないよ。とっても美味しいタマゴサンドがあるのを知ってるからさ、
他のは食べる気がしないんだよね」
「えーっ! このお店のタマゴサンド評判なんだよ。雑誌に何度も取り上げられてさ」
「うん、このタマゴサンドだって美味しいと思うよ。
そうじゃなくて、私の好みじゃないだけで」
「ふーん、今度連れてってね。それ、食べてみたいな」
「分かった、頼んでみるよ。美味しいから期待しててね」
「頼む? 買うじゃなくて?」
「アハハ、なんでもないよ」
食事が一段落して、二人はドリンクを飲みながら会話をしていた。
春那の横には衣料量販店の紙袋と、百円均一のレジ袋が置かれていた。
「今日は付き合ってくれてありがとう、ナミ。おかげで良いの買えたよ。
私一人じゃあ、全然分からないからね」
「ぜんぜんオッケーだよ。『女子っぽい服選んでほしい』って言われたときは驚いたけど。
化粧品も無いって言うから焦ったじゃん」
「アハハ、そうなんだよね。女子っぽい服も無いけど、化粧品はもっと無い。
化粧水くらいかな。あと日焼け止め」
「でも突然だよね。何かあるの?」
春那は少しうつむき、テーブルの下で指をモジモジさせながら言った。
「来月、練習試合あるでしょう? それに招待してるんだよね。だからかな」
「招待? 誰を?」
春那は左手の甲を見せた。そして右手の人差し指で、左手の薬指に付けている指輪を
指さした。
「えーっ! マジで! 紹介してくれるの? それをくれた人だよね!」
身を乗り出して叫んだ夏美菜を、春那が制した。
「シーっ、声がでかいって!」
「でも、ビックリもするよ。今まではどれだけ聞いても話したがらなかったじゃない」
「試合を見に来るからさ、ナミには紹介するね。あとキャプテンにも」
「楽しみだなぁ。分かった!
当日、私がアキさんのファッションとメイクを担当すればイイ訳だ。今日買ったモノで」
「お世話になります」
春那は顔を赤くしながら、深々と頭を下げた。そんな春那を、夏美菜は可愛いと思った。
四、春那と慶哉
慶哉はサッカー界では、将来を有望視された選手だった。しかし大学三回生の春に、
大きな怪我をしてしまう。だが諦める事はしなかった。サッカーよりは膝への負担が少なくて済むと言われている、フットサルへの転向を果たした。主力選手は無理でも、慶哉なら戦力としては十分な実力だった。他の部員の練習相手・コーチ・マネージャー業務なども行った。おかげで他の部員からの信頼も厚い。慶哉のフットサル生活は充実していた。
そんな慶哉に大きな出会いがあった。春に入部してきた安輝野春那である。
春那には、尊敬の念を抱いていた。技術の高さ・練習に取り組む姿勢・勉強。
いずれにも熱心だ。選手としも・学生としても、志の高さに感心していた。
そんな春那に、慶哉が心惹かれるのは必然だった。部員数人で食事に行く事もあるし、
二人で行く事もあった。二人でスポーツショップに行ったりする事もある。
だが春那は慶哉に対しては、尊敬するキャプテンという想いだった。
●
十月九日。時刻は間もなく十八時。大学の図書室に慶哉はいた。机の上に数冊の本を置き、読み込んでいた。一時間ほど読み続けて少し疲れてきた。フーッとため息をつきながら、背もたれにもたれかかった時、左隣からドサッという音がした。
一列に積まれた十冊くらいの本が、机に置かれたのだ。
「お疲れ様、キャプテン。こんな所で会うなんて珍しいね」
声の主は春那だった。
「アキ、お疲れ。本当だな、図書室で会うなんて初めてだ」
「何の本を読んでるの?」
春那は慶哉の前に置かれている本を、数冊手に取った。
タイトルは「人体の仕組み」「神経工学」「理学療法士が教える膝痛改善メソッド」などだ。
「へぇ、人体に関する本ばかりだね。膝、調子よくないの?」
「そう言うアキは何を借りるんだ?」
慶哉は隣に積まれた本のタイトルを見た。
「『百メートル走の走り方』『筋トレマニュアル』か。サッカー以外のスポーツ本だな。
他のは何?」
「作家のエッセイに、俳句の本。こっちは園芸職人の奮闘記だね」
「なんかバラバラだな。俳句とか園芸に興味あるの?」
「ないよ」
「えっ?」
「自分が全然知らない分野の事から、フットサルに活きる事ってあるよ」
「本当?」
「うん、相手選手の気持ちが読める事だってあるかもね。読書だってフットサルの練習だよ。フットサルに活きなくても、勉強に役立つこともあるから。読んで損はないよ」
「そういうモノなのかな。いつから読書するようになったんだい?」
「中学校かな。学校の図書室に置いてある本が、小学校よりは読み応えのある本が増えたからね。それに、『読書は沢山した方がいいよ』って、ノートに書いてあったし」
「ノートって?」
「あっ、なんでもないっ!」
「ふーん」
慶哉は改めて春那の持ってきた本を見た。
「残りは勉強の参考書か。アキって勉強も好きだよな」
「うん、好きだよ。子供の時、勉強をみっちり教わったんだけど、すごい分かりやすく・楽しく教えてもらってさ。それで好きになったんだ。あと、サッカーだけじゃなくて、
勉強も成長したところを見てほしいんだ」
「そうか、勉強ができる親って助かるよな。アキって親孝行なんだな」
「親…? そうそう、親も含めてね」
「なに言ってんの?」
「アハハ…。それよりさ、どうしたの? 体の本ばかり読んで」
「あっ、違うよ。良くもなっていないけど、悪くもなっていない。
本格的に、勉強しようと思ってさ。怪我の改善の為に」
「勉強って?」
「今までは、医者に任せていたというか、言われていた通りにしていたんだ。でも、もっと良い方法はないかって、考えるようになってさ。怪我が良くなれば、もっとフットサルの技術を向上できる。だから、まずは人体の構造から勉強してみようかなと。医者の指示に加えて、本人が意識を持った動作をすれば、少しは良くなるんじゃないかと思ってさ」
春那は笑顔で言った。
「それはいいよ! 無理だと思っても、色々試してみる事って大事だよ。大事なのは、
『知恵と工夫』だよ。私に協力できる事があったら、何でも言ってね。手伝うからさ」
「ありがとう、その時は言うよ」
「そこまでキャプテンをやる気にさせる理由ってあるの? フットサルが好きだから?」
「もちろんそうだよ。それと、俺には約束があるんだ。他の大学の人だけどね」
「約束?」
「ああ。俺が膝を怪我したのは、サッカー部時代の、去年の春の公式戦だったんだ。
それは知っているだろう?」
「うん、部のみんなから聞いたよ」
「相手の選手と激しくぶつかってさ、俺は怪我の後遺症が残ったけど、相手の選手…反町さんっていうんだけど。反町さんは、もうサッカーは出来ないくらいに痛めたんだ」
「そうなんだ…」
「日常生活は問題無いそうなんだけど。あの人は俺より一歳上でね、大学時代、最後の年の春にサッカーが出来なくなったんだ。申し訳なくて、何度も謝りに行ったよ。
でも、その度に彼は言うんだよね。
『プレー上の事故だったんだから、気にするな』ってね。いつも笑顔でさ。
しかも、俺のフットサルの転向を報告したら、すごく喜んでくれた」
「そう…」
「俺は聞いたんだ。『俺に出来る事があったら言ってください』って。そしたら、反町さんは言ったよ。『君が納得するまで、僕の分までフットサルを続けてくれ。それでいいよ』ってさ。それは大学までなのか、プロを目指せという意味なのかは分からない。でも俺は、『足が動かなくなるまで続けたい』って思うようになったんだ。反町さんの分までね」
「うん! そういう『大切な約束』は力になるよ。自分の為というのも、モチロン良いと思う。でも、『誰かの為に』っていうのは、信じられない力が沸いてくるんだよ」
「確かに、そういうモノかもしれない。マネージャーを兼任しようと思ったのも、それかもしれないな。フットサルのプレーが好きなのはもちろんだけど、部自体が好きなんだって気付いた。部の為なら、何でもしたいと思えるようになったんだ」
「キャプテンがそういう人だから、みんなついていくんだね。
私も部が盛り上がる様に、頑張るよ」
「おう、頼りにしてるぜ」
「任せといて! 私も、キャプテンや反町さんに負けないように、
これをしっかり読まなきゃ」
春那はそう言うと、自分が選んできた本をポンと叩いた。
「アキもフットサルに対する情熱ってすごいよな。プレー機会を増やしたいからサッカーから転向したりとか・個人のフットサルクラブで練習したりとか・大学で男子のフットサル部に入部したりとかさ。練習量も、部で一番だと思うし。その上、勉強も人一倍する。感心しているよ」
「そうかな? そう言ってもらえると嬉しいよ」
「アキを、そこまで奮い立たせる原動力って何なの?
フットサルが好きだからだけじゃあないよな?」
「約束だよ。キャプテンと同じで、『大切な約束』をしているんだ。けど---」
「今は内緒?」
「そういう事。その時が来たら話すよ。キャプテンとナミには知っておいてほしいから」
「よし分かった、聞かないよ。しかしまぁ、アキからは学ぶ事が多いよ」
「そうかな?」
「そうだよ。この人体の本を読んで勉強しようと思ったのは、反町さんとの約束もあるけど、アキの影響もあるよ。プレーも・練習も・フットサルに対する考え方も、
向上心を持ってやってるだろう? 負けていられないって思う」
「そうなんだ。でも、対抗意識を持ってくれるのは大歓迎だよ。私の理想はさ、部員同士は普段の仲は良い。でも、『レギュラー争いやプレーとなったらバチバチにやる』って感じなのがいいんだ。この部は、そんな雰囲気だから好きだよ」
「知ってるよ。部内の練習試合でよく分かる。
一回生の新入部員同士だろうが・膝の悪い俺だろうが、ガンガン削りにくるもんな」
「アハハ、ごめんねー」
「いや、嬉しかったよ。気を使われる方が辛いからさ」
「うん。キャプテンなら、そうだと思ってた。ピッチに立ったら関係ない」
「うん、それで頼むよ。さてと---」
慶哉は椅子から立ち上がった。
「そろそろ帰ろうかな。アキも、それ借りたら帰るんだろ? 一緒に帰ろう」
「まだいるよ。他に探したい本もあるし」
「まだって…、もう十九時過ぎてるぞ? 二十時から始まるのに、良いのか?」
「何の話をしているの?」
「もちろんサッカーのワールドカップの予選だよ。今日だぞ?」
「あっ、そうなんだ。別にいいよ。本を読んでいる方が大事だし」
「えっ、本当に? 部の連中なんて、スポーツバーに行く奴までいるのに。興味ないのか?」
「まぁ、あるけどさ。あれって、いわば興行でしょう? 私は今、自分が楽しむ事に興味ないんだよね。自分を高める事に力を入れたいんだ。それが今、フットサルと勉強なんだ」
「フフッ、そうだな。言われてみれば、その方がアキらしいな」
「なにそれ?」
「なんでもないよ。本当に、お前からは学ぶ事が多いよ」
●
十月三十日。慶哉は早朝の練習、『朝練』に参加する為、大学の体育館にやってきた。
朝七時からスタートだ。マネージャーでもある慶哉は練習の準備をする為、二十分前に入るのだが、体育館にはすでに春那の姿があった。もう体は十分に温まっている様子だった。
「あっ、キャプテンおはよう」
「おはよう、アキ」
春那はすでに少し息を切らしていたので、慶哉は驚いた。
「最近、すごい気合入っているな。何かあったのか?」
「週末、練習試合があるじゃない? それでだよ」
「練習試合? 公式戦じゃなくて?」
「私はまだまだレギュラーの当落線上…っていうか、ちょい下の選手だから。公式戦よりも、練習試合の方が起用してもらえやすいでしょう? 公式戦でベンチを温めているよりも、プレーできる可能性の高い練習試合の方がより気合が入るんだ」
「なるほどね。親でも見に来るのか?」
「うん、そんなところ」
春那はニコリと笑うと、練習に戻ろうとした。
その背中に向かって、慶哉は言った。
「なあ、アキ」
「なに?」
春那は振り返った。
「お前の事、ハルって呼んだらダメか?」
「ハル…?」
どういう意味だろうかと、春那は考え込んだ。
「いや、名字じゃなくて、名前で呼んでも良いのかと思ってさ」
慶哉には春那との距離を縮めたいという思いがあった。春那が左手の薬指に指輪をしているのは知っていた。だが疑問があった。春那には男性と交際をしている様子が、全く感じられなかったからだ。授業と部活動で一日中、大学にいる。スマホを使い込んでいる様子も見た事がない。薬指の指輪は交際の証という意味ではなく、単なるファッションなのだろうか? もしそうなら名前で呼びたいと考えた慶哉は、思い切って言ってみた。
そんな慶哉の気持ちを察したのかどうか分からないが、春那は申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、やっぱりアキって呼んでもらえないかな?」
慶哉は春那以上に、申し訳ない雰囲気で答えた。
「いや、こちらこそ申し訳ない。変な事言っちゃたな」
「別にイヤとかじゃないんだけどね。ただ、ハルって呼び方は、特別な人に呼んで欲しいって決めてるんだよね。家族とか」
「…恋人さんとか?」
「へっ…恋人? そんなのいないけど」
「えっ?」
噛み合わない二人だったが、慶哉が具体的に聞いた。
「ほら、アキって部活動の時以外は指輪しているだろう? あれって、やっぱり---」
「あーっ、これの事?」
春那はジャージのポケットから、指輪の入ったプラスチックケースを取り出して見せた。
「そう、それ。それは恋人にもらったんじゃないの?」
「もらい物だけど、その人は恋人じゃないよ。このケースは百均で買った物だし」
春那は指輪を取り出して左手の薬指に付け、その左手を見ながら言った。
「その人に私の成長した姿を見せたくてさ。くじけそうな時に、その決心をいつでも思い出せるように、できるだけ身に着けるようにしてるの。お守りみたいな物なんだ」
「もしかして、練習試合を見に来る人って…?」
「うん、そうだよ。その人は私の事、『ハル』って呼ぶんだよね。だから、今度の練習試合は特別なんだ。大学の公式戦よりも、ワールドカップよりも大事な試合。
私、その日は日本代表に招集されても行かないよ…なんてね」
春那は顔を赤くしながら、左手の指輪を右手の親指と人差し指で挟むように撫でていた。慶哉はその様子を見て、春那と『その人』との絆の強さには、自分が立ち入れるものではないと理解した。
「分かったよ、試合頑張ろうな。アキの力がフルに生かせるように、サポートするよ」
慶哉が笑顔で言うと、春那も笑顔で答えた。
「ありがとうキャプテン。お願いね」
五、春那の再会
十一月三日。春那と夏美菜は、大学の廊下を二人で並んで歩いていた。
春那は髪をくくっていない。ストレートのセミロングで、鎖骨のあたりまである。
上半身は白のブラウス、下半身はうすいピンク色のロングスカートだ。
足元にはベージュ色のパンプスを履いている。腕にはコートを畳んでも持っていた。
顔は、いわゆる『ナチュラルメイク』で、学生が就職活動にしていく程度の軽めのメイクをしていた。普段から化粧をしない春那にとっては、それでも大きな差である。
春那はややうつむき加減で、コートを抱き抱えるように歩いてた。
横に並んで歩いている夏美菜はジャージ姿だ。
夏美菜は春那に言った。
「アキさん、もっとシャンとして歩いてよ! 顔上げて! 背筋を伸ばして!」
夏美菜は春那の前に向かい合うように立ち塞がり、持っているコートを奪い取った。
「アキさん似合ってるよ! 背が高いから、ロングスカートめっちゃ似合う!」
「そうかな?」
「試しに一人で歩いてみれば分かるよ」
「は?」
「いいから、いいから」
夏美菜はそう言うと、春那の後ろに回って、両手で背中を強めにトンっと押した。
しぶしぶ一人で歩いてみた春那だったが、周囲の反応が普段と違っていた。
同級生やフットサル部の部員などが春那とすれ違うと、皆が歓声を上げた。
「うわっ!」 「おおっ!」 「どうした安輝野?」
そんな春那を見て、夏美菜は後ろから追いかけてきた。
「ほらー! 言った通りでしょ?」
そう言いながら、コートを春那に手渡した。
「うん…そうだけど」
夏美菜の言葉に、春那は少しだけ安心した。約束の十二時まで、あと少し。
●
霧師希は、聖恵大学の最寄り駅に到着していた。着ているスーツは新調した色はネイビーと言われる濃紺。高級品ではないが、骨格が良いのと筋肉質の体格なので、似合ってはいる。灰色のネクタイをして、コートの色は黒だ。
トイレの鏡に写る自分を見て、何度もチェックをする。髭は剃った・眉毛はサロンで整えてもらった・数日前に散髪屋に行き、耳の上で綺麗に整えてもらった。センター分けの髪を、根元を持ち上げるようにブローして、ふんわりした印象にした。ネクタイは曲がっていないか。何度チェックしても、また最初からのやり直しを繰り返した。
そして『いつまでもこうしてはいられない』と、意を決して駅の改札をでた。
十一月だが、今日は陽射しが無いせいか、昼間でも冷える。
ここは都心部から十五分くらいの駅なのだが、急にのどかな印象に変わった。緑が多いし、住宅も一軒家がチラホラある程度。大学は繁華街の近くにあるんだと勘違いしていた霧師希は、驚いていた。だが駅前を見渡すと、お店には不自由しなさそうだ。
スーパー・コンビニ・飲食店や百円均一まで、一通りある。
まもなく、大きな建物が見えてきた。大きな門が目に入る。あれが目的の大学に違いない。
今さらだが、霧師希は今の春那の姿を知らない。三十三歳から四十八歳になった男なら、
まあ分かるのではないだろうか。だが、七歳から二十二歳になった女性など、もはや別人の外見ではないだろうか? どうやって見つければいいのだろうと考えていた。
もうすぐ、十五年ぶりに春那と会える。霧師希は嬉しさで胸が躍っていた。しかし、不安も強かった。会ってどう振る舞えばいいのか? 何を話せばいいのか? 相手は二十代の女性である。五十歳目前の霧師希とは、もはや違う生き物と言っても過言ではない。
不愛想に『あっ…、久しぶりっす』とか、あるいはテンション高く『イェーイ! 霧師希っ!』とか言われたらどうしよう? 霧師希の不安は尽きる事がない。
しかし、たった一つ、強く願っている事があった。『元気な姿であればいいな』と。
●
ここは恵聖大学の正面玄関だ。非常に広く、植物が多数植えられており、左右には長いベンチが何個も置かれている。ここを奥に抜けると教室・体育館・図書館などがある。
春那と夏美菜は、玄関に一番近いベンチに並んで座っていた。二人の前を時折り人が通り過ぎていく。春那の表情は青ざめていた。お腹を両手で抱え、背を少し丸くして言った。
「どっ、どうしよう…」
「あのさー、もう少し楽しそうにできないの?」
夏美菜は少し呆れ気味だ。
「すごい冷たい人になってたらどうしよう?
『あ…久しぶり』って言ったあとプイッってするような」
「そんな心配は会えば分かるよ。それより十二時に待ち合わせなんでしょ?
玄関でOKなわけ?」
「分かんない。『大学で十二時に待ち合わせ』としか決めてないんだよね。
親がメールで連絡したらしいから」
「じゃあその人に『今どの辺りですか?』ってメールしようよ」
「アドレス知らない」
「えっ? じゃあ、どんな見た目の人なの?」
「う~ん、何年も会ってないからハッキリしない。向こうも私を見ても気付かないかも」
夏美菜は左手で、春那の右肩をゆさぶった。
「ちょっと、しっかりしてよ~! まあ普段も、フットサル以外はヌケてる人だけど」
「とっ、とにかく玄関で待つよ。その方が会える気がする」
「どうして?」
夏美菜がそう言うと、春那はお腹を抱えたままうつむいてしまった。
そのまま、腕時計をチラリと見た。
「十一時四十分か…。もうすぐだ」
「十二時集合でしょ? ちょっとまだ早いよ」
「ううん、あの人は約束の十分前には必ず来るんだ。
この日・この時間に来るっていう約束は、絶対守る人だから」
●
霧師希は正面玄関を通り抜け、校内に入った。さて、どうするか? ここは大学だ。
当然、若者だらけである。この中から春那一人を見つけるのか?
そういえば春那が幼少に入院中、こんな事があった。霧師希が病院へ行った時、春那がパジャマ姿で病院玄関のロビーで待ってた事があり、看護師に怒られていた事があった。
『玄関にいれば、早く会えると思ったんだ』と言っていた。
それを思い出した霧師希は、玄関を見渡した。しかも、なるべく手前の方を。
ベンチがいくつかあり、何人か座っている。女性もいれば男性もいる。
その中で一つ、霧師希が気になるベンチがあった。一番手前のベンチ。女性二人組で、
一人は下を向いてうずくまり、もう一人はうずくまっている女性に横から話しかけている様子だ。ベンチの前に到着し、うずくまっている女性の前に立った。
その横にいる女性、夏美菜は霧師希に気づくと、「あっ---」とボソリとつぶやき、
ベンチのスミへ移動した。霧師希はうずくまっている女性、春那の前で両膝をついた。
スーツに土がついたが、気にもしなかった。
霧師希は自分の両膝に両手をそえて、目の前の女性に声をかけた。
「春那…、安輝野春那さんですか?」
やっと目の前に人がいる事に気づいた春那は、ハッとなって、ゆっくりと前を向いた。
そしてか細い声で言った。
「きりし…霧師希さんですか?」
「そうだよ」
二人は数秒間、黙って視線を合わせていた。
そして霧師希は笑顔で言った。
「久し振りだね」
「…はい」
弱々しい鳴き声で返事をすると、春那は両手を前に差し出した。霧師希も、両手で春那の手をつかんだ。春那はうつむくと、『グスッグスッ』という鳴き声が聞こえ始めた。
「霧師希さん…」
春那は泣きながらそう言うと、霧師希の手のひらを強く握った。
女性とはいえ、現役のアスリートの握力は強力だ。霧師希はだんだん痛くなってきた。
「いたたたっ! あのー、痛いんだけど」
「あっ、すいません!」
春那は慌てて手のひらをほどいた。その時、霧師希は春那の左手の薬指にある指輪に気が付いた。見覚えがある懐かしい指輪だ。
春那の左手を見ながら言った。
「それって、もしかして?」
春那は左手の甲を上にして、霧師希に見せた。
「そうです。あの指輪ですよ。ずっと大切にしまっていたんですけど、高校ぐらいから
指に着けられるようになって。なるべく着けるようにしているんです」
「そうか、大切にしてくれて、ありがとうね。春那に譲ってよかったよ」
「いえ、こちらこそありがとうございます」
二人はゆっくりと立ち上がった。霧師希は改めて春那を見た。
霧師希の身長は百七十センチなのだが、春那と視線を合わせると、少し見上げる事になる。春那の方が背が高いのだと気が付いた。
顔から足元まで、春那の全身を見た霧師希は、右手で口を覆って恥ずかしそうに言った。
「あの…き、綺麗になったね」
春那は顔を赤くして言った。
「い、いえ。そう…ですかね?」
二人は視線を合わせられなかった。不慣れな化粧やファッションを頑張って良かったと、春那は喜んだ。そして、ふと自分の腕時計を見た。
「やっぱりです、霧師希さん。ピッタリ十一時五十分ですよ」
「どういう事?」
「約束の十分前に来てくれる。それが霧師希さんです。変わらないですね」
「うん、待たせたくないんだよね」
横で見ていた夏美菜も春那の再会を見て喜んでいたが、少し不安もあった。この男性…霧師希の年齢である。パっと見た感じ、現れた男性は四十台半ばぐらいではないか?
いや、最大限に好意的に見て、四十くらい? まさか彼氏なんて事ないよね…?
そんな夏美菜の心配など、二人は気付くはずもなかった。
霧師希は春那に言った。
「こちらの方、紹介してくれる?」
「あっ、はい。この子は三条さんです。私の親友なんです」
夏美菜は立ち上がり、軽く会釈をして霧師希に言った。
「三条です。春那さんと同じフットサル部に所属していて、マネージャーをしています。
よろしくお願いします」
夏美菜の自己紹介を聞いて、霧師希も言った。
「初めまして。霧師希と申します。安輝野さんとは昔なじみなんです。
今日はお願いします」
霧師希は深々と頭を下げた後、頭を上げた。夏美菜と視線が合うと、ニコリと笑った。
愛想があり・礼儀正しくて・身だしなみもいい。
『この人は紳士かも?』と、夏美菜は少し安心した。
●
落ち着いて話をする為、三人は食堂に到着していた。白いテーブルに四つの椅子があり、
まず夏美菜が座った。そして向かいに春那・霧師希が座ろうとしている。
霧師希は春那の後ろに回ると、コートを軽くつまんだ。春那が脱ぎ始めると、そっと引き抜いて、丁寧に畳んだ。そしてテーブルの横にある荷物用のカゴに入れた。
次に春那が座る椅子の背もたれを引いて、春那を座らせた。すると春那は両手の手のひらを自分の口の辺りにかざし、目を見開いて霧師希に言った。
「すごーい、霧師希さん! 紳士ですね!」
「そう? そんな風に言ってくれると嬉しいね」
春那にそう言われ、霧師希も嬉しそうだ。霧師希も自分のコートを脱いで畳み、カゴに入れた。スーツ姿になった霧師希を見て、春那は先ほどのポーズのまま言った。
「スーツ姿カッコイイ! カッコイイですよ!」
「もっ、もうそのぐらいで勘弁してよ」
真剣に言う春那の褒め言葉に、霧師希は照れた。
この食堂で、春那・霧師希・夏美菜・慶哉の四人で会う事になっていた。
春那の意向で、二人に霧師希を紹介する事になっていた4。
間もなく慶哉が現れ、自分が座る椅子の近くまで来た時に言った。
「お待たせしま---ん?」
向かいに座っている春那と霧師希を見た慶哉は、その光景に驚いた。春那は体を霧師希に密着させており、霧師希の右腕を両手で抱え、右肩に自分の頭をもたれさせている。
「むふーっ」
春那は目をトロンとさせて、開いているか分からない。
さすがに、これには霧師希も困り顔だ。
「あのー、春那」
そう言われた春那は、肩にもたれかけていた頭を霧師希の方に向けた。
そしてアゴを肩にポンと置き、霧師希と視線を合わせた。
「へへーっ、なんでしょう?」
「ちょっと離れてくれない?」
「むふーっ、嫌です」
そう即答すると、肩からアゴを外して、また頭を肩にもたれさせた。
慶哉は椅子に座りながら、小声で夏美菜に聞いた。
「なんか、すごい状況だな。
アキは大丈夫か? 服装といい・態度といい、もはや別人だぞ」
「はい、別人です」
慶哉に気付いた霧師希は、挨拶をしようと立ち上がった。春那はもたれていた支えが急に無くなったので、霧師希の座っていた椅子に倒れ込んでしまった。
「ぎゃあっ!」
「あっ、アキさん!」
夏美菜は春那を心配したが、霧師希は春那を気にしながらも慶哉に挨拶した。
「初めまして、霧師希と申します。今日はよろしくお願いします」
そう言って深々と頭を下げると、慶哉も挨拶をした。
「フットサル部キャプテンの、麻嶌と申します。こちらこそよろしくお願いします」
春那は霧師希の腕をつかむのを止めて、普通に座りなおした。
ただ、体を密着させているのはそのまま。春那の顔にしまりは無い。
春那は霧師希を紹介しようと、ニコニコしていた顔を正して言った。
「霧師希さん、この二人は親友なんです。だから紹介しておきたかったんです」
霧師希は会釈した。
「そうでしたか。春那と仲良くしてくださって、ありがとうございます」
霧師希の父親のような言葉を聞いて、春那はご満悦だ。また表情がほころんだ。
「むふーっ」
霧師希の会釈の後に、慶哉は言った。
「霧師希さん、私たちに敬語は不要ですよ」
「そうですか? 分かりました。じゃあやめておくね」
落ち着いた所で、春那以外の三人は自己紹介を兼ねて、自分の事を簡単に話した。
霧師希は中学校卒業後に働き始め、ずっとアルバイトだった事、春那の父親の会社で
アルバイトをしている時、幼少の春那を世話していたと伝えた。
ただ、自分が幼少から虐待に近い教育環境だった事は伏せた。
慶哉は怪我でフットサルに転向し、マネージャーを兼任している事を話した。
夏美菜はマネジャーで、春那と親友だという事を話した。
一通り話し終えた後、春那は遠慮がちな表情で霧師希に聞いた。
「あのー霧師希さん、昔みたいに『シキさん』って呼んでいいですか?」
霧師希は即答した。
「もちろん。『きりしき』って言い辛いもんね」
霧師希にそう言われ、春那の顔は笑顔に戻った。
「むふーっ、シキさんだー! シキさんって、お父さ…父の会社で働いてらしたでしょ?
私達が引っ越した後は、どうされていたんですか?」
「だいたい二年後に就職したんだ。小さな製鉄会社にね。もう勤続十三年になるかな」
「就職? アルバイトじゃなくて、就職したんですか? 会社員って事ですか?」
「そうだね、会社員だね」
「すごーい! シキさんってサラリーマンなんだ! すごいです!」
春那は両手で自分の口をおおって、羨望の眼差しで霧師希を見ていた。
「他に何か始めた事とかあります? 趣味とか何でもいいんですけど」
「趣味じゃないけど、高校に通ったよ。定時制高校。四年かけて、無事に卒業できたよ」
「えっ? じゃあ働きながら通われたのですか?」
「そう、今の社長が理解のある方で。仕事しながら夜間にね。卒業して五年ほど経つよ」
「そうですか、高校に行かれたんですね。しかもサラリーマンもしている。
すごいなー! シキさんすごいです!」
二人の会話を聞いていた慶哉と夏美菜の頭の中には、疑問が生まれていた。確かに会社員を十三年間続けるのは大変だと思うし、働きながら高校へ通うのも大変だと思う。しかしそこまで感激するものだろうか? 春那が霧師希を見る目は、まるで憧れのFリーグの選手を見るような眼をしていたからだ。
春那は前を向きなおし、うつむき加減で嬉しそうにボソリとつぶやいた。
「そっか、会社員なんだ。そっかそっか…」
次に慶哉が聞いた。
「就職しようとか、高校へ行こうと思われたのは、何かキッカケがあったのですか?」
「この子は幼い時から闘病生活を送っていてね。本当に毎日が命懸けと言っても過言じゃなかったんだ。そんな子と三年間も過ごしていると、自分もできる事を頑張ってみようって気になったんだよね」
それには夏美菜も同調した。
「分かります。私も春那さんといると、頑張ろうって気になりますもん。
フットサルに対する情熱がすごい」
それを聞いた慶哉が夏美菜に言った。
「お前が頑張っているの合コンだろう?」
「ひどい! 今言わなくてもいいじゃないですか!」
「ごめんごめん、冗談だよ」
「まったく」
四人とも笑った。慶哉も霧師希に言った。
「春那さんが頑張っているのは、僕もそう思います。
フットサルはもちろん、勉強も熱心ですし。見習っていますよ」
「アハハ、みんなありがとう」
春那は恥ずかしそうだ。次に霧師希が言った。
「当時は本当に辛そうでね。腕には注射や点滴の後がいっぱいあって、青いあざになっていたぐらいなんだよ。腕も細くてね、骨が浮き出るくらい」
「えーっと、腕ですか?」
春那はブラウスの袖を両腕ともめくり、腕をテーブルに置いた。
霧師希は数秒間、腕を観察した後に言った。
「もう痕が全然無いね。色も褐色だし、太くなった。良かったね」
「シキさん! 褐色とか太いとかヒドイです!」
「あっ、ごめん!」
四人で和やかに笑った。すると、春那がある事を思い出した…というより、お腹が空いた。
恐る恐る、霧師希に聞いた。
「あのーシキさん、もうお昼なんですけど、例の物は持ってきてもらえました?」
「もちろん、持ってきたよ」
「やったぁー!」
春那は小さくガッツポーズした。そして、昼食を食べようという事になった。
春那は『例の物』が、自分の目前に置かれるのを心待ちにしている。
「春那」
「はいっ!」
「手を洗いに行こうか?」
「あっ、そうでした。一緒に行きましょう」
数メートル先に、食堂内の洗面台がある。霧師希がそこに向かって歩き出すと、
春那はすぐに霧師希の右腕に抱きつき、並んで歩きだした。
二人と距離が離れると、慶哉と夏美菜は頭を寄せ合い、慶哉が小声で言った。
「アキは本当に嬉しそうだな」
「キャプテン、気が付いてました?」
「何が?」
「アキさんの悪いクセ、全然でないんですよ。足も広げないし、
ダラーッとイスの背もたれにもたれず、背筋を伸ばしているし」
「それは気付かなかったな。頑張っているじゃないか」
「あとクセじゃないんですけど、『へーっ、すごい』って言いながら、両手で口を覆うんです。あれはもう、完全に女子の動きです。たぶん無意識でやってると思いますけど」
「うーん、もはやアキは壊れちまったな」
「はい、もうダメです」
四人は席に戻った。慶哉と夏美菜は定食を頼み、テーブルに置いた。
春那は霧師希に密着したりせず、普通に座っている。
春那の前へ、霧師希がタッパを一つコトリと置いた。
手のひらより少し大きいくらいの、特に可愛らしくもない白いタッパ。
春那はグーになっている両手を、タッパを挟むように置いた。視線はタッパに釘付けだ。
「いよいよだぁ! いよいよ!」
口元でボソボソ言っているので、他の三人は聞き取れなかった。直後、春那はフタをゆっくりと開けた。そこにはパンパンに入っている長方形のサンドイッチ、タマゴサンドが三つ入っていた。縦は十五センチくらい、厚みは四センチくらいある。かなり厚めだ。
「おおっー!」
そう言いながら、春那はゆっくりとタマゴサンドを一つ手に取った。
春那の感激ぶりに慶哉と夏美菜は唖然としているが、霧師希はクスクスと笑っていた。
「一番の大好物なんだよ」
霧師希は慶哉と夏美菜に言ったが、春那の耳には入っていない様子だ。
「いただきますっ」
三人を他所に、春那はサンドイッチを一口食べた。ゆっくり咀嚼して飲み込んだ。
すると、春那の頬に涙がつたった。それを見た霧師希は、笑うのを止めた。
「春那?」
「これだぁ、これだよ! やっぱりこれが一番美味しい。あの時のままの味だ」
霧師希は、ハンカチを手渡した。
「はい」
「あっ、ありがとうございます」
春那はタマゴサンドをタッパに戻すと、ハンカチを受け取って、目の下辺りを押さえた。
夏美菜が急に声を上げた。
「そっか! そういう事かぁ」
夏美菜に慶哉が聞いた。
「どういう事?」
「アキさんって好き嫌いないんだけど、タマゴサンドは絶対食べなかったんですよ。
卵が苦手なのかなぁと思ったけど、卵料理は普通に食べるから、変だなって思ってた」
「へへーっ! シキさんが作るより、美味しいタマゴサンドは存在しない!」
夏美菜は笑顔で、小さくため息をついた。
「はいはい、そうですか」
おどけている春那に、霧師希は言った。
「ありがとう、そこまで気に入ってくれて」
「えっ? いえ! 美味しいので!」
春那が照れていると、慶哉が霧師希に聞いた。
「何か特別な味付けがあるのですか?」
「いや、特にないよ。卵と食パンは良い物を使っているけど、
調味料は塩・コショウ・マヨネーズだけだよ」
「へえ、意外です」
「しいて言うなら、入院していた当時から、細かいトコロを工夫してたかな? 体調や前後の食事を見て、しょっぱくしたり、しなかったり。卵を硬めにしたり、柔らかくしたり」
一番驚いたのは春那だった。
「ホントですか!」
「うん。今日は味を薄めにしたよ。後で試合があるよね? 濃いと消化に悪いと思って」
慶哉が感心しながら言った。
「オーダーメイドか。そりゃあ美味しい訳だ」
続いて春那が言った。
「へへーっ、シキさんは、私の専属コックさんでしたよね?」
「アハハ、そうだったね」
霧師希は別に作った自作のサンドイッチを食べ、食事は和やかに終了した。
食堂の時計は十三時を指していた。慶哉はそれを見ながら言った。
「さて、そろそろ行こうか。霧師希さん、試合は十五時から体育館で行います。
もういらっしゃいますか? 練習を見ていても、割と面白いですよ」
それを聞いた夏美菜が、右肘で軽く慶哉をコンコンと小突いた。
その意味に、慶哉はすぐに気が付いた。
「えっ? あーっと。じゃあ、俺とナミはこれでいったん失礼します」
続いて夏美菜も言った。
「じゃあ、アキさん・霧師希さん。また後で」
●
慶哉と夏美菜が、体育館へ向かって廊下を歩いている。
すると慶哉が言った。
「アキの壊れっぷりが面白かったな。『むふーっ』とか言うなんて、
普段からは想像がつかないよな」
「あれは私も笑いをこらえるのが大変でした。デレ顔のアキさんを見れて貴重でしたね」
二人で壊れた春那を思い出して、大笑いした。
笑いが収まった頃、慶哉は言った。
「霧師希さんだっけ? 真面目な人だよな。すごいアキの事を気にかけていたみたいだし。どんな人が来るのかと心配だったけど、安心したよ」
「そうですよね。見た目もイケメンとかじゃあないけど、悪くないですよ。
ルックスに点数を付けるなら六十五点くらいかな」
「てっ、手厳しいな」
「じゃあ、目一杯サービスして七十点! スタイルはいいですしね。
お腹は出てないし、髪もフサフサ。むしろ、気になるのはアキさんのほう」
「アキが心配? なぜ?」
「覚えてます? 霧師希さんが就職したって言ったら、
アキさん『すごーい!』を連呼してたでしょう?」
「何かおかしいのか?」
「アキさんの気持ちを通訳すると、『霧師希さんは、フリーターじゃなく、会社員なんだ! それなら将来を一緒に考えられる!』って思ったんじゃないでしょうか?
無意識かもしれませんけど」
「そりゃあ考え過ぎじゃないか? まあ、そうだとしても、何が心配なんだ?」
「年齢ですよ。親子ほど違うのに、将来なんて…。
親戚の伯父さんみたいな存在だったら良いと思いますけど」
「まあ、今日は十五年ぶりに会ったんだから、甘えたって不思議じゃないさ」
「ですよね! アキさんなら大丈夫だ」
●
春那は言った。
「ありゃ、二人きりになっちゃいましたね」
「うん、そうだね」
食堂のテーブルに並んで座っている二人は顔を合わせず、
前を向いたまま少しうつむいて話している。
霧師希は春那を見て言った。
「あのクセ、今もそのままだね」
春那も霧師希を見た。
「クセ…ですか?」
「うん、笑い方のさ。『へへーっ』って言うの」
「あっ、出てましたか? 何年振りだろう」
「『むふーっ』は初めて聞いたけど」
「え…? そんなの言ってないですよ」
「自覚ないの?」
「そんなの言ってます? 恥ずかしい…」
クセの話が終えると、また会話が途切れた。
「お会いしたらいっぱい話したい事があったんですけど、いざとなったら出てきません」
「それは僕も同じだね」
数秒後、霧師希が春那の方を向いて言った。
「大学の勉強はどう?」
「えーっと、入学試験で奨学生に挑戦しまして、首席で合格したんです。それと年二回、定期テストがあるんです。七月にあったんですけど…学年でベスト五に入りました」
「すごいね! それは素晴らしいよ」
春那は体を霧師希に向け、膝に両手をつけて、ペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます! 自慢みたいになっちゃいましたけど、
シキさんには伝えたかったんです。『喜んでくれたらいいな』って思ったし、それと---」
「それと?」
「褒めてほしかったから…」
そう言うと、春那は膝の上で指をモジモジとさせた。
「春那。成績が良かったのも素晴らしいけど、一生懸命に努力する子だって事が伝わってきたのが、何より嬉しい。こんな気持ちにさせてくれてありがとう」
「いえ、そんな。やっぱり褒められると嬉しいな」
二人は笑顔になっていた。すると、春那は言った。
「あの、良い成績を残したご褒美が欲しいんですけど」
「ご褒美? 何か欲しい物でもあるの?」
「いえ、物じゃなくて。こっちです」
春那はそう言うと、頭のてっぺんを少し霧師希の方へ傾けた。
「頭を撫でてもらえます?」
「えっ? うーん」
少し悩んだ霧師希だが、春那の真剣さを感じた。
「わかった、するよ」
「はいっ!」
霧師希は春那の頭を、少し丸めた右手のひらで、優しく撫でながら言った。
「大学受験、大変だったね。お疲れ様。これからも無理はしないでね」
と、霧師希が優しく語りかけると
「むふーっ」
春那の顔はほころんだ。霧師希が右手を離すと、春那が言った。
「私、勉強好きなんです。というか、シキさんのおかげで好きになりました。子供の時、シキさんに教えてもらったのが良かったと思います。本当に分かり易かったから」
「いや、それは小学校低学年の頃だからね。春那の努力だよ」
「シキさん、引っ越す時にノートをくれたの覚えてますか?」
「あっ、そういえばあげたね」
「あれに勉強の事がノート一冊にビッチリ書いてあって、とても参考になりました。
小学校の間は、ずっと使ってましたよ。その後も勉強の仕方やコツがたくさん書いてあるから、今でもよく読み返しているんです」
「読み返しているって、今でもあるの?」
「もちろんですよ! 色ペンでマーカーしたり、付箋を貼ったりしているんです。
私は『きりしきノート』って名前をつけました」
「アハハ、少し照れるな。でも、それは嬉しいね」
霧師希は左手で頭をかいた。
「シキさんは、私の先生ですから」
「確か、コックもだろう?」
「そうです。先生で、コックさん。
看護師さんに怒られるような、悪い遊びも一緒にした友達でもありますよね?」
「あっ、やってたな。いっぱい怒られたね」
昔話は尽きないが、試合時間はだんだんと迫ってくる。春那は残念そうに言った。
「シキさん、私ユニフォームに着替えなくちゃいけないから、行きますね。
ここで待っていてもらえますか?」
「ここで? 体育館で待っていようか? 場所ならだいたい分かると思うし」
春那は語気を強めて言った。
「いーえ! ここで待っていてください! 約束ですよ!」
「う、うん。分かったよ」
霧師希がそう返事をすると、春那は笑顔で手を振り、小走りで食堂を後にした。
更衣室に向かいながら、春那は少しだけ気がかりな事があった。霧師希は、自分の事を
『ハル』とは呼ばない。『春那』と呼ぶ。ハルと呼ばれるのを期待していたのだが…。
『まあ、深い意味はないのかな』と、とりあえず思った。
約二十分後、食堂の扉がゆっくりと開いた。ユニフォーム姿の春那が現れたのだが、
どうもおかしい。少し背を丸めているし、顔は少し赤らんでいる。
視線もあちこちを見て定まっていない。両手で胸やお腹の辺りを押さえている姿は、
まるで水着でも着ているかのようだ。普段から着慣れているユニフォームだが、霧師希に見せるとなると違うようだ。
春那が霧師希の近くまで来た。霧師希は椅子から立ち上がり、春那の前に歩み寄った。
「こっ、これがユニフォームなんですけど、どうでしょうか?」
春那はそう言うと、両手を降ろして後ろで組んだ。そして霧師希の右横の辺りに視線を落とした。ユニフォームは上下ともにオレンジ色。上半身は半袖で、胸の少し上に大学名がアルファベットで『KEISEI』と書かれている。その左下に背番号があり、番号は『十四』だ。下半身は膝の上まで裾がある。足はオレンジ色のソックスを履いており、膝の下まで伸びている。髪の毛は先程までと違い、後ろの上部でくくっていた。
ユニフォーム姿の春那を、しっかりと見た霧師希は言った。
「とても似合ってる。可愛いよ」
「かっ、可愛いですかね?」
春那は照れた。
「オレンジ色が明るくて、春那に合うよ」
「へへーっ。大学を選ぶ時に、ユニフォームの色も大事にしたんです。
どうしてもオレンジ色が着たくって」
「オレンジ色って、それは氷上神住の?」
「はい、背番号も同じ十四をもらいました」
「そうなんだ、徹底したね」
「はい、おかげですごいモチベーション高まりますよ」
霧師希は改めて、春那のユニフォーム姿を見直した。
「十五年前に病弱だった女の子が、約束通りサッカー選手になって帰ってくるなんてね。
『夢のよう』って言う言葉あるけど、今が本当にそうだ。ありがとう春那、嬉しいよ」
「へへーっ、私もです。子供の頃の約束を覚えていてくれて、嬉しいです」
春那も嬉しそうだ。
霧師希が、『そろそろ行こうか』と言おうとした瞬間、春那が先に言った。
「ちょっと、椅子に座ってもらえます?」
そう言うと、テーブルから椅子を一つ持ってきて、霧師希の近くに置いた。
霧師希は背もたれにはもたれず、イスの先の方に姿勢を正してちょこんと座った。
「うん、これでいい?」
春那は霧師希の右側に回り込んで言った。
「首を少し右に向けてください」
言う通りに、少し右に向けた。春那の様子が少しおかしい。
声に緊張感があるし、やたら周囲を気にしてキョロキョロしている。
「よし、誰もいないな…。シキさん、目を閉じてください。
私がイイって言うまで、絶対に開けないでくださいよ! 絶対ですよ!」
春那が力いっぱい懇願するので、霧師希も従う事にした。
「わっ、わかった」
「いきます…!」
春那はそう言ったのだが、霧師希には聞こえないくらいの声量だった。
するとほどなく、後頭部に感触があった。何かが当たっている。春那の手だろうか?
次に前へ押され、頭が前方に動いた。すると顔に、何か柔らかい感触が当たった。なんだろう? うーん、音で例えるとポヨンだろうか。ポヨン…プヨッ…
パフッでも合っているかも。パフ…? これはまさか?
霧師希がゆっくりと目を開けると、春那の胸に顔をうずめている事に気が付いた。
春那は恥ずかしそうに目を閉じている。
春那は霧師希の頭を抱きかかる感じで『ぱふぱふ』をしていた。
霧師希は春那の両腕をでつかんで、自分の顔を春那の胸から素早く引き離した。
「ちょっとちょっと!」
「あ…もういいんでしょうか?」
「いや、そうじゃなくて!」
霧師希はもはやパニックになっていた。顔は真っ赤になっている。
「ダメだよ! 急にこんな事したら!」
春那は逆に、冷静な受け答えだ。
「だって、ぱふぱふがお好きなのかと思って」
霧師希は立ち上がり、冷静に春那を叱る事にした。
「あのね、春那。こういう事は思わぬトラブルになるから、絶対にしたらいけないよ」
「ぱふぱふも霧師希さんのの夢…というか、お好きですよね?」
春那に真剣に問われた霧師希だが、否定も肯定も断言できない。
「そっ、そんな質問をしないでくれ…」
霧師希は困惑していたが、春那はあっけらかんとして、笑いながら言った。
「アハハ! 困ってる・困ってる!」
霧師希はとにかく気持ちを切り替えて、今度こそ体育館に行かねばと思った。
霧師希はもう一度、春那に『行こう』と言おうとした瞬間、春那は大きな声で言った。
「あのー! お礼が欲しいんですけど」
「お礼って?」
「ぱふぱふの」
「いや、そっちが強引にしておいて」
「タダじゃないですよ、私のぱふぱふ」
「もう分かったから、ぱふぱふを連呼しないで!」
「ま~た困ってる!」
「まったく…。で、どうすればいいの?」
「えーっとですね---」
●
数分後。霧師希と春那は廊下を歩き、体育館に向かっていた。他にも廊下を歩いている人はいる。しかし霧師希の違うトコロ、は春那をおぶっている事だ。
春那はリラックスした声で言った。
「へへーっ。こりゃあ楽だ」
春那は霧師希の背中に体を任せてゆったりさせ、両腕は首周りを抱えるようにしていた。
困り顔の霧師希は、ため息まじりに言った。
「えらい事になっちまった」
子供の時の春那はよくおんぶしていたが、当時は体重が十九キロ。今の春那は六十三キロで、三倍以上の重さになった。霧師希は肉体労働で普段から鍛えてられていたので、
なんとかなっていた。
二人を通り過ぎる人・追い越す人。全員が霧師希と春那のおんぶをチラリと見ていく。
「すごい注目度だぞ、春那」
「気分良いわー。視点も高くて面白い!」
霧師希は、少し投げやりに答えた。
「それはよーございました」
「断っても良かったのに。どうして断らないんですか?」
「僕の信条はね、春那の頼みに『いいえ』とは言わない事なんだよ。
それが例え詐欺まがいであってもね」
「ひどいなー、喜んでたじゃないですか」
「うぅ…」
否定できない自分が情けないと、霧師希は思った。
「シキさん、ご自分の言った事を覚えていますか?」
「ダメだって言った」
「その続き。『急にこんな事したら』って言いました。『急に』だって。
じゃあ前もって言ったら、嬉しいって事なんですよね?」
「あっ、あのなぁ…」
「フフッ、困ってる困ってる」
「まったく、大人を困らせるんじゃないよ。小さい時の方が素直だったぞ」
「私は今が反抗期なのです」
霧師希はフッと笑った。
「みたいだね」
春那は霧師希の後頭部を見て、ある発見をした。右手の指で、髪を少しつまんだ。
「白髪を発見! ちょっとありますよ」
「白髪かー、ちょっとショックだな」
「だって十五年経ってますから。シキさんは年を取りましたね」
「そりゃあ、お互い様だ」
「私の場合は『大人になった』と言ってください」
「あっ、そうか」
二人とも笑った。
「昔はよく、シキさんにおんぶしてもらいましたね」
「そうだね」
「私がジェットコースターに乗りたいって言ったら、
おんぶして廊下を走ったり、階段から踊場へ飛んだりしてくれました」
「看護師さんに、えらく怒られたよ。でも楽しかった」
「シキさんのおんぶで、よく寝た事を覚えてます」
「春那は寝付けない事が多くてさ、おんぶして廊下を何周もしないと寝ないんだ。
起こさないようにベッドへ降ろすの大変だったんだぞ」
「へへーっ。シキさんの背中は、安心できる私のベッドでした」
「アハハ、僕はベッドかよ」
「私、神経は太い方なんですけど、試合前になると緊張しちゃう時もあるんですよね。
その度に、シキさんにおんぶしてもらえたらイイのになーって、思ってたんです」
「それで今おんぶなのか。で、効果ある?」
「バッチリです。まったりと安心できます~」
春那は霧師希の右肩にアゴを置いて目をつむり、首周りに置いていた自分の両腕を、
ギュッと締めた。そして小声でつぶやいた。
「シキさんのおんぶ、嬉しいな…」
五分ほど歩いただろうか。体育館の大扉の前に到着したので、霧師希は言った。
「はい、到着ですよ。お姫様」
「ありがとうございます」
春那は軽やかに『スタッ!』っと降りると、霧師希の前に立って言った。
「あの階段を昇ると二階に行けます。座席があるので、好きな所に座ってくださいね」
「うん、分かった」
春那は霧師希に向けて、右手を差し出した。
「覚えてます? 私が治療や検査を不安がってたら、よく手を握ってくれたでしょう?」
「そうだったね」
霧師希が春那の手を握手すると、春那は左手をその上に添えた。
続いて霧師希も左手を添えた。
「春那、楽しんでおいでね」
そう言うと、春那はニッコリと笑顔になった。
「へへーっ」
「何?」
「私、シキさんから『頑張れ』っていう言葉、聞いた事がないんです」
「『頑張れ』って、強要しているみたいで嫌なんだ。僕も子供の頃、『勉強頑張れ』って
よく言われたけど、嬉しくなかったから。春那は十分すぎるくらい努力してるだろ?
昔も今もね」
「シキさんのそういうトコロ、心地いいんです」
霧師希は手をほどき、春那の右肩をポンと叩いた。
「いってらっっしゃい!」
「はいっ!」
●
霧師希は二階の座席に座った。さすがスポーツが盛んな学校の体育館だけあって、二階の半分は座席になっている。ふわふわした柔らかさはないが、背もたれもあって、しっかりしている。普段は座面が上がっており、座るときに平行に降ろす仕組みの座席だ。
観客はまばら。皆、大学の関係者だ。ガラガラなので、霧師希は遠慮なく最前列の中心辺りに座った。おかげで全体が良く見渡せる。
春那の恵聖大学はオレンジ色・相手の大学は白のユニフォームだ。どちらの選手もウォーミングアップをしている。足を交互に高く上げながら走る選手、屈伸で体をほぐしている選手、フットサルの基本となる、脚の内側で蹴るインサイドキックと呼ばれる方法で、
パスの練習をしている選手。実に様々だ。選手同士のかけ声も沢山聞こえてくる。
『いよいよ試合が始まるのだな』という緊張感が伝わってきた。
すると霧師希の左側から『パタン!』という、椅子の座面を降ろす音が聞こえた。
「お疲れ様です、霧師希さん」
夏美菜が横の席に座った。
「あれっ? 三条さん?」
「ナミでいいですよ」
「ナミさん、あなたマネージャーでしょう? ここにいていいの?」
すると夏美菜は、一階のピッチでパス回しをしている春那を指差して言った。
「アキさんがね、『霧師希さんの面倒をみてやってくれ』って。『ノドが渇いたり、トイレ行きたくなったりするだろうから』って。あと、『フットサルの事なんて全然知らないだろうから、教えてあげて』とも言ってましたよ」
「まったく、僕は小学生じゃないんだから」
ピッチを見ながら、霧師希はボヤいた。
「アハハ、子供扱いされちゃいましたね。まあ今日は練習試合ですし、一階には麻嶌キャプテンもマネージャーとしてもいますから、大丈夫ですよ」
「ならいいんだけど」
「あと、今日はキャプテンが指揮をとるんです」
「へーっ、そうなんだ」
「ウチの部は戦術の勉強って意味も含めて、練習試合の采配を部員に任せる事があるんです。今日はキャプテンが指揮しますから、そこも楽しみですよ。
霧師希さんも、サッカーをされるのですか?」
「いや、全然。漫画を読んでいただけだよ。運動は本当にダメでね」
「あの、かけっこ万年最下位って霧師希さんの事ですか? アキさんが言ってましたけど」
「余計な事言ってくれちゃって」
「本当なんだ。でも、東大の中学生模試で、ベストテンに入ったとも聞きましたけど」
「それも余計だよね」
「すごいですね! 極端で面白いですね。霧師希さんって」
「面白いかな?」
霧師希が困っていると、夏美菜は少し真剣な表情で聞いた。
「霧師希さん。今どんなお気持ちですか?」
「気持ち? どういう事?」
「今からアキさんの試合を見ますけど、それは妻や恋人の試合を見るような感じですか?」
「いや、まさか」
霧師希は即答し、続けた。
「そうだね、例えるなら…一番近いのは、授業参観かな?
娘の授業参観を見にきた父親の気分だね」
そう聞いて、夏美菜は安心した。
「そうですか、そうですよね! よかっ---」
突然、霧師希の側頭部に強い衝撃が走った。どうやらボールが直撃したらしい。
「いってぇ!」
「大丈夫ですか?」
霧師希は、右手で頭をさすった。
一階のピッチを見ると春那が立っており、霧師希を見ている。表情は険しかった。
「霧師希さーん。よそ見していると危ないですよー。
ピッチをちゃんと見ていてくださいねー」
それだけ言うと、春那はプイとふてくされて行ってしまった。周囲からは
「今の見た? スゲェ!」 「狙ってやったのか? まさかなぁ」
などと、感心する声が聞こえてきた。夏美菜は笑いそうになるのを我慢しながら言った。
「どうやら私と楽しそうに話し込んでいるのが、気に入らなかったようですね」
「えっ! じゃあ今のは、ワザと僕に当てようとして蹴ったの?」
「はい、アキさんなら出来ますよ。お父さんを取られると思ったんじゃないですか?」
「ひどいよな、自分から君を行かせておいて。まだジンジンしてるよ」
「フフッ、お父さんの苦労が味わえましたね」
「やれやれ…」
●
練習試合とはいえ、試合は試合。やはり緊張感があり、霧師希もワクワクしていた。
フットサルは相手チームも含めて、合計十人でプレーする。ピッチの大きさはサッカーの約九分の一。攻守の切り替えが頻繁に行われる為、緊張感が絶えないスポーツだ。
選手がそれぞれの位置に着き始めた。春那もいる。
あと五分くらいだろうか。そろそろ試合が始まろうとしていた。
二人はピッチ…、主に春那の姿を見ていた。
夏美菜と霧師希はピッチを見ながら話し始めた。
「霧師希さん。アキさんって、どんな選手のイメージがありますか?」
「うーん、僕はフットサルに詳しくないからね。
でもイメージとしては、『チームの勝利の為に頑張る』って感じかな」
「そうおっしゃると思ってました。でも違うんです」
「違うの?」
「アキさんは、自分を前面に出すタイプなんです。チームの勝利よりも、自分が活躍できるかどうか。もう自分自分ですよ。ポジジョンはアラっていう中盤の選手なんですけど、ピヴォっていうフォワード的な選手よりシュート数が多いんです。『点を取りたいならピヴォをやるか?』って監督が聞いたら嫌がって。理由は中盤もやりたいからだそうで。
とにかく欲張り」
「それは意外だね。回りが男子ばかりだから萎縮してるんじゃないかと心配してたんだよ」
「全然ですよ。少しぐらい萎縮してほしいです。ウチのチームはポジションを一通り経験させるんですね。アキさんにゴレイロ…キーパーなんですけど、監督が経験させようとしたら嫌がったんです。さすがに怒られてました」
「あらら…」
「あと、ファールが一番多いのもアキさんなんです」
「ええっ! そうなの?」
「でも、レッドやイエローのカードの数は一番少ないんです」
「どういう事?」
「自分がカードをもらわない程度…相手を怪我させない程度のファールは、ピンチになったら誰でもある程度はやるんです。『プロフェッショナルファール』って言うんですけど。でもアキさんは、どんな時でもガンガンやります。とにかく手段を選ばないのがアキさん」
「ひぇー。強気だね」
「相手が誰だろうと、物怖じしない。プロのFリーグのチームと練習試合をした事があるんですけど、ファールを連発してました」
「もう強気通り越して、恐ろしいよ」
そう言うと、霧師希は黙ってしまった。変に思った夏美菜が聞いた。
「あの、霧師希さん、どうしました? 心配になりました?」
「いやいや、違うよ。嬉しかったんだ」
「嬉しいって?」
「あの子は病気で、ずっと周りの人達に世話になってきたんだよね。だから当時は必要以上に恐縮するようになっている一面があってさ。将来が少し心配だったんだよ。
でも、ちゃんと自己主張ができる子になって良かった。
春那の場合、主張が強すぎるくらいで丁度いいと思うから」
「私も、アキさんは今のままで良いと思います。全員がアキさんみたいだと困りますけど」
「アハハ、本当だね」
「普段はとても優しいんですよ。部活動でも、一番最初に来て準備をしてくれていますし、一番最後までいて、後片づけを手伝ってくれるんです。
私になんて、下手な男子より優しくしてくれますから」
「そうなんだ。まだ再会して数時間だけど、僕にも彼女の優しさはすごく伝わるよ」
「何かありました?」
「さっきね、食堂で話したでしょう? 僕が会社員になって、定時制高校を卒業した事。僕にとってはどちらもかなりの苦労なんだ。泣いたり、悔しくて寝れなかったりする時もあった。でも就職も高校入学も、一般的にはごく普通な事だから、そんなの伝わらないのが普通だよね。でも春那は、僕の経歴や性格からして、僕にとってそれがどれだけ大変だったかを想像して、喜んでくれたり、褒めてくれたりするんだよ。それってすごいよ。
本当に優しい人間にしかできないと思う」
「そう…ですね」
夏美菜は、春那の『すごーい!』は、『霧師希が会社員をしているなら、将来の相手として考えられるから喜んでいる』と思っていた。しかし霧師希は、『自分の苦労と成長を喜んでくれた』と思っている。どちらが正解なのかは分からない。
でも、今となって冷静に考えれば、後者の方がアキらしいと思っていた。
「ナミさん、どうかした?」
「いっいえ! そろそろ試合が始まりますよ」
六、夢に見た舞台で
あと数分で試合が始まる。どの選手もピッチの上で手や足を動かしていた。
ピッチの中心にあるセンターサークルという輪。この中心にボールが置かれている。
そのボールの横に春那が立っていた。春那のキックオフで試合は始まる。春那はボールの前に立つと、しゃがんで右手をボールの上に置いた。そして下を向いて、目を閉じた。
今日までの十五年を思い起こしていた。霧師希を喜ばせて恩返しをしたい、
その為にサッカーをするんだと決意して十五年。ついにその日がきた。
中学時代は、まだ体調が万全ではなかった。その上、女子がサッカーをする環境は限られていたので、独学で練習する日々だった。ボールに触れる機会を増やしたいと、高校ではフットサルに転向したが、やはり女子にはプレー環境が厳しかった。
個人でやっているチームにいくつか混ぜてもらったが、レベルが高すぎたり低すぎたりして、練習が安定して継続できない。しかも部活でもスクールでもないので、教えはあまり乞えなかった。なのでフットサルの盛んな大学を目指すという事に、考えを切り替えた。だが、大学進学にはお金がかかる。自分の治療の為に、両親には苦労させてしまった。
もうこれ以上は頼りたくない。ならば勉強して奨学生になればいいと、勉強にも没頭した。
勉強には膨大な時間を使ったが、霧師希から勉強の基本を学んでいたので、努力はしたが
苦労はしなかった。霧師希にもらった「きりしきノート」を心の支えとして勉強した。
大学では体調が良かったし、友達やチームメイトにも恵まれた。奨学生として入学した大学のフットサル部は、想像以上に盛んだった。寮生活ができたので、寝食を惜しんでフットサルに打ち込めた。おかげで実力はレギュラーに近づきつつあった。
他人から見れば、これは普通の練習試合。だが、春那にとっては違った。
大学の公式戦より・Fリーグの試合より・日本代表の試合よりも大事だった。
十五年越しに約束した試合。それが今、数分後に始まる。
「シキさん…」
心の中でつぶやいた春那は、ゆっくりと立ち上がった。そして審判の笛が鳴った。春那は右足の内側で軽くボールを蹴った。キックオフだ。十五年の思いを乗せた試合が始まった。
●
だが現実は過酷だった。春那は精彩を欠いた。とにかく、いつも出来ている事ができない。ボールをキープできず、簡単に奪われてしまう。
『ノールックパス』と言われる、パスする相手を見ないでボールを蹴るのが得意なのだが、見当違いの方向にボールがいってしまう。
春那はハーフウェーラインと言われるピッチの中心線を、一センチでも超えたら積極的にシュートを打つ選手だが、打とうとしない。
逆にゴール前だと、ゴールに近づきすぎてしまって決まらない。
部員達が一番驚いたのは、開始五分過ぎだというのに春那が肩で息をし始めた事だ。
一試合終わったかのように、ハアハアと息が上がっている。
大汗をかいて、アゴから汗がしたたりだした。
「どっ、どうして? うぅ…」
春那は下を向いてしまった。人生の糧にしてきた十五年間が、
逆に春那への重圧となってのしかかっていた。
●
二階では、霧師希と夏美菜が観戦を続けていた。
夏美菜はすぐに春那の異変に気付いたが、素人の霧師希は分かっていないようだった。
「どうしたんだろ? アキさん」
「どうかしたの?」
「いつもと違って、動きが鈍いというか。とにかくおかしいです。さっきまで元気だったんだから、体調が悪い訳でもないだろうし。どうしちゃったんだろう?」
「うーん」
霧師希に技術的な事は分からないが、春那の表情で辛そうなのは伝わってきた。
そんな時、審判の笛が鳴った。夏美菜は、右手で小さくガッツボーズをした。
「よしっ!」
「どうしたの?」
「霧師希さん、PKです。フットサルは一定の条件を満たすと、ゴレイロと一対一のペナルティキックが与えられるんです。今、ウチがそれをもらいました。アキさんが蹴りますよ。アキさんのPKは絶対です。PKだけなら、ウチの部で一番です」
夏美菜の言う通り、春那はボールを持った。ゴールから約十メートル離れた、第二ペナルティマークと呼ばれる場所にボールを置いた。だが、足取りは重く、表情も冴えない。
「おかしいな、いつものアレがなかった」
「アレ?」
「PKをもらった時は、『誰が蹴る?』って、ピッチ上の選手で決めるんです。
そうしたら、絶対にアキさんは『ハイッ!』って大声で言いながら、右手をピンと伸ばすんですよ。まるで授業参観で、先生に当てられた時みたいに嬉しそうにね。
でもなんか、今は渋々って感じです」
「…」
「まあ、ともかく、アキさんが蹴りますね。霧師希さん、アキさんの顔に注目していてくださね。面白いモノが見れますよ。通称『ニタニタPK』です」
「ニタニタPK?」
「はい。アキさんは一対一の見せ場である、PKが大好きなんです。
蹴る前にゴールが決まった瞬間を想像しちゃって、喜んじゃうんですよ。
我慢できなくて、ニタニタするんです」
「へぇ、そりゃあ楽しみだね」
だが、春那はニタニタどころか、苦悶の表情を浮かべている。
案の上、力なく蹴られたボールはゴールに向かっていく事はなかった。
●
PKを外した春那は、ピッチで呆然としていた。大得意のPKでさえ、惜しくもなんともない方向に飛んでいく。
普段、自分がPKを蹴る時、ニタニタしているのは自覚があった。注意もされたが直らなかった。選手の見せ場であるPKなので、春那は想像してしまうのだ。
《ここにシキさんがいればいいな》
《PKを決めた姿を見せたら、シキさんは喜んでくれるだろうな》
そんな事を想像すると、ニタニタが止まらなくなるのだ。霧師希が客席にいる今日、
まさにPKが決まってほしい日だったのに。決まらない・笑顔にならない。
ニタニタどころか、涙をこらえるので精いっぱいだった。
●
夏美菜は二階の客席で、春那を見ながら小声でつぶやいた。
「アキさん…」
これだけ精彩を欠くと、素人の霧師希でも春那の異変を感じていた。
霧師希はピッチの春那を見ながら、悲し気に言った。
「なんか、辛そうだね」
「はい…」
夏美菜は霧師希の方を向いたが、霧師希は春那を見たまま答えた。
「PKが外れたとかは、全然いいんだ。スポーツでも何でも、うまくいかない時ってあるだろうし。僕が見たかったのは、華麗なプレーじゃなくてさ」
「はい」
「試合を見に行くって決めた日から願ってたんだ。『あの子が元気だったらいいな・楽しそうにしてたらいいな』って。でも、とても辛そう。そこが残念かな」
「うーん」
霧師希は夏美菜の方に顔を向けて言った。
「いつもは違うんでしょう?」
「違いますよ! 今日とは雲泥の差です」
「そっか、そうなんだ。いつもと今日の違いと言ったら、僕がいる事だよね」
「えっ…?」
「僕が春那を追い詰めちゃっているのかもしれない」
霧師希はそう言うと、両膝に手を置いて、少しうつむいてため息をついた。
夏美菜はそんな霧師希の姿を見て、語気を強めて言った。
「霧師希さん!」
夏美菜は右手で霧師希の右肩をつかみ、背もたれに軽く押した。
霧師希は体を起こされる形となった。
夏美菜はまた語気を強めて言った。
「ここに何しに来たんですか? 応援しにきたんですよね?」
「うっ、うん」
「応援でしてはいけない事が二つあります。下を向く事と、ため息をつく事です」
そう言われ、霧師希はハッとなった。
「…うん、そうだよね。その通りだ」
夏美菜は優しい口調に戻って言った。
「応援って、大声で叫ぶ事じゃないんです。活躍を願いながら、選手の…アキさんの一挙手一投足に注目してあげてください。それだけで、十分勇気づけられますよ」
「うん、分かったよ。ナミさん、ありがとう」
●
PKを外した春那は、見かねて交代となった。春那は交代の選手から、ビブスを受け取り着用した。ベンチに座るとペットボトルの水を乱雑に飲み、ユニフォームの袖で口元を拭いた。フットサルに選手交代の回数制限は無いので、またピッチに戻れる。
春那は前を向いて試合を見ているが、頭に入っていない感じだ。
慶哉は春那の横に座ると、肩をポンと叩いた。
「大丈夫か?」
春那は体をビクッとさせた。
「えっ! 大丈夫だよ、ちょっと調子悪いだけで。また行かせて」
「そうか」
慶哉は不思議だった。相手チームは格上ではない。ウチと同等…というより、ちょっと下ぐらいだ。春那がいつも通りにプレーできたなら、同等に渡り合えるはずなのだが。
慶哉は春那に聞いた。
「アキ、体調が悪くなったんじゃないか?」
春那は慶哉を見る事なく、試合に目を向けたまま、うつろに答えた。
「…違うよ」
「そういう状態でプレーしていると危険だぞ」
「…違うって」
「もし無理だったら言って---」
春那は慶哉の方を向いて、大声で怒鳴った。
「違うって言ってんじゃん!」
体育館全体に響き渡る声量だった。春那は自分の声で我に返った。
「ごっ、ごめんなさい」
下を向いて、ガックリとうなだれた。
「アキ、前半はもう休め。残り時間とハーフタイムを含めたら、
三十分くらいは時間がある。その間に切り替えてくれ。後半から行くからな」
「うん、分かった…」
春那は顔を上げられなかった。
●
前半が終わり、ハーフタイムに入った。十五分間の休憩に入る。
チームは別室で休憩するのだが、春那は「お手洗いに行く」と言って別れた。
春那は図書室にいた。今日は授業が無い為、空調が使われていない。その為、かなり冷えている。蛍光灯は点けられていない。春那も点けなかった。とにかく誰にも会いたくなかったので、一番奥の席に座り突っ伏していた。すると、左側から霧師希の声が聞こえた。
「ここ、空いてます?」
その声と同時に春那の左側の椅子が後ろに引かれ、霧師希は座った。
春那は慌てて身を起こした。
「シキさん! どうしてここが分かったんですか?」
「春那ってさ、病院で親とケンカしたり、看護師さんに叱られたりした時、決まって休憩所の図書コーナーにいただろう? 『本の匂いが好きだから落ち着く』って言ってたね。
どうだろう? と思って図書室を探して来てみたら、ホントにいた」
「シキさんって本当に私の事、何でもお見通しなんですね」
「まさか、たまたまだよ」
「アハハ…」
春那は力なく笑った。春那は何を話していいのか黙りこくっていると、霧師希は言った。
「ごめんね、春那」
「…え? どうしてシキさんが謝るんですか?」
「今日は久し振りに会えて、本当に嬉しかったんだ。はしゃぎ過ぎたよ。
それが春那にプレッシャーになっちゃったのかなと思って、反省してる」
「そんな事ないです! 私だって嬉しくて、すごい気持ちが高まったんです。
だから良いプレーができるって思ってたんですけど、空回りしちゃいました」
「うん、でもまだ後半が---」
霧師希の言葉をさえぎるように、春那は話し始めた。うつむき加減で、声に力は無い。
「私、幼い時は病気と闘ってました。その後は十五年間、フットサルと勉強に打ち込んできました。とても長い道のりだったんです」
「…うん」
「なのに、やっとここまでたどり着いたのに! 一番肝心な舞台でこのあり様です。
かっこ悪いです。情けないです。本当につまらない奴です…」
「春那」
「はい」
春那は霧師希に顔を向けると、左の頬に痛みを感じた。霧師希が右手の親指と人差し指で、
春那の頬をつまんでいた。そのまま、ゆっくりと右へ引っ張った。
「いたたたたっ! いたいたいっ! いたいよぉ!」
霧師希が指を話すと、春那は左手で左の頬をこすった。
「何するんですかぁ! 痛いんですけど!」
霧師希は少し怒気を込めながらも、冷静な口調で言った。
「春那、僕も今の君は『つまらない奴』だと思う」
「…」
「自分の事を『つまらない奴』なんていうのは、本当につまらないよ。でも本当の春那は、そうじゃないって僕は知ってる。ご両親もそうだし、麻嶌君やナミさん、チームメイトの皆さんもそう思っているだろう。たった十分足らず事の事で、自分を否定しないでくれよ」
「はっ、はい…」
春那は嗚咽して泣き始めた。霧師希はハンカチを手渡したが、涙が止まる感じは無かった。
「春那、机の方を向いてみて」
「えっ? あっ、はい」
春那は突っ伏していた机の方を向き、座り直した。
すると、背中に暖かい感触を感じた。それは上下に優しく動いている。
霧師希が右手で、横から春那の背中をさすっていた。春那は少し背中を丸めた。
「昔はよく、春那の背中をさすったな」
「そうですね。シキさんが背中をさすると、咳が止まりました。落ち着くんですよね」
しばらくすると、涙が止まってきた。
「子供の頃、シキさんの手を『神の手だ』って思っていたんですよ」
「そっか、そりゃあ光栄だ」
「へへーっ、今でも健在だぁ」
さする手を止め、右手を春那の左肩にポンッと添えて、霧師希は言った。
「春那。君は幼い時から、本当に努力してきたね。自分の為じゃなく、誰かを喜ばせたいと思ってさ。それって誰でもできる事じゃない、すごい事なんだ。忘れないでくれよな」
「…はい」
春那は返事をすると、スッと立ち上がって霧師希の方を向いた。
「シキさん、もう大丈夫です! 戻りますね」
笑顔が返ってきた春那を見て、霧師希も笑顔になった。
「うん、分かったよ。でも、それじゃあ寒いだろう?」
霧師希は春那の後ろに回り、ジャケットを脱いで春那の背中にかざした。
「いいですいいです! それじゃシキさんが寒いです! それに、すごい汗かいているし」
「いいから着なよ。廊下はもっと寒いよ。選手に風邪ひかれたら困るからね」
「ん…、じゃあ」
春那はジャケットに袖を通した。両手で自分を抱きしめるようなポーズを取ると、
笑顔で声がこぼれた。
「むふーっ」
「何か言った?」
「へへーっ、何でもありません。行きましょう」
霧師希が出口へ向かって歩き始めると、春那は背中のワイシャツをつまんで引っ張った。
「あのー、もう一つお願いがあるんですけど」
●
体育館では、もうすぐハーフタイムを終えようとしていた。
選手はピッチで準備を進めている。
慶哉は夏美菜に聞いた。
「ナミ、アキは見つかったか?」
「ダメです、見つかりません。ケータイもつながらないし。霧師希さんもいません」
そう言いながら、二人は周りをキョロキョロと見た。
すると慶哉が、体育館の扉がゆっくりと開いていくのに気が付いた。
「ん? あれは霧師希さんじゃないか?」
「お待たせしましたー。」
霧師希は扉からそう言いながら、慶哉と夏美菜の所へ歩み寄ってきた。
霧師希が春那をおぶっていたので、二人は驚いた。
こちらへ到着した春那に、慶哉は焦って聞いた。
「アキ! おまえ怪我しているのか?」
「ううん、全然元気だよ」
「じゃあ、どうしてオンブなんだ?」
春那は霧師希の肩に巻いている自分の腕を、ギュッと締めた。
「むふーっ」
「いや、返事になってねーし」
「まったりと安心できます~」
「何言ってんの?」
霧師希は春那を降ろした。春那は地面に『トンッ』と着地し、立ち上がった。
上半身はジャケット姿。ジャケットのあちこちを見て、微笑んでいた。
慶哉がまた春那に聞いた。
「あれ? そのジャケットは?」
「むふーっ」
「いや、だから返事になってないって」
春那はジャケットを脱ぐと、霧師希に丁寧に手渡した。
「ありがとうございました」
「うん、じゃあね」
霧師希は体育館を出て行った。春那は霧師希が扉を出ていなくなるまで、
名残惜しそうにその背中を見ていた。
慶哉が言った。
「アキ、後半戦どうする?」
「もちろん出るよっ!」
春那はそう言うと、左手のひらを右手の拳で強く『パンッ』と叩いた。
夏美菜はそんな春那を見て、やや呆れ顔だ。
「あのねぇ、空手の試合じゃないんだからね」
「一緒だよ! フットサルは格闘技だよっ!」
春那は両手で拳を作って自分の前にかざし、腕を振るわせて叫んだ。
「うおおおぉーっ! 力があふれて仕方ないっ!」
慶哉と夏美菜は「やれやれ」と呆れながらも、春那に元気が戻ったのが嬉しかった。
●
後半戦スタート時で三対一。劣勢だったが、諦める点差ではない。
開始五分で、慶哉は選手を二人入れ替えた。インするのは、慶哉自身と春那だ。
慶哉は相手からボールを奪いに行ったが、春那は迷わず自軍のゴールへ向かって走った。慶哉がボールを相手選手から奪ってキープした瞬間、自軍のゴールライン(ゴールの横)に立っている春那が叫んだ。体育館全体に響くような大声だった。
「キャプテン! こっちだ! 私にもってこい!」
相手ゴールから最後方の位置で何をするのだろうかと、敵も味方も全員が思った。
ハーフウェー辺りにいた慶哉は、ともかく春那にパスを送った。
二人の間に相手選手がいなかったのでパスは通り、春那は右足の裏でピタリと止めた。
そして右足を高々と上げて、振りかぶった。
ピッチが短く選手が密集しやすいフットサルで、足を高く振り上げる事はあまり無い。
だが春那はお構いなしに振り上げた。しかも極端な高さだ。そのまま振り降ろし、足の甲に当てるインステップキックで力強く蹴った。キックの強さがボールに上手く伝わり、
ボールは力強く飛んでいった…が、もちろんゴールは捕らえていない。
二階にある客席に当たった。敵味方関係なく全員が唖然としていたが、
春那一人が右手でガッツポーズを作って喜んだ。
「よしっ!」
●
霧師希が二階から観戦していると、夏美菜がやってきて隣に座った。
「あれ? ここにきて大丈夫?」
「ええ。もうアキさん大丈夫みたいなんで、帰ってきちゃいました」
「すごいねぇ。僕が見ても、別人のような動きだって分かるよ」
「そうですね。あのロングキック以降、大暴れしてますね。
でも、あれがいつものアキさんなんですよ」
「あのキックって、なんだったの?」
「たぶんですけど、自分の状態を確認したんだと思いますよ。
『大ぶりのロングキックが、自分の思う通りコントロールできた。よしっ、いけるぞ!』
みたいなね。実践の場面で確認したかったのかもしれません」
「神経が太い子だね」
「強気と言ってあげましょうよ」
二人は笑った。そうこうしている間に、春那のチームが、ゴレイロと一対一のPKを再び獲得した。誰が蹴るのかといえば---
「はいっ!」
春那が右手を元気よく上に突き出し、二階席まで聞こえるような大声で志願した。
そんな姿を夏美菜は喜んだ。
「すごい嬉しそう! まったく、授業中に当てられた小学生じゃないんだから」
「良い生徒だよ、あの子は」
「さあ、今度こそ見れるかもですよ。ニタニタPKが!」
春那はペナルティーマークにボールを置き、数歩後ろに下がった。
「霧師希さん、アキさんの顔を見ていてくださいね。あっ、ニタニタしてるよ~」
距離があるのでハッキリは分からないが、春那が笑いそうになっているのを
我慢しているのが分かった。肩も少しだがピクピクしている。
春那は、口角が上がりそうなのをこらえていた。
「あっ---」
霧師希がつぶやくと、夏美菜も言った。
「こっち見ましたよね? たぶん霧師希さんを見たんですよ。余裕あるなぁ」
春那は力を込めず、冷静にゴールの右隅にスピードボールを蹴り込んで得点した。
回りをチームメイトが囲み、ハイタッチをして喜んだ。春那は自陣に戻る前に立ち止ま
り、霧師希を見た。そして満面の笑顔で右手を伸ばし、人差し指で霧師希を差した。
夏美菜は不思議そうに言った。
「あれなんだろう? 初めて見るな」
霧師希は答えた。
「あれは漫画で氷上神住がやるパフォーマンスだよ。
ゴールを決めると、客席の彼女を指差すっていう」
春那の指先に釣られたのか、他の選手や二階の観客数名がまでが、霧師希を見た。
「恥ずかしい…。でも、十五年前の約束を覚えていてくれたんだ。嬉しいよ」
試合は終わった。
四対四の引き分け。春那は二ゴール(PK含む)・一アシストの活躍だった。
ホッとした夏美菜は、霧師希の方を見て言った。
「終わりましたね、前半はどうなるかと思いましたけど」
「本当だね、とにかく無事に終わってよかった」
霧師希がそう言うと、夏美菜は霧師希の方へ、右手のひらを向けた。
『ハイタッチをしましょう』という意味だ。霧師希は右手で春那の手をポンッと叩いた。
すると次の瞬間、霧師希の側頭部に衝撃が走った。またもボールが直撃したのだ。
「いってぇっ!」
右手で側頭部をさすりながら一階のピッチを見ると、春那が霧師希をにらみつけていた。
「そこのおじさ~ん。女の子のお触りは禁止となっておりますー」
それだけを言うと、プイとふてくされて去って行った。
「これで二回目! 二回目の方が痛かったよ!」
霧師希は、顔をしかめて頭をさすっていた。
「コントロールの難しいインステップキックで、
霧師希さんの頭に向けて力強く蹴るんだから、大したものですよね」
「感心しないでよ! これ以上されたら本当に頭おかしくなるから!」
「アハハ、そりゃそうだ。じゃあ私、下に戻りますね」
夏美菜は立ち上がると、扉に向かって歩き出そうとした。
「ナミさん」
霧師希が呼び止めると振り返った。
「はい?」
「今日はありがとうね」
「いえいえ。それよりもアキさんの事、たくさん褒めてあげてくださいね」
「うん、分かった」
夏美菜を見送ると、霧師希は一階の様子を見ていた。
選手同士で挨拶をしたり、後片づけをしている。
数分後、一階のピッチにいる春那が自分の近くまでやってきて、体育館の出口を指差した。ここに来てくれという事だ。一階に降りて扉に向かうと、中から春那が出てきた。
首にはオレンジ色のタオルを垂らしている。
「お疲れ様」
「いえ! 霧師希さんこそありがとうございました」
「ゴール後のパフォーマンス、覚えてくれていたんだ。ありがとう」
「あっ、シキさんも覚えてくれていたんですね。嬉しいなぁ。十五年前の約束なのに」
「それとさ、もう止めてくれよな」
霧師希は困り顔で、右手で自分の側頭部に手を当てた。
春那は目を細め、不敵な笑みをして言った。
「それは霧師希さん次第ですよ。女子大生にデレデレさえしなければ大丈夫です」
「トゲがあるなぁ」
「アハハ、冗談ですよ。やっぱり痛かったですか?」
春那が霧師希の頭を触ろうと手を伸ばした直後、春那の動きが止まった。
「春那?」
そして目を閉じると、膝から崩れ落ちた。
慌てて霧師希が受け止め、地面へ直撃する事は避けられた。
「春那! 春那!」
霧師希の腕の中で、春那は気を失っていた。
七、夢の日を終えて
保健室のベッドで、春那は仰向けに寝ていた。首元まで掛布団が掛けられている。
ベッドの回り三百六十度に白いカーテンが引かれている。
「うーん…」
春那は目を覚まし、上半身をゆっくりと起こした。
ベッドの横にあるパイプ椅子に座っていた夏美菜が立ち上がり、春那の肩に手を置いた。
「あっ、起きた。大丈夫?」
春那は上半身を起こし、両腕を天井に伸ばしながら言った。
「うーん、大丈夫。私、寝ちゃってたんだ」
「いや、倒れたの!」
「あっ、そうだっけ?」
「まったく…」
夏美菜はブスッとふてくされて、椅子に座った。
春那は掛布団の下を見て、自分の格好を確認した。ユニフォームは着ておらず、
Tシャツとオレンジ色のジャージで素足。髪はくくっておらず、ほどかれている。
「あれ?」
「大丈夫、私と保健の先生で着替えさせたんだ」
「そっか、ありがとう」
「過労だってさ。ちゃんと食事とって、安静にしてろって先生が言ってたよ」
「ふーん」
夏美菜は五百ミリの水のペットボトルを、フタをねじって春那に渡した。
春那は申し訳なさそうに言った。
「ありがとう。ナミは私のお母さんだね」
「まったく世話のかかる子だよ」
春那は一口で半分を飲んだ。その後、体を後ろにずらしていき、ベッドのヘッドボードにもたれかかった。すると、カーテンの向こうから慶哉の声がした。
「おーい、入っても大丈夫か?」
春那が起きてすぐ、夏美菜がスマートフォンのメッセージアプリで知らせていた。
春那が答えた。
「どーぞ」
慶哉はカーテンをよけて入ると、夏美菜の横にあるパイプ椅子に座った。
「思ったより顔色いいな。痛いところとか無いのか?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう、疲れただけみたいだし」
春那は大きなため息をついて、残念そうに言った。
「あーあ、一試合出ただけで過労なんてね。私も修業が足らないね」
心配そうに夏美菜が言った。
「試合じゃないよ。今日のアキさんは笑ったり怒ったり、感情の起伏が激しすぎたよ。
それで疲れたんじゃない?」
「そうかも。今日は本当に忙しかったなー。あと、昨日寝れなかったのが関係あるかな」
慶哉は驚いて言った。
「寝てないのか?」
「うん、全然。試合の事考えたら目が冴えちゃって」
「そりゃあダメだろ!」
慶哉が怒鳴ると、夏美菜も声を荒げた。
「アキさんは公式戦ですら、いつも寝坊してるじゃない! 私のモーニングコール当たり前になってるし! 試合の緊張感ゼロ! それなのに練習試合で寝れないなんて!」
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
春那がなだめると、二人は小さなため息をついた。
そして慶哉は言った。
「まあ『原因』は分かってるからさ、次からはしっかりしてくれよ」
「はーい、キャプテン」
笑って頭をかいている春那を見た後、夏美菜は立ち上がりながら言った。
「じゃあキャプテン、アキさん任せていいですか? 片づけなきゃいけない事あるんで」
「おう、いいよ」
「ナミ、ありがとうね」
春那が手を振ると、夏美菜も手を振りながら出て行った。
夏美菜が去ってほんの数秒後、春那はもたれていた背中を勢いよく起こして言った。
「あっ、そうだ! シキさん…霧師希さんは? 今、何処にいるの?」
「霧師希さんなら帰ったよ。お前が問題ないって分かったらすぐ」
「えっ…? あ、そうなんだ」
春那の表情が一気に曇った。
「何か言ってなかった? 伝言とかない?」
「特にないな」
「そっか」
春那の顔は寂しそうだった。慶哉は立ち上がり、カーテンをつかんだ。
「開けようか? その方が気持ちいいし。起きてるんだからいいだろう?」
「そうだね。お願い」
『シャーッ』という音と共に、ベッドを囲んでいたカーテンが開かれた。
すると大きな窓が目に入った。外は真っ暗だ。
「今、何時だろう?」
春那はキョロキョロと壁時計を探して見た。その結果、春那は驚きの声を上げた。
「十九時過ぎてる!」
「よく寝てたからなぁ。二時間以上は寝てたな」
「そっか、どうりでスッキリしてるわけだ」
もう体調は悪くなさそうだと、判断した慶哉は言った。
「あのさ、今日中に言っておきたい事があったんだけど、今言っても大丈夫か?」
「ん? いいよ」
「あのさ…。俺、お前の事好きだったんだよね」
慶哉がそう言うと春那は目を逸らし、恥ずかしそうに掛布団を少しつかんだ。
「うん…、みたいだね」
「そりゃあ気付いてたよな。いつから?」
「三日くらい前だっけ? 私の呼び方をハルにしたいって言ったでしょう?
それで、今までのキャプテンの話とか行動とかを、よーく思い出してみたんだ。部活中とか、ナミ達と食事に行ったりとかさ。そうすると『もしかして?』という結論になって」
「そうか」
「でもさ、私って女子的なトコロが全然無いじゃん? そこが分かんないんだよ」
「でも、アキは本気だしたらスゴいって思ってたからさ。今日のメイクとファッションのアキを見た時、俺の見る目に間違いはなかったって確信してた」
「今日のはナミが全部してくれたんだよね。プロデューサーが優秀でした」
「アハハ、そうなんだ」
二人は笑い合った後、ゆっくりと表情が普通に戻り、慶哉が言った。
「今日、アキが招待した人…霧師希さん。この人が俺が敵わないような人だったら、アキの事を諦めようって決めてた。そうしたら、その…、アキや霧師希さんには悪いけど---」
「普通のおじさんがやって来たと」
「そう」
「これなら勝てると」
「そう」
恐縮しながら言っている慶哉とは対照的に、春那はケタケタ笑っている。
「ごめん。でもお世辞を言うのは、かえって失礼だろうから」
「いいっていいって。シキさんだって、まさかキャプテンと張り合えるとか思わないよ」
「霧師希さんの事だけだったら、諦めなかった」
「ん…? どういうこと?」
慶哉が真剣な顔になったので、春那は笑うのを止めた。
「霧師希さんじゃなくて、アキの霧師希さんに対する反応を見て諦めたんだよ」
「私?」
「試合に向けての準備、今日のメイクやファッション、霧師希さんとの会話、
試合の様子…。アキと知り合ってまだ半年足らずだけど、
まったく見た事がない感じばかりで驚いたよ」
「今日の私か」
「それでトドメを刺されたのが、さっきの反応」
「さっき? 何かあったっけ?」
慶哉は少しため息をついて言った。
「俺が『霧師希さんは帰った』って言った時のアキだよ。
あんなにガッカリした人間の顔を見たのは初めてだ」
「あ…それか。顔に出ちゃってたんだ」
「もうこれで吹っ切れました。だから、これからは同じフットサル部の部員として、
友人として、仲良くしてくれないか?」
「もちろん! ありがとう!」
春那は笑顔で答えた。
「あのさ、今から言う事は友人としてなんだけど、聞いてくれないか?」
「うん、何かな?」
「アキさ、もう少し霧師希さんを信用した方がいいよ」
「えっと…してるつもりだけど。どういう意味?」
「俺さ、さっき霧師希さん帰ったって言っただろう?」
「うん。それがどうかしたの?」
「霧師希さんってさ、倒れたお前を放っておいて帰る人なのか?」
春那は、ほんの数秒考え込んだ。そして、笑いをこらえて口元をピクピクさせている慶哉を見て、全てを悟った。
慶哉を指差して春那は叫んだ。
「あーっ! ウソだな! ひどーい!」
「アハハッ! ごめんごめん! ふられたの確定しちゃったからさ、
ちょっとぐらいイタズラしてもいいだろ? ごめんな」
「あのねー!」
春那は腕を組み、慶哉をにらんだ。
慶哉は、もう一度謝った。
「ごめんって! 悪かったから許してくれ。ちゃんとお詫びはするよ」
「これは高くつくよ! 学食一回ぐらいじゃあ済まさないからね!」
「お詫びにプレゼントを用意してあるから」
「プレゼントだぁ?」
「食堂に行ってみな」
●
春那は小走りで食堂へ向かっていた。食堂に近づくと、醤油を焦がした様な匂いがする。
春那は食堂のドアを開いた。明かりは点いている。匂いはする。でも人はいない。
匂いは調理場の方からだ。この食堂はオープンキッチンで、食事するスペースから調理場が見える設計だ。そこに霧師希が立っていた。
春那に気付いた霧師希は言った。
「あっ、春那」
春那に気づくと、霧師希が調理場から出てきた。スーツのジャケットは着ておらず、
カッターシャツのみでネクタイはしていない。カッターシャツのボタンを上一つ開けている。袖はまくられていて、青いエプロンをしていた。
「もう大丈夫なの?」
春那は戸惑いを隠せないまま答えた。
「はい、私は大丈夫なんですけど。シキさんは何をやっているんですか?」
「何って…、春那の晩ごはん作ってんだけど。麻嶌くんから聞いてるだろ?」
「へっ? えーっと、はい。聞いていると言えば、聞いてます」
「ん? まあ、座って待っててね」
霧師希が調理場に戻ろうとすると、春那は呼び止めた。
「あっ、シキさん。こっち向いてもらえます?」
「何?」
霧師希のエプロン姿を、あらためて春那は正面から見た。
両手で拳を作り、口の前に当てた。目をトローンとさせて一言。
「むふーっ」
「頼むから、それ止めて」
●
霧師希は調理場の冷蔵庫から調味料を出し入れしたり、調理台に置いた皿に調味料を入れて混ぜたりと、準備を進めている。春那は調理場の中にはいるが、少し離れて見ていた。
「シキさんの料理はいっぱい食べたけど、料理している姿を見るのは初めてです。
カッコイイ!」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、『むふーっ』は止めてくれよ?」
「チエッ」
「何か言った?」
「何でもないでーす」
春那は少し残念がりながら、霧師希の様子や材料・調味料を見ていた。
「ところで何を作ってくれるんですか?」
「豚の生姜焼き」
「えーっ! そうなんだ」
「なに? その反応。意外?」
「私の記憶が間違ってなかったら、
肉をメインにした料理って、霧師希さんに作ってもらった覚えがないんです」
「肉を食べるのって、体に負担が強いんじゃないかと思ってさ。
当時は肉がメインの料理は避けてたんだ。でも今は大丈夫なんだよね?」
「はい」
「今の春那の好物って知らないから、ナミさんに聞いたんだよ。そしたら即答された。
『豚の生姜焼きです』って」
「ナミは私の妻なので、私の事は何でも知ってます」
「アハハ、なるほど。可愛い奥さんで良かったね」
霧師希は大きい深皿に、チューブタイプのおろした生姜とめんつゆを入れて混ぜた。
その中に豚肉を敷いた。
その過程を見ていた春那が聞いた。
「生姜焼きってこうやって作るんだ。でも、この肉とかどうしたんですか?」
「駅前のスーパーへ買いにいったんだ。このエプロンは駅前の百均」
「百均なんだ。持ち歩ているのかと思いました」
「まさか。あと、僕に春那の夕ご飯を作ったらどうかと勧めてくれたのは麻嶌君だよ」
「キャプテンが?」
「うん。『目が覚めたらお腹が空いているだろうから、何か作ってあげてもらえませんか』って。小さい頃は春那のおやつや食事を作っていたって話をしたから、そう思ったんだろうね。この調理場を使う許可を取ってくれたのも麻嶌くん。みんな良いお友達だね」
「はい、本当にそうです」
そろそろ豚肉を焼くので、フライパンに火をつけた。春那は霧師希の横に立って見ている。
霧師希はめんつゆに漬けていた豚肉を菜箸でつまみ、フライパンに敷いた。
ジューっという音と共に、香ばしい匂いが沸いてくる。
霧師希は、フライパンを見て調理を続けながら言った。
「あのさ、もう元気だよね?」
「はい、もう大丈夫です」
「じゃあ手伝ってもらうよ。そこにカップ味噌汁があるから、味噌と具を中にいれてね。
カットネギも買ってあるから、一緒に入れといて。お湯も沸かしてくれよ。レンジごはんをチンして茶碗にうつしてね。生姜焼きを入れる皿だけど、水を少し入れてチンして温めておいて。そのまま使うと、すぐに生姜焼きが冷めちゃうからね。
テーブル拭いといてよね。それと---」
「わ、分かりましたから、いっぺんに言わないでくださいよ!」
春那は霧師希の真後ろにある調理台で、言われた事を急いでこなし始めた。
霧師希はそんな春那の姿を見て、クスクスと笑いながら言った。
「可愛いね」
「はっ? なっ、何を言い出すんですか!」
「嬉しいんだよ。春那と一緒に料理ができるなんてさ。
十五年前、病院にいた頃は想像もできなかったから」
「あっ、本当ですね。私も料理を覚えた方がいいのかな?」
「覚えなくていいよ。フットサルに集中しなって。それに、春那は食べるの専門だろ?」
「はいっ、それなら任せてくださいっ!」
しばらくして、春那は言った。
「終わりましたぁ!」
「ありがとう。じゃあ、座って待っててね」
「はい」
春那はテーブルに座っていた。
ネギがたっぷり入ったカップみそ汁、茶碗には温めたレンジご飯がよそってある。
「はい、お待たせ」
豚の生姜焼きが大量に乗せられた皿が、春那の左側から差し出され、テーブルに置かれた。美味しそうな香ばしい匂いがする。春那の目は生姜焼きに釘付けだ。
「どうぞ」
「はいっ、頂きますっ! 美味しそうー!」
春那が生姜焼きをお箸でつかもうとした時、霧師希は立ち上がりながら言った。
「じゃあ食べておいてくれよな。僕は調理場を片づけておくから」
春那は霧師希のエプロンをつかみ、目を見て言った。
「あの…、一緒にいてもらえませんか? せっかくシキさんがいるのに、一人で食事は寂しいんで…。片付けは私も手伝いますから」
「うん、そうだね。じゃあ、お茶を淹れるよ」
「はいっ!」
数分後。急須で淹れた熱いお茶の湯呑みを、春那の前にそっと置いた。
「ありがとうございます」
霧師希は春那の隣に自分のお茶を置き、椅子を引いて座った。
「よいしょっと」
「うわーっ、おじさんっぽい」
霧師希はニコリとして言った。
「フフッ、正真正銘のおじさんだからいいんだよ」
春那は霧師希の前に、お茶しかない事に気が付いた。
「あれ? 何も食べないんですか?」
「お腹空かないんだよね。」
「えーっ! お昼もサンドイッチだけでしょう? 大丈夫ですか?」
「昨日から緊張しててさ、全然空かないんだ。まぁ、後でパンでも買って帰るよ。
あと、昨日もあまり眠れなかったな」
「私もです。緊張してるのかなと思ってたけど、今思えばワクワクしてたんです」
「僕もかな。遠足の前日みたいだね。」
春那は十分程で食べ終えた。お箸を置いて、両手をパンッと合わせて言った。
「御馳走様でした」
「いーえ。春那、こっち向いてみな」
春那は椅子に座ったまま、体を左に向けた。霧師希はテーブルに備え付けてある
ティッシュを一枚とると、春那の口の右下辺りをぬぐった。
「生姜焼きのタレがついてた」
「ありゃあ。それ、ナミにもよくされます」
「しっかりしてくれよ、あの子の方が年下だろうに」
「ナミは私のお母さんなのです」
「さっきは妻だって言ってたよ?」
「二役を頑張ってくれてます」
二人で笑った。笑い終えると、霧師希は両手を拳にして膝の上に置いた。
そして深々と頭を下げた。
「春那、今日は本当にありがとう。元気な姿を見れて嬉しかったし、楽しかったよ」
春那は慌てるように、右手のひらを激しく振って答えた。
「いえ、それはこちらです! 私の事を忘れずに会いに来てくれて、嬉しかったです」
そう言うと、春那の表情は曇った。
「でも、試合で醜態をさらしちゃいました。あれが余計というか、情けないというか---」
春那が言い終える前に、霧師希がさえぎる様に言った。
「そんなは事ないよ。むしろ、良かったと思う。春那がどんな事で悩んだり、苦しんだりする子なのかが伝わってきたからさ。自分に素直で、一生懸命に向き合おうとするんだね。本当に良い子になったな」
「いえ、そんな…」
春那はうつむいてしまった。霧師希は、こちらに向けられた春那の頭を、やさしく撫でた。
「春那は良い子だ」
「へへーっ…」
春那は子供のように笑みを浮かべた。
霧師希は手を離し、春那が前向くと尋ねた。
「フットサルの試合って色々あると思うけど、今日の練習試合を選んだ理由ってあるの?」
「あっ、公式戦の方が良かったですか?」
「いや、そうじゃなくて。何か事情があったのかと思ってさ」
「私、レギュラーには及ばないので、公式戦だと出れないかもしれないんです。
でも練習試合なら、公式戦よりは出してもらえますから。
やっぱりプレーをしている姿を見てほしかったんです。それに---」
「それに?」
「三回生・四回生になった頃なら、レギュラーになっているかもしれません。
公式戦にお呼びできたかもしれません。でも、それじゃあ二年後・三年後です」
春那は少しうつむき、膝の上で両手の指をモジモジし始めた。
「…私、そんなに待てません。はっ、早くお会いしたかったので…」
「うん、僕もだよ。今日会えて本当に嬉しいよ。ありがとう、春那」
霧師希は、春那の頭をもう一度撫でた。
「へへーっ」
霧師希は春那の頭から手を離すと、ゆっくり立ち上がった。
「さてと」
そんな霧師希を春那は見上げている。
「そろそろ帰ろうか。僕が片づけておくから、春那は自分の事をしておいで」
「あのっ!」
「なに?」
春那は恐る恐る言った。
「連絡先…交換しません?」
霧師希は笑顔で即答した。
「うん、しよう」
春那も笑顔で言った。
「はいっ!」
霧師希は自分のカバンからスマートフォンを取り出すと、春那に渡した。
「ごめん。やり方が分からないから、お願いしていい?」
「アハハ、おじさんですねー。了解です、任せてください」
春那は霧師希のスマートフォンを操作し、メッセージアプリを開いた。
「アカウントが少ないっ…」
「まぁ、会社の人ぐらいしか入ってないね」
「シキさんらしいですね。あれ? この『nami』って、ナミの事ですよね?」
「そうだよ。途中ではぐれたりしたら困るからって、入れてくれた」
霧師希がそう言うと、春那は不機嫌そうに言った。
「ふーん…。早々に女子大生の連絡先をゲットするなんて、手が早いんですね!」
「いや、手が早いって…?」
「どんなトークしてんの?」
春那は霧師希に断わる事もなく、会話の画面を開いた。会話をした形跡はない。
「あっ、まだなんだ」
春那はスマホから目を離すと、霧師希をにらんで言った。
「よほどの緊急連絡じゃあない限り、会話はしないでくださいね! 分かりましたか?」
「わっ、分かりました」
霧師希はコクッ、コクッと激しくうなずいた。
●
二人は大学の玄関前にいた。時刻は二十一時前。外はすっかり暗くなっている。
春那は私服に着替え、上にコートを着ている。
「じゃあ、私はここで。寮が近いんで大丈夫です」
「分かった、じゃあここで。今日はゆっくり休みなよ」
「また、試合を見に来てくれますか?」
「もちろん! 楽しみにしているよ」
「今度、食事に行きません? この辺りって、意外と良いお店が多いんですよ」
「そうだね、たまには良いかもしれないね」
「えっ? あっ…と、そうですね」
春那は、霧師希の『たまには』という言葉が気になった。
霧師希が自分に『好意をもってくれている』と春那は思っていたのだが、
自分の考える『好意』とは違う事に、この時は分かっていなかった。
八、二十六歳差。あなたどう思う?
一週間後のお昼、霧師希と牧野は会社近くの喫茶店で食事をしていた。向かい合ってテーブルに座っている。食事は済み、二人ともコーヒーを飲んでいた。
牧野はニコニコした表情で言った。
「やっと今日、お昼休みが合いましたね」
「はい、最近はお互いに仕事が詰まってましたから」
「やっとお話をゆっくり聞ける。まずは写真見せてくださいよ」
霧師希はスマホを渡した。画像にはスーツ姿の霧師希と、私服姿の春那が写っている。
「可愛いですね! 霧師希さんの腕つかんでるし。すごいなぁ。
副社長…お母さんに似てるかな? 背も霧師希さんより高いんだ。元気そうな子ですね」
「そうですね、元気を通り越して強気な子になってて。とても安心しました」
牧野はスマートフォンを返そうとした時に画面に触れてしまい、写真が閉じられた。
そのまま画面が目に入ってしまい、驚いた。
「霧師希さんのメッセージアプリに通知が付いてる!
しかも『5』だ。びっくりしたなぁ。ほとんどアプリ使わないって言ってる人が」
「そこまで驚かなくても。まぁ、確かに普段は使いませんからね、僕」
「もしかして、春那ちゃんですか?」
「そうです。練習でこんな事したとか・友達との事とか・何を食べたとか。
他愛ない事ですよ」
「他愛無いというか…普通にカップルっぽいトークですね」
「それは言い過ぎですよ」
「あの、春那ちゃんとのトーク画面を、軽く見せてもらえませんか?」
「いや、ダメでしょう」
「いえ、文字を読みたいんじゃあないんです。ざっとスクロールしてもらえませんか?」
「スクロール? はぁ」
霧師希は牧野のいる方にスマートフォンを向け、トーク画面をゆっくりと上方向へスクロールさせた。文字は読めないが、写真や文章の量などは伝わる。牧野は驚いていた。
「これが一週間の量? 多いな。画像もいっぱいありますね。
それにひきかえ、霧師希さんの文章少ないなぁ」
「苦手なんです、スマホで会話なんて。相手が女性となったら余計に」
霧師希はそう言いながら、スマートフォンを引っ込めた。
「じゃあ、再会当日のお話を聞かせてもらえます? 楽しみだなぁ」
霧師希は楽しい一日だったと、おおまかに話した。
「うーん…」
笑って聞いてくれるのを霧師希は期待していたのだが、牧野は難しい顔になってしまった。
「うーん、『久し振りに会った子供と大騒ぎ!』みたいなお話を期待していたのですが、
どうやら違いますね」
「違うというのは?」
「霧師希さんに対する、春那ちゃんの態度です。想像でしかないですけど、春那ちゃんは霧師希さんに、好意をもっているのではありませんか? それは分かります?」
「えっ? …はい。女性に疎い僕でも、そう感じる部分はあります」
「霧師希さん自身は、春那ちゃんをどう思っているのですか?」
「いや、二十六歳も違うんですよ」
「年齢はひとまず置いておきましょう。霧師希さんは、春那ちゃんが好きなのですか?」
「…今のところは、何とも言えません」
「そうですか。でも、否定はしないと」
霧師希は、ふとある事を思い出し、牧野に尋ねた。
「牧野さんって、娘さんいらっしゃいましたよね?」
「ええいますよ。もうすぐ高校卒業です」
「もし娘さんが、すごい年の離れた男性と交際したいと言ったらどう思われますか?」
「それ、答えないと分かりませんか?」
霧師希は馬鹿な質問をしてしまったと反省したが、牧野は厳しい事を言ってしまったかと思い、後悔した。
「霧師希さん、キツい返事をしてしまってすみません。別に怒ったのではないですから」
「いえ、こちらも無神経でした。嫌な事を想像させちゃって、すみません。でも、それが世の父親の気持ちだと思います。ハッキリ分からせてくださって、ありがたかったです」
牧野は少し考えた後、真剣な表情で霧師希に言った。
「ウチの子は高校生だから未成年です。でも春那ちゃんは大人ですよね? まだまだ若いけど成人です。二人で決める問題ですよ。しっかり話し合って決めた結論なら、それで良いと思います。だから、私が霧師希さんに意見することはありません。ただ---」
「ただ?」
「決断するなら、早い方が良いと思います。先に延ばして、良い事は一つもありません。
結論が出たら、一日でも早く伝えてあげてくださいね」
●
十一月十八日。練習試合から二週間後。春那と夏美菜は大学の食堂にいて、向かい合わせで食事をしていた。夏美菜は定食を食べている。
夏美菜は不敵に笑って言った。
「アキさん、当ててみせようか?」
春那は右手に持っているスプーンを、夏美菜に向けておどけた。
「ほ~う、名探偵ナミ。何を当てるのかな?」
「今朝、大学の駅前で霧師希さんと会ったでしょう?」
そう言われると、春那は左手を胸に当てた。
「えっ、当たってる! マジで名探偵!」
「バカでも分かるよ。アキさんのメイク・服装でさ。何より、最大の証拠はそれ」
夏美菜は、春那の前に置かれている弁当箱を指差した。二段重ねのピンク色の弁当箱で、取り外して横に並べていた。右の器には、ポテトサラダ・ウインナー・プチトマトが入っている。左の器にはオムライスがビッチリと入っている。その中心には、ミートボールが二つ埋め込まれおり、人の目に見える。その下にはケチャップで鼻と口が描かれていた。
「見た目のクオリティがすごい」
「味も良いよ~」
嬉しそうに春那はスプーンをすすめていた。
「お弁当作ってもらう日って、決まってんの?」
「今は週二回くらい。シキさんはいつ『でも作るよ』って言ってくれたけど、
さすがに悪いよ」
「で、駅前でお弁当を受け取る日は、メイクして服装もいつもと違う訳だね。
たった五分くらいの事なのに、よく頑張れるね」
「だってさ、会うたびにシキさんが『可愛いね・可愛いね』って言うから仕方ないよ。
期待には応えないと」
「いや、『仕方ない』って顔してないよ。喜んでるじゃん」
「フフッ。そうだナミ、この間行った洋服のお店、また一緒に行ってよ。
色々と教えてほしいんだ」
「それはもちろんOKだけど…」
このあたりから、夏美菜の口調は少し重くなった。
「霧師希さんと、あれから会った? お弁当の受け取り以外で」
この質問に春那も口調が重くなり、スプーンを動かす手も止まった。
「一回会ったよ。スポーツショップ行った後、食事した。すぐ帰ったかな。トータルで二時間も一緒にいなかったと思う。デートというよりは、近況報告みたいになっちゃった」
「そっか。スマホで連絡はしているの?」
「お弁当の受け渡しとかはね。必要な連絡以外はスマホで会話したがらない感じでさ。
最初はよく送ってたんだけど。あまりしないようにした」
「うん」
「まあ、おじさんのスマホって、そんなもんだと思うけど。
でも会った時は、すごい優しいよ」
「…」
「ねえ、ナミ。『たまに』ってどれくらい?」
「何の事?」
「『たまに会おう』っていうのは、週に一回くらい? それとも月に一回くらい?」
「難しいなー。人それぞれだよね。
月に一回とも言えるし、年二~三回っていう感覚の人もいるだろうし」
春那は驚いて、少し声量が上がった。
「年に二~三回ぃ?」
「それって霧師希さんに言われたの?」
「…うん」
「もっと会いたいって事?」
春那は恥ずかしそうに言った。
「まあ、そういう事になるのかな」
夏美菜は霧師希について心配な事があったので、この機会に言う事にした。
「私さ、霧師希さんって良い人だと思う。アキさんの事、すごい想ってくれてるし、
真面目な紳士だよね」
「フフッ…そうだね」
「でも、お付き合いはしない方が良いと思う」
「えっ…?」
「あんな人が親戚にいたらいいなーとは思うけど、付き合いはよした方がいいよ。
たまにさ、家族みんなで一緒に会うとかで良いんじゃない?」
「意味が分からないよ。どうして?」
「年齢が違い過ぎるよ。二十六歳差だよ? 四十八か九でしょう? 霧師希さんって」
「でも、若く見えない? 四十って言っても通用するよ」
「いや、実年齢の話だって!」
「うん…」
「二十六歳差って事は、アキさんが五十の時、七十六だよ」
「いや、それぐらいの算数できるっての」
夏美菜は春那のお弁当箱の横あたりを、右手のひらで軽くパンと叩いた。
「真面目に聞いて」
「結婚するって話じゃないでしょう? 付き合うかどうかって話だよね?」
「同じだよ。中高生じゃあないんだから。私たちの年齢なら、付き合った時点で結婚は
考えるでしょう? 一%でも考える余地があるならともかく、
結婚が絶対ない人と付き合っても意味無いし」
「絶対ないとか・意味無いとか…。それこそ付き合ってみないと分からないよ」
「あとさ、霧師希さんについて、気になっている事が一つあるの。
アキさんに対する態度なんだけど」
「態度? 優しくなかった?」
「アキさんさ、あの日すごい霧師希さんにデレデレしてたじゃん」
夏美菜にそう言われ、春那は慌てて手を振った。
「いや、あれは違うよ! 気が付いたらああなってたっていうか」
「うん、分かってる。気を引こうとしたんじゃんなくて、無意識でしょ?
天然だって分かってる。問題はアキさんじゃなくて、霧師希さんの態度だよ」
「問題って?」
「普通のおじさんだったらさ、可愛い女子大生に懐かれたら、慌てたり・デレデレしたりするもんじゃないかな? でも、霧師希さんは嬉しそうだったけど、わりと冷静だった」
「紳士でいいじゃない」
「それって、アキさんの事を女性として見てないんじゃない?
それこそ親戚のおじさんが、久しぶりに姪っ子に会ったような感じかもね」
「姪か…」
「アキさんさ、最近オシャレにして大学いる日が多いじゃない?」
「うん、まあ。お弁当を受け取る日は、そうなるよね」
「何か変わった事なかった?」
「えっ…と、多少はね」
「男子に声かけられたり、合コンの誘いとかもあったでしょう?」
「うん、あったね。行ってないけど」
「行きなよ! そういう経験をたくさんして霧師希さんを選ぶんならまだいいけど、
最初が霧師希さんっていうのは、選択肢を狭めてる気がするの」
「年齢差を心配するのは分かるけど、ちょっとナミは過敏すぎる気がするよ。どうして?」
春那がそう言うと、夏美菜は語気が弱くなった。
「ウチの両親、私が小学生の時に離婚したのは知っているよね?」
「うん、詳しくは聞いてないけど。今はお母さんと二人暮らしなんだよね」
「ウチの両親は十歳差でさ、母親が年上で。私が小さい頃は仲良かったけど、年を取るにつれてだんだん…。お互いの価値観についていけなかったのかも。晩年はホントにひどかった。父親がひどく私達に当たるようにもなったし…。だから年齢差って大事だよ」
「それは気の毒になって思う。けど、それで霧師希さんと付き合うなっていうのは違うよ」
「違わないよ、年齢差の話なんだから。霧師希さんって、私のお父さんと一つしか違わないんだ。そんなの、私だったら想像もできない。上手くいかないって」
春那の語気がだんだん強まってきた。
「じゃあ、今すぐ結婚して、霧師希さんが六十になったら離婚する。
そう約束したら、賛成してくれるわけ?」
「そんな言い方しないでよ」
「じゃあ、私が五人くらい付き合った後なら、霧師希さんと付き合ってもイイわけだ」
「怒らないで。私、アキさんの事が大好きだよ。だから心配なんだ。
わざわざ苦労するような選択をしてほしくないんだよ」
「私だってナミの事は親友だって思ってる。フットサル部って全員男子でしょう?
みんな優しいけど、やっぱり男子だけの環境って緊張が解けないんだ。
ナミの存在があるから、毎日毎日がんばれるんだ」
「ありがとう、アキさん。」
「だからナミには賛成してほしいのに。それが無理なら放っておいてよ」
春那の「放っておいて」という言葉にムッとしてしまったのか、
夏美菜の語気がだんだん強くなっていく。
「極端な事を言うとね、霧師希さんがすごい資産家とかだったら、話は別なんだ。
先に亡くなっても、アキさんが路頭に迷ったりしない。でも、あの人は普通の人だよ?」
「そうだよ、普通なトコロが良いんだよ。お金持ちを必死で探すよりいいんじゃない?」
「なに? その言い方…。私の事を言ってるの? こっちは心配して言っているのに」
「それはどーも」
春那の軽い言い方に、夏美菜は歯止めが効かなくなった。
「アキさんは勘違いしてるんだよ。子供の時に、霧師希さんに助けられたんだよね?
それを感謝するのは素晴らしい事だと思うよ。
でも、『感謝』と『恋愛・結婚』は別の事だよ。目を覚ましてほしいの」
「目を覚ますって…。あんた、私の事バカだと思っているの? あの閉鎖された病院って言う空間で、霧師希さんがどれだけ良くしてくれたか、知りもしないくせに!」
「だから違うんだよ! 霧師希さんが悪いって事じゃなくてさ。あの人はアキさんの思っているような、特別な人じゃないよ。ただのおじさんなんだってば!」
夏美菜は言い終えてすぐ、酷い事を言ってしまったと我に返った。だがすでに遅かった。
春那は悲しそうにうつむいていた。
夏美菜は焦って謝った。
「アキさん、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかった。
本当にごめん、ごめんなさい…」
●
数日後の早朝、春那は体育館に一人でジャージ姿でいた。ランニングや柔軟体操などで
練習のウォーミングアップを始めていた。そこに扉が開き、慶哉が入って来た。
春那は前屈をしながら、笑顔で挨拶をした。
「おはよう、キャプテン」
「おはよう。相変わらず早いなー、アキは」
「そのセリフ、そのまま返すよ」
「そっか、そりゃあそうだ」
慶哉は体操をしながら言った。
「なあアキ」
「うん?」
「ナミと何かあったのか? 二人とも普通にしているけど、なんか変だからさ」
一瞬の沈黙の後、春那は笑顔で答えた。
「何もないよ、大丈夫。心配いらないよ」
「…そっか、ならいいんだ。二人とも良い大人だから、そっとしとくよ。
ま、何か出来る事があったら言ってくれよな」
「うん、ありがとう」
慶哉は体操を終え、カゴに積まれたボールを手にした。すると春那に呼び止められた。
「あのさ、ちょっと聞いてほしい事があるんだけど」
「ん? いいよ」
二人は壁にもたれて座った。慶哉はあぐらをかいて座り、春那は足を三角に立てている。
「ここで話していいのか?」
「うん、大丈夫。あとに二十分くらいは誰もこないよ」
「そうだな」
春那は申し訳なさそうに話し始めた。
「霧師希さんの事なんだけど」
「霧師希さん?」
「ごめんね。キャプテンに霧師希さんの事を聞くって、デリカシーなさすぎなの分かってる。でも、男子の意見を聞きたいんだ。それってキャプテンしかいなくて」
笑いながら、慶哉は答えた。
「その事は大丈夫だって。本当に吹っ切れてるから気にしないで。
友人として仲良くしようって言っただろう? 何でも聞いてくれよ」
「ありがとう」
「で、なに?」
春那は意を決したように、身構えて尋ねた。
「私が霧師希さんと付き合うって言ったら、どう思う?」
「どう思うって?」
「賛成する? 反対する? 二十六歳も違うんだけど」
「そういう事か。うーん…」
慶哉は腕組みをして目を閉じた。十秒ほど経つと、腕組みをほどいて言った。
「反対する。歳が違い過ぎるよ」
慶哉にそう言われ、春那は肩を落とした。慶哉はさらに続けた。
「アキが俺の家族だったらの話ね。
姉か妹だとして、霧師希さんと付き合うと言ったら反対する」
「そっか、家族だったら反対か。じゃあ、友達だったら?」
これに慶哉は即答した。
「反対する。理由は同じ。あと、アキの親だって反対すると思うよ」
「そっか、そうだよね。誰だってそう思うよね」
「むしろ、簡単に勧める人の方が、信頼できないよ。
アキの事を、本気で考えていないのかなって思ってしまうよ」
「そうだよね…心配してくれて嬉しいよ。ナミも心配してくれたんだ」
「そうか、ナミにも反対されたか」
春那は嬉しいと言いながら、表情は悲し気だった。だが、慶哉は構わずに話を続けた。
「今のは家族や友人だったら…という意見だね。俺自身の問題だとしたら、
また答えは違ってくるよ」
「どういう事?」
「今の俺がもし、二十六歳年上の人を好きになったら、告白するだろうな」
「意見が真逆じゃん! なに言ってんの?」
「他人じゃなくて、俺自身ならだよ。自分の事なんだから、結局は自分で責任を背負って
決めるしかない。恋愛だろうが、進路だろうが関係ないよ。真剣に心配してくれる周囲のみんなに感謝はするけど」
「簡単に言うけどさ…」
「じゃあ、霧師希さんと付き合う事に、深く考えた事ないのか?
歳が二十六も違えば、彼の方が先に老いるとか・世間の目とか・価値観の違いとか」
「あるよ! すごい考えてるよ! その上での話だって!」
「じゃあ、自分で決断した事が正しいと信じるしかない。あと、気軽さも持ちなよ。
別に付き合ったからって、結婚が決まる訳でもあるまいし」
「そりゃあ、そうだけど」
「『周囲に反対されたから・世間的の風潮とは違うから、自分の考えは選びませんでした』って、自分に納得できるのか? 恋愛とか関係無く、何事もそうだ思うよ。
周囲の助言や意見は、あくまでも参考に過ぎないんだからな」
「自分に納得か…」
慶哉は右手で頭をボリボリかきながら言った。
「お前さ、試合ならファールお構いなしに突進していくクセに、
霧師希さんが相手だと全然ダメだな」
「フットサルと同じにしないでよ」
「同じだろ? 二十六歳差の人と付き合うって、世間から見たらファールなんだよ。
でも、レッドカードではない」
そう言われて、春那は少し笑った。
「イエローかな?」
「カードは無いだろ。まぁ、カードを喰らわないようにすればいいんじゃない?
安輝野春那お得意の『プロフェッショナルファール』だ」
「アハハ、そうします」
春那は笑いながら立ち上がった。
「さぁて、練習しようかな。キャプテン、ありがとう。気持ちの整理がついたよ」
●
その日の晩、春那はスマートフォンで霧師希に連絡をした。『都合の良い日に、一日会ってほしい』という内容だった。霧師希からは、「大丈夫」という返事がすぐに帰って来た。
春那は喜びながら、こう思った。
確かに周囲の反対はある。でも、自分には霧師希と言う絶対的な味方がいる。誰に何を言われても、最終的には自分と霧師希が決める事だ。
彼なら自分を肯定してくれる。『二人の事は、二人で決めるんだ』と、心構えを固めた。
当日、自分の気持ちを伝えようと決心した。
九、もう一度会いたい
十一月二十四日の昼間。二人はショッピングモールの一階で待ち合わせをしていた。
屋内だが大きな噴水がある場所があり、そこに春那はいた。外は少し寒いのだが、中は暖房が効いており、かなり暖かい。十一時の約束だ。現在の時刻は十時三十分。まだ早い。
一方、霧師希も待ち合わせのショッピングモールに到着していた。ジャケット姿ではあったが、今回はネクタイはしていない。待ち合わせの噴水の近くに到着したのが十時四十分。
『少し早いな…』と思っていると、春那を発見した。噴水の前に立っていた。
春那はコートを脱いで、畳んで手に持っていた。髪型はストレートのセミロング。上半身は灰色で薄い長袖。下半身は細いパンツルックだ。靴は黒いローファーを履いている。
通り過ぎる人が皆、「スタイルが良い女性だな」と言わんばかりに視線を送っていた。
霧師希は春那の前に立つと言った。
「待った?」
「----え、ぜ-----ん---す」
声が小さくて聞き取れない。
「ごめん、何て言ったの?」
「『いいえ、ぜんぜん!』って言いたかったんですけど、声が出ませんでした」
「そうなんだ」
「ちゃんと言いたかったんですけどね、ちょっと憧れのセリフなんで」
「もしかして、それ言いたくて早く来てるって事ないよね?」
「ううっ…」
「アハハッ、そうなんだ」
「笑わないでくださいよぉ」
「ごめん。いや笑ったというよりは、『可愛いな』って思ったんだよ」
そう言われると、春那は照れた。
「かっ、可愛い…?」
「あの、さ…」
霧師希は、今日の春那を頭から足先まで見た。春那もそれは気付いているので、恥ずかしそうだ。霧師希は照れながら、春那の顔を見ずに言った。
「綺麗だね。大人の女性って感じがする。うん」
照れが限界に来た春那は、霧師希の腕を両手で引っ張って言った。
「も、もう行きましょう! ね?」
春那と霧師希の、初めてのデートが始まった。
まずはショッピングモールにあるフードコートで、昼食をとった。飲み物は店内で買い、
食べ物は霧師希の作ったオニギリのお弁当だ。当日、一食は霧師希の料理が食べたいという春那の希望に応えた形だ。具だくさんのオニギリと出汁巻き卵を、春那は喜んで食べた。
その後は、Fリーグの試合を見に行った。
一流選手のプレーを近くで見れて、春那は大興奮だった。
その後はスイーツが美味しいというカフェで一息ついた。そして特に目的もなく、ショッピング街をウロウロした。夕方になると、春那が行ってみたいという中華店に行き、
餃子を中心にたくさん食べた。特に春那は霧師希より食べた。
夕食を終えると、二人はセルフ式のカフェに入り、向かい合わせに座っていた。
時刻はもう二十一時を過ぎた。二人ともホットコーヒーを頼んでいる。
春那が奥のソファに座り、霧師希が手前の椅子に座っていた。
「へへーっ。霧師希さんなら、そうしてくれると思ってました」
「なんの事?」
「いーえ! こっちの話です」
春那は上機嫌だった。
「春那、ありがとう。今日は楽しかったよ」
霧師希に真顔で言われ、春那は慌てて姿勢を正した。
「いえっ、それはこちらのセリフです。
私が楽しめるような場所にばかり連れてってもらって、嬉しかったです」
「そう、なら良かった」
「はい、ありがとうございます」
「それと、大事な話もあってさ」
「私もですっ!」
「あっ、そうなの?」
「ごっ、ごめんなさい。お話をさえぎっちゃって。続けてください。私は後でいいんで」
「そう? じゃあ言うね」
少し間を空けて、覚悟を決めたような雰囲気で霧師希は話し始めた。
「教えてほしいんだけど、春那は、僕に好意をもってくれている?」
あまりにストレートに聞かれて、春那は驚きを隠せなかったが、コクリと深くうなずいた。
「そっか、ありがとうね。君がどのくらい想ってくれているかは分からないけど、
僕は春那と付き合えないんだ。それを早く伝えておいた方が良いと思ってね」
告白されると思い込んでいた春那は、落胆を隠せなかった。
力の無い、渇いた声で言った。
「あ…そっちかぁ。そっちの告白だったんですね。てっきり付き合ってくれって
言ってくれると思い込んでました。アハハ…、恥ずかしいです」
春那はうつむき、肩を落とした。霧師希は、深々と頭を下げて言った。
「本当にごめん」
「いや、謝る事じゃないんで。ハハ…。気にしないでください」
春那も霧師希も、お互いを見ないまま、動けないでいた。
数分が過ぎた頃、春那が言った。
「あの…、理由を聞いてもいいですか?」
「うん、年齢がね…。二十六歳も違うから」
「ですよね。それは分かっているので、他のをおっしゃってください」
「他って?」
「年齢以外の理由です。ありますよね?」
霧師希は驚きながら、激しく首を振った。
「無いよ、他に理由なんて」
「遠慮しなくていいんで、言ってください。知りたいです」
「本当に無いよ。美人で・性格も良くて・勉強やスポーツに懸命に打ち込んでて。
素晴らしい女性だって思っているよ」
普段の春那なら、霧師希にこう言われたら嬉しかったかもしれない。彼も本気でそう思っている。でも今の状況では、適当に言ったお世辞にしか聞こえなかった。
春那の言葉にも、イライラが込められていった。
「年齢が理由と言うのは、シキさんが二十六歳年下の女が嫌だという事ですか?」
「違うよ。僕の年齢の男と付き合っても、春那の為にならないから」
「じゃあ、私が大丈夫と言えば、問題は無いんですね?」
「いや、あるって。君の将来の為に良くないんだよ」
「あのですね…」
そう言いながら、春那は右手で後頭部をガリガリと乱暴にかいた。
綺麗なストレートヘアが乱雑になる。
「『見た目が好みじゃない・性格が嫌だ・学生が嫌だ』、なら私も納得いくんです。
それなのに年齢? じゃあ二十六歳年下の女が嫌なのかと聞いたら違うって言うし」
「いや、だからそうじゃないよ」
「言えばいいじゃん、何が嫌なのか。こっちは単に理由を聞いてるだけなんだから。
年齢で誤魔化そうとするからムカつくの」
「…」
霧師希は深くうなずいた。
「そうだね、誤魔化してたかもしれないし、言葉も足りなかった。ごめんね。
ちゃんと説明するよ」
春那は霧師希と視線を合わさず、彼の胸元あたりを見ていた。
「僕、今四十八歳なんだ。二年経ったら、五十になる。十年経ったら五十八。還暦前だ」
「またそれか…」
「なに?」
「いーえ! こちらの話! それで?」
「僕が還暦の年、君は三十四歳だ。人生で一番元気で楽しい頃だと思うよ、三十代って。
その頃の僕は、君と同じように時間を過ごせないかもしれない」
「あのっ! そもそも前提がおかしいです。それって結婚の話ですよね?
付き合ったら、結婚するって訳じゃないでしょう?
私達って、きっと好き同士だと思うんですけど!」
「うん、少なくとも僕は」
「私もです。じゃあ良いんじゃないですか?」
「けど、付き合うのはよした方がいい」
「どうして?」
「僕と付き合っている間、君は他の人と付き合おうとしないだろう?」
「あたりまえじゃん」
「その間に、年齢が近くて相性の良い男性が現れたとしても、
その出会いを逃してしまう事になる。それは君の為にならないよ」
春那は唖然として言った。
「じゃあ私は、『年齢が近くて相性の良い男性』に見初められるかもしれないから、今好きな人がいても付き合うなって事? 出会うかどうかも分からないのに? まして、私がその男を好きにならなきゃいけないの? 私の人生は私の物だよ。勝手に決めないでよ」
「そういう事じゃない。
あきらかに正しい道があるから、そっちを選んでくれって言っているんだ」
「だから! 正しいかどうかを決めるのは私なの!
あなたの言っている事は、お見合い写真を持ってきて、『お前が好きかどうかは関係ない、
とにかく結婚しろ』って言っているバカ親と一緒だよ」
「それは極端だよ」
「私だって考えがあるよ、意思があるんだよ。あなたの人形じゃない」
「そんな事思ってないって」
春那は冷たく・嫌味ったらしい口調で言った。
「もしかして、昔からそう思ってた? 私の事、言いなりになる人形みたいだって。
へぇー死にかけの子供がいるなぁ。何でも言う事聞くから面白いなぁ---」
霧師希は、歯ぎしりをしながら拳を強く握っていた。
「やめろよ---」
「お菓子作って行ったら喜んで食ってるなぁ。犬に餌付けしてるみたいだぁ。
ちょっとサッカーの話したら、真に受けて本気になってやがる。バカじゃないか---」
「やめろって言ってるだろ!」
霧師希は思わず叫んでしまい、周囲がざわついた。沢山の視線をじた二人は、黙り込んだ。
うつむいている春那が震える声で言った。
「私さ、シキさんが一番好きだったんだ」
「えっ?」
「病院では色々な人と過ごしたよ。お父さんやお母さんはもちろんだし、
看護師さんやお医者さん。同じ年頃の入院患者もいて仲良かったし。みんな好きだった。
でも、病院の中で一番好きなのはシキさんだったんだ。なぜだか分かる?」
「いや…なぜ?」
「みんな、私の将来の話をするんだよね。『こんな事がしたい』と言えば、『元気になったらしよう』って言われる。『こんな所に行きたい』と言えば、『元気になったら行こう』って。まあ仕方ないんだけどさ。悪気が無いのもわかってるし」
「うん」
「一番辛かったのは、ある看護師さんが私と親にむかって『病気が治ったら、将来が楽しみですね』って言われた事があって。『将来? じゃあ今の私は期待できないの?』って思っちゃった。当時は子供だったけどさ、明日死んじゃうかもしれないって分かってたよ。
なのにみんな将来・将来ってさ」
「…」
「でもシキさんだけが違ったんだよね。私の今を大事にしてくれた。今できない事でも、少しでも楽しさが味わえるように頑張ってくれたよね。
親や看護師さんに怒られても、諦めなくってさ。
『この人は、私の今を大事にしてくれるんだ』って。すごい嬉しかった。けど---」
「春那?」
「せっかく再会できたのに。再会したシキさんは、私の将来は心配してくれるけど、
今の私を見てくれない人になってた。
あの時のシキさんは、もういなくなっちゃったんだね」
気づけば、春那の目から涙が流れていた。涙が膝にポタポタとこぼれて濡れていた。
「私、寂しいです…。シキさんに会いたいよぉ…」
●
数日後、霧師希と牧野は工場の外横にいた。牧野は腕を組んで工場の壁にもたれいるが、霧師希はもたれず、工場の壁を背にして立っていた。牧野はため息混じりに言った。
「なるほどね。デートの後に大ゲンカですか…」
春那の詳細な言動は伝えなかったが、言い合いになった事を、大まかに伝えた。
牧野は、どんどん難しい顔になっていく。
「あのねー、そもそもなんですけど。どうしてデートしたんですか?」
霧師希は下を向いてしまった。牧野は続けた。
「あのねー、それはもう好きですよね? 楽しんでデートするなんて、最大限の好意を表現しておいて、夜の喫茶店でふられたら、そりゃあ誰だってキレるでしょうね」
「そういうものでしょうか」
「そういうものです! さらにそもそもなんですけど、
俺、デートしろなんて言ってませんよね? 結論を伝えろって言いましたよね?」
「そうですね…」
「これは恋愛がこじれてるんじゃないですよ。人との接し方を間違えているだけです」
「はい…」
牧野は深くため息をついて言った。
「俺、霧師希さんを尊敬しています。勤務態度は真面目だし、色々な仕事を覚えようとする向上心もあるし、会社全体の事を考えてくれるし。定時制高校へ通っていた時期は、
休日出勤を増やしてましたよね。そういう真剣さは素晴らしいです。感謝してます。ただ、人の気持ちが致命的に分からない事が、たまにありますよね。そこだけが残念です」
「はい、そうですよね」
「はいって…。自覚あるのですか?」
「どうしても、そういうのが苦手で」
「うーん。何とかならないの? って思ってしまいます。でも、それは霧師希さんの怠慢ではないのは、よく分かっています。とても苦しんでおられますよね?
だから俺も辛いんですよ」
「すみません」
「ふーっ」
牧野は大きなため息をつきながらしゃがみ込むと、霧師希を見上げた。
「これは俺にも責任あるんですよね。
話し合えだの・早く伝えろだの、けしかけちゃいましたから。申し訳ないです」
霧師希は慌てて両手を振った。
「いえ、いずれそういう行動をとっていたと思いますから。
牧野さんが気に病む事はないです」
「霧師希さんは十年以上、一緒に働いています。
春那ちゃんは会った事はありませんが、以前お世話になった会社の社長の娘さんです。
年齢も娘とあまり変わらないし。だから二人とも思い入れがあります。
二人にとって、良い結果になってほしいと願ってますからね」
「ありがとうございます」
三条夏美菜編に続きます。




