それでも貴方が好きでした
ふらり、と力が抜けた。
立っていることすら出来ず……その場にへたり込む。
貧血による立ち眩みとも違う、ただ全身の力がふっと抜き取られる感覚。はじめて経験するそれにエヴァは呆然と右手に嵌る指輪を眺める。
銀のリングについたピンクの宝石は淡く発光し…………やがて輝きを収めた。
「クライド……様……?」
顔を上げる動作すら重く、だけど床に両手をつきながらなんとか仰ぎ見る。
視線の先で彼は笑っていた。心から嬉しそうに。
同様に笑みを浮かべたアビゲイルがペンダントの石を摘まみ上げ、嬉しさを隠せないようにクライドへ抱き着く。
ペンダントの石はエヴァの指輪のそれと同じ色をしていた。
「悪いな、エヴァ。これで今日から彼女が聖女だ」
「ごめんなさいね、エヴァ様?でも貴女が悪いのよ?聖女の権力を使って私たちの間に割り込んできたのは貴女だもの」
「君は私に相応しくない。君との婚約は破棄させてもらう」
「聖女の役目は私がきっちりと果たすから安心して?貴女と違って国を救う役目を嫌がったりなんてしないわ」
胸に手を当てて宣言するアビゲイルは美しく、その腰を抱くクライドの表情はエヴァには向けたことのない愛しさに満ちていた。
「やっと、やっとだ。これで君と幸せになれる……」
「クライドは返してもらうわ。その代わり……過酷な旅も、聖女の役割もその名も、私が背負ってあげる。貴女には重かった全て、私が肩代わりしてあげるわ。だから許してね?」
ステンドグラスの光を受ける二人は、まるで物語の主人公のように美しかった。
「あ……ああっ……!」
言葉にならない声だけが漏れる。
クライドとアビゲイルは既にこの場を去った。
婚約者であるクライドに呼び出された時から、何かあるのだろうとは思っていた。
彼が自分を好いていないことはよくわかっていた。
この国の第二王子でもあるクライド、それに対しエヴァはしがない男爵令嬢。それでも異例の婚約がなされたのは……偏にエヴァが100年に1度の聖女だからだ。
人や生き物が死ぬと瘴気が発生する。長い長い年月をかけ瘴気が蓄積した地は汚染され、人や生き物も、その土地そのものをも蝕む。
だからこそ瘴気を払う浄化の力を持つ聖女の存在は重要だった。
瞳を閉じ、意識を集中させれば身体の奥底に感じた力。
その聖女の力がごっそりと消えていた。
力の入らない震える手で、祈るように胸の前で腕を組む。
喉から漏れる嗚咽混じりの震えた声。
止めどなく溢れる涙が、頬を、顎を伝い流れ落ちた。
それから…………呆気ないほど簡単に婚約は解消された。
元々身分違いの婚約だ、聖女の力が無くなればそうなるのは当然だった。
貴族の子息子女たちが通う学園を卒業間近だったエヴァは、周囲の噂に耐えながら一月を過ごし、卒業と同時に王都を離れ領地へと戻った。
クライドとアビゲイルはすぐに結婚したと噂は国中を巡った。
当初の予定では、エヴァは卒業後の5年間を浄化の旅立ちへの猶予期間として許されていた。浄化の旅は15年もの長い歳月をかけ、国中を巡る予定だったからだ。
だがアビゲイルは「一刻も早く民を安心させたい!」と卒業後すぐに旅立ちを決めた。第二王子であるクライドも彼女の旅に寄り添った。
聖女は精力的に各地をまわり、わずか4年ばかりで国中の浄化を終えた。
偉業を成し遂げ帰還した聖女と第二王子。
先に入籍だけを済ませていた二人は、王都の大聖堂で改めて式を挙げた。国を救った彼らの結婚式には大勢の人たちが出席し祝福をした。
誰もが慈悲深く美しい聖女を讃えた。
鳴り止まぬ拍手と祝福に包まれ、聖女アビゲイルは柔らかに微笑み手を振る。そんな彼女を支えるクライド王子。
あの日の教会よりもっと荘厳で美しいステンドグラス越しの光の下、二人は栄光と幸せに満たされていた。
かつて聖女であった少女のことなど、誰も思い出しはしなかった。
それからさらに5年近くの月日が経った。
「まさかまた、ここに戻ってくるなんて……」
カーテンをほんの少しだけ捲り、流れ去る街並みを馬車から眺める。王都の通りは相変わらず華やかで活気に満ちていた。
カーテンから手を離し、膝の上の封筒へと目を落とす。
運命を一変させたあの教会での出来事から10年弱、エヴァは再び王都を訪れていた。
皮肉にも、数奇な呼び出しによって…………。
「追い返されなければいいけれど……」
小さく呟く。
彼女が再びこの地を訪れているのは、ある依頼によるものだった。
エヴァはここ数年、豊富な薬草の知識を活かしとある治療院の手伝いをしていたのだが……その治療院の評判が王都まで届いてしまったらしい。ある高貴な筋から薬師の派遣を要請された。
そして白羽の矢が立ったのがエヴァだった。
しかもその相手というのが…………。
「お久しぶりでございます」
目を見開いた相手へと、礼を尽くし頭を下げる。息を呑む気配を感じた。
そのまま頭を下げ続けること暫し、許可を与えられ姿勢を戻す。
目の前にあるクライドの顔は相変わらず美しかった。だけど10年近くの月日と、どこか疲れが滲んでいた。
「……どうして、君が……?」
「院長は高齢でとても王都までの長旅は出来ません。副院長は先日不慮の事故で怪我をされ、代わりに指名されたのが私でした」
目を伏せ、淡々と説明する。
「君は、治療院で働いているのか?」
「3年程前からお手伝いをさせて頂いております」
「……3年前……そうか」
なにかを思案し、頷かれる。
丁度、治療院が評判になり出した時期と重なると気付いたのかもしれない。
使用人に案内され、豪華な扉の前で足を止める。
コンコンコンコン、とノックと声掛けをする侍女を眺めながら、エヴァは意外に思っていた。
自分を嫌っていたクライドに追い返されるのでは?と思っていたからだ。だが彼は使用人にエヴァをアビゲイルの元へと連れて行くように命令した。
扉の向こうから返された声に思考を止め、侍女に続き入室する。
丁寧な挨拶の後で顔を上げ……小さく息を呑んだ。声はなんとか抑えたものの、驚愕は隠しきれていないだろう。
慌てて表情を努めて消せば、ベッドの上に身を起こした相手は表情を歪めた。
「何しに来たの?」
「貴方様の治療に……」
視線をやや伏せたまま、言葉を紡ぐ。
先にクライドに説明した経緯を再び繰り返した。
「帰って……」
呟かれたそれは、怨嗟にも似た声だった。
しゃがれた声の主は、藍色の瞳をギラリと光らせエヴァを睨みつける。その瞳の色はかつて見たことがない程に激しい。
「帰りなさい!」そう口にしたアビゲイルがゴホゴホと激しく咳き込む。ヒューヒューと鳴る喉に慌てて駆け寄ったエヴァは背を撫でようと手を伸ばす。だけどその手はパシンと力ない手に弾かれた。
「触らないでっ!」
「アビゲイル様っ、落ち着いてください。誰かお水を……!」
すぐにまた苦し気に咳き込むアビゲイルを宥めつつ声をあげる。
痩せ細った背中を何度も撫でる。
咳き込む喉も、寝間着から覗く手も筋が浮く程に肉が落ちていた。艶やかだった巻き毛はパサパサに乾き、白いものも目立つ。頬や首、手の甲の肌が爛れていた。骨に皮を張り付けたような顔に瞳だけが幽鬼のようにギラギラと光っている。
かつての美しかった姿は、微塵も残っていなかった。
「いらないったらっ!」
薬の入った椀をひっくり返され、シーツと服が緑色に染まる。癇癪を起すアビゲイルを、侍女たちは宥めつつどこか遠巻きに対応していた。
きっとよくあることなのだろう、椀が木製なのも破片で怪我をしないためか。
汚れた服にも構わず、エヴァは再び調剤に取り掛かる。
生薬を刻む為、ベッドから離れたテーブルへと移動したエヴァをアビゲイルが憎々し気に睨みつけていた。飛んで来た柔らかなクッションがテーブルの手前で落ちる。
「いい気味だ、って思っているんでしょう?」
放たれた言葉に目を見開き「いいえ」と首を振った。
何を言っても、言葉を発するだけでアビゲイルの気に障ってしまうことはここ数日の経験で知っていた。だからなるべく口数を減らしていたのだが、これには否定せざるを得なかった。
「そんなことありませんっ」
「嘘よ」
否定の言葉を遮るように鋭く放たれた声。
だけどその声はすぐに痛みを堪える呻きに変わった。慌てて駆け寄る。
もがく身体を背もたれのクッションに横たえようとすると腕を掴まれた。喰い込む爪に血が滲む。
「……嘘」
「いいえ、嘘ではありません」
痛みに耐え、目を逸らさずにそう告げた。
見つめ合う翠と藍の瞳。先に逸らされたのは、アビゲイルの藍の瞳だった。
丁寧にその身を横たえ、薬を手に彼女の元へと戻る。
その手には木の椀ともう一つ、小さな小皿が握られていた。
「お薬が苦いでしょうから、砂糖菓子を用意して頂きました。どうか、お飲みください。痛みが少しは治まるはずです」
身体を支え、もう片方の手でそっと口元に椀を近づける。今度は口にしてくれたことに、ほっと安堵の息を漏らせば、アビゲイルの細い眉が歪んだ。
「すみません、どうしても苦味を抑えることが出来ず……」
謝罪をしながら砂糖菓子を差し出せば、益々眉が歪んだ。枯れ枝のような指が菓子を摘み上げる。
「……なんで」
渇いた唇から漏れたその言葉は、飲み物の用意を頼んでいたエヴァの耳には届かなかった。
それは約束の期限を終え、エヴァが王都を去る前の日。
「どうぞ、アビゲイル様」
「ありがとう」
手渡された椀を受け取り、アビゲイルがお礼を告げる。
濃い緑の液体に口をつければ、やはり眉根が寄って……だけど砂糖菓子の甘さに表情が微かに緩む。
彼女の治療に当たること二週間あまり、当初に比べるとその態度は驚くほどに軟化していた。
罵倒され、殴られ、物を投げつけられ、それでもエヴァは懸命にアビゲイルに尽くした。文句も言わず癇癪を受け止め、何度だって薬を煎じ、アビゲイルが吐き戻した汚物に塗れようと細い背を撫で続けた。
「今日は少しお顔の色が良い気がします」
「ええ、呼吸も痛みもだいぶいいわ」
「良かった」
柔らかな安堵の笑みがエヴァの顔に浮かんだ。
「庭園に綺麗なお花が咲いていたんです。お部屋に活けて頂きましょうか?彩りがあると気分も明るくなるかもしれません。それとも甘いものでも用意して頂きますか?」
弾んだ声で提案すれば、何故かアビゲイルは哀しそうに表情を伏せた。
何か気に障ることを言ってしまっただろうかと焦るエヴァの前で、再び顔をあげた彼女は使用人たちへと告げる。
「少し外しなさい」
人払いをした後で、アビゲイルは姿勢を正し真っすぐにエヴァを見た。
ベッドに身を起こす彼女は相変わらず変わり果てた姿だ。だけど真っすぐな姿勢と眼差しに、ほんの少しかつての面影が宿る。
美しく自信に溢れ、誰よりも光り輝いていた女性。
そんな女性が頭を下げていた。
「……ごめんなさい」
色味が抜け、パサついた髪の間から覗く頬には涙が伝っていた。ぽたぽた、ぽたぽたと雫がシーツを濡らす。
「どこか痛いのですか?!すぐ鎮痛剤を、誰か……」
「エヴァ様」
突然のことに慌てふためき、頭を上げさせようとするエヴァの腕に手が重なる。力を籠められた手は、以前のように爪を立てるためではなく、その行動を留めるため。
「私はっ……エヴァ様から全てを奪った。聖女の力も、その称号も栄誉も……クライドも……。幸せだった。彼に愛されて、聖女として沢山の人から讃えられて……いつしか忘れていたわ。それが、貴女から奪ったものだってこと……」
「アビゲイル様?」
唐突に泣きはじめたアビゲイルにエヴァは困惑していた。
「バチが当たったのよ」
「……バチ?」
「聖女を騙った罪の、ね」
皺と筋だらけの首筋に光る銀の鎖、その先でピンクの宝石が輝く。
そのペンダントを眺めながら、恐る恐る尋ねた。
「アビゲイル様は…………後悔、してらっしゃるのですか?」
質問に返されたのは、言葉ではなく淡い笑みだけ。
消えてしまいそうなそれに、胸を締め付けられて腕を伸ばした。王族の一員でもある方に無礼なのはわかっていたけど、感情のままに抱きしめる。痩せ細った身体は、切ない程に頼りなかった。
「この国を、民をお救い下さったこと……心より感謝いたしますっ。民の安寧を想い、この地を癒し、全ての者に未来を与えて下さったのはアビゲイル様です。貴女様に深い感謝と尊敬を……。聖女アビゲイル様のお身体とお心が、少しでも安らかでありますように……そう、お祈りしております」
いつしかエヴァの瞳からも涙が溢れていた。
零れ落ちた涙がピンクの宝石を濡らす。
「私を、家族を、大切な人たちを……守ってくれて有難う、ございます……」
絞り出されるその声に、嘘は無かった。
最後の挨拶を交わし、去って行く背中。
閉まる扉をアビゲイルはベッドの上から見つめる。
もう一人ではまともに歩くことも出来ない。時折クライドや誰かの訪れを待つこの部屋だけが彼女の世界と言っても過言ではなかった。
白髪交じりの髪、皮膚の至る所が赤黒く爛れた肌。老婆の様にハリを失った身体。
「これが……聖女を貶め、騙った罰……」
皺だらけの手の甲に目を落とし、小さく呟く。
浄化の旅を終えたあの時、アビゲイルの人生は誰よりも輝いていた。
だけどそれから2、3年すると徐々に異変が出始めた。まずは強い倦怠感、頭痛、骨が軋むような痛み。王宮の医師たちがどれほど手を尽くそうと改善はせず、いまではこの有り様だった。エヴァの治療により今は多少はマシだが、それだって所詮は一時しのぎだ。
きっと一生このまま……。
頬から一筋の涙を流し、アビゲイルは胸元のペンダントを握りしめた。
エヴァはクライドの斜め後ろを歩いていた。
並んで歩くというには距離がある微妙な距離感。それは婚約者時代からそうだった。
「最近はアビゲイルの体調もだいぶ良いようだ。君のお陰だ、礼を言う」
「とんでもないことでございます。ですが、ほんの少しでも痛みが和らいだなら良かったです」
二人はいま城の庭園を歩いていた。アビゲイルの部屋を去ったあと、クライドに声をかけられたのだ。彼に会うのは初日に短い会話を交わして以来だった。
「驚いただろう?」
不意に問われ、答えに惑う。
質問の先がわからなかった。
それはアビゲイルのことか、それとも…………。
「アレジオのことだ」
エヴァの困惑を読み取ったクライドが苦笑いを浮かべ口にした。それに「はい」と小さく答える、それから「でも、納得しました」とも。
先程、エヴァの前に現れたクライドはとある男性を連れていた。
身なりは見違える程に違っていたが、彼はかつて実家の男爵家で働いていた使用人だ。ちょうど……エヴァが王都から領地に戻った後に雇われ、結婚し嫁ぐ頃に辞めた筈。
要するにアレジオはクライドが寄越した監視だったのだろう。
エヴァが彼らに不利なことを、すなわち「聖女の力を盗まれた」と声を上げないかを見張るための。
あるいは……その場合には手を打つための……。
「相変わらずだな」
「え?」
足を止め、振り返ったクライドにパチリと瞬く。
「エヴァは……いや、ゴーシェ夫人と呼ぶべきか。君は何をされても怒らない」
彼女の名を口にしたクライドは、左手に控えめに輝く指輪を目に止め微かに首を振った。あの日、聖女の力を奪う指輪を嵌めた指にはシンプルな結婚指輪が光っていた。
ふっ……と息を吐くようにエヴァは微笑った。
困ったような、泣き笑いのような、取り繕うようなそんな笑みで。かつてのように淡く微笑む。
「怒れる立場にはおりません」
彼が言いたいのは何のことだろう?
王妃様に疎まれ、生まれや育ちを貶されたこと?教育だと、何度も扇子を振り下ろされたこと?クライド様に冷たくされたこと?アビゲイル様に笑われたこと?周囲の侮蔑や揶揄い?婚約破棄後も密かに監視をつけられていたこと?
それとも――――――聖女の力を奪われたことだろうか?
「怒る理由もありませんから」
どれも仕方のないことだとすら思う。
だって自分はただの男爵令嬢で、令嬢としての能力も才能も、聖女としての誇りすらなかった。そんな娘が王子との結婚を望んだのだ。
想い出す程に、いつか瓦解して当然だった。
左手の指輪に触れた。ほんのりと冷たく、確かな手応えに唇が綻んだ。
「きっと元々、相応しくなかったんです。私には“聖女”も“クライド様”も。婚約が破棄になったことは悲しくなかったと言えば嘘になります。でも、あのままクライド様と結婚してもきっと誰も幸せになれなかった」
もしもの未来を想像して……自然と震える身体を両腕で抱きしめた。
「私……こんな風に幸せになれるなんて、思ってもみなかった。優しくて穏やかな夫と出会えました。可愛い我が子にも恵まれました。全部、全部アビゲイル様たちのお陰です」
今、エヴァは心の底から幸せだった。
自分を愛してくれる家族。ささやかで、この上ない幸福。
今日だって夫と子どもがわざわざ迎えに来てくれるのだ。
つい先日届いた手紙には「帰ってくるのが待ちきれない」と王都観光がてら迎えに来てくれる旨が綴られていた。大切な彼らを想うたび……胸が温かくなり、そして感謝の気持ちでいっぱいになる。
腕を抱いていた手を胸の前で組んだ。
「アビゲイル様が瘴気からこの国を救ってくださった。私の家族を、大切な人たちを、この国の未来を守ってくださった。どれだけ感謝しても足りません」
そよぐ風にエヴァの蜂蜜色の髪が揺れた。
手を組み、感謝を捧げる姿は……まるで神に祈りを捧げる敬虔な使徒のよう。
――――これが『聖女』というものなのか。
そんなことを想いながらクライドは眩しさに瞳を細める。
それはいっそ畏怖にも似た感情だった。
領地へ帰ったエヴァの元へアレジオを送り込んだクライドだから知っていた。
彼女が一度もあの件について声を上げなかったことを。二人のことを責めるどころか、愚痴や恨み言の一つも零さなかったことを。浄化の旅を巡るアビゲイルたちの無事を日々祈り続けたことを。
旅の最中に届くその報告を見る度、とても信じられなかった。
「恨みはないのか?」
「ありません」
どこか諦観を含んだ問いへ返される迷いのない答え。
あの日の後悔を受け入れるように、クライドは一度強く瞳を閉じた。一生続くだろう後悔を胸に、背を正し頭を下げた。
「色々と、すまなかった」
「なっ、あ、頭をお上げくださいっ!!」
慌てたエヴァがあたふたと狼狽える。
忙しく表情を変えるその顔に、今までこうして正面から向き合ったことすら殆どなかったことを思い知った。
庭園を歩きながら、ポツリポツリと会話を交わす。
咲き誇る季節の花々を眺めながら歩く時間は穏やかだった。婚約者時代にさえこんな風に話をしたことはなかっただろう。
そのことに思い至り、エヴァの口元に淡い笑みが浮かぶ。
過去を懐かしむ寂し気な、だけど吹っ切れた笑み。
薔薇のアーチの向こう、遠目に城門が目に入りエヴァは足を止めた。
「ここで大丈夫です。送ってくださりありがとうございました」
お礼を告げれば、曖昧に笑みを浮かべるクライドの顔を少しだけ見つめる。
王族らしい美しい容姿。かつて好きだった人……。
薬剤の調剤は王宮の医師らに伝えた、元々エヴァが今回王都に訪れたのはイレギュラーだ。もしかしたらもう二度と会うことのないかも知れない相手へと丁寧に頭を下げる。
「身の程知らずにも、クライド様との結婚を望んだこと……申し訳ありませんでした。でも……たとえ束の間でも、貴方の婚約者になれて……幸せでした」
ずっと謝りたいと思っていた。
田舎貴族だったエヴァはクライドとアビゲイルの仲を知らなかった。
王から望みを問われ……思いつくままに口にしただけ。だけど結果、彼の意志を無視したことにはかわりない。
目を丸くしたクライドは、ほんの少し照れたのを誤魔化すように視線を逸らしながら「何故、私を選んだんだ?」と軽い調子で口にした。
てっきり一目惚れだの、王族だからと返事が返ってくると思っていたのに、エヴァは切なそうな笑みを浮かべて「初恋、だったので」と囁いた。
その声の調子に驚くクライドの前で、今度はエヴァが照れ隠しのように視線を逸らす。一歩、二歩と前へと進み、クライドに背を向ける形でそっと花へと手を伸ばした。
「……クライド様はきっと覚えていないでしょう。だけど昔、小さい頃に一度だけお会いしたことがあったんです。初めて来た王城で父とはぐれ迷ってしまった時でした。お庭の随分奥まで行ってしまって……周囲には誰も居なかった。少し前に母を亡くしたばかりなこともあり、幼い私はまるでこの世界に一人っきりになってしまったような不安に泣いていました」
そこへ現れたのがクライドだった。
まるで王子様のようだと思った男の子が、本当に王子様だなんて夢にも思わなかった。
「ある日、突然騎士様が来て私が聖女だとお城に連れていかれました。怖かった、嫌だった。だけど……私が役目を果たさなければ、沢山の人たちが瘴気に蝕まれ亡くなると言われて……逃げることも出来なかった」
聖女になるのは怖かった。
だけど自分の所為で家族や友人、沢山の人が死ぬなんて耐えられる筈もなかった。
だから……嫌々自分の運命を引き受けた。
学園を卒業し、浄化の旅に出るまでの五年間は……エヴァに与えられた「エヴァとして生きる」最後の猶予期間だった。
まるで死刑執行を待つ罪人の気分でエヴァは日々を生きていた。
「お城で……あの日、迷子の私を助けてくれた男の子を見つけました。王様に望みを問われて、私はクライド様を望みました。聖女として人生を捧げる代償に、名前すら知らなかった貴方を望んだんです。貴方が居れば…………耐えられるんじゃないかって、そう思ったから……」
つん、と花を優しく突くエヴァの指の先で花弁が小さく揺れる。
香りを嗅ぐように顔をそっと花へ近づける後姿を見ながら、クライドはかつての婚約者を想い出していた。
ビクビクと周囲の言葉や視線に怯える少女、自信なさげに俯き、困った様に取り繕う笑顔。
てっきり顔や身分に引かれたのだと思っていた彼女が、そんなひたむきに自分を慕っていたのだとは思いもしなかった。
恋をしていた相手だというのなら、尚更かつての自分たちの振舞いは冷酷だったのではないか…………そんなことを想いかけたクライドの思考は、次のエヴァの言葉に止まった。
「穢れを引き受ける苦しみにも、耐えられるんじゃないかって」
「え?」と発したつもりの声は音にならなかった。
「長く過酷な旅の末に、その身に溜まった穢れに侵され、一生痛みと苦しみに耐えながら生きていく……。それがこの国の為だってわかっていても、私はアビゲイル様のように強く高潔な覚悟は持てなかったんです」
あの日、あの教会で……エヴァは涙した。
決して逃れられないと思っていた、聖女の運命から解き放たれたことに歓喜して涙を零した。
エヴァの代わりに「全てを背負って」くれるアビゲイルに、指輪を嵌めたクライドに心の底から感謝を捧げたのだ。
一方、クライドの頭の中はまっ白だった。
表情は凍り付き、声も出ない彼に背を向けたエヴァは気づかない。
聖女が穢れを引き受ける――――――?
一生、痛みと苦しみに耐えながら?
エヴァはそれを知っていた?だからこそあんなにも聖女であることを嘆いていたと?
グルグルと思考だけが取り留めなく回る。
呆然と見開いた瞳に人影が映った。城門の方から歩いてくる大人と子ども、子どもの方が大きく手を振る姿に彼らの方を見たエヴァの横顔が綻ぶ。
幸せそうに振り返す手に、あの日の魔道具とは違う指輪が光った。
エヴァの力を奪い、聖女となったアビゲイル。
ならば今のアビゲイルのあの症状は……聖女の力を奪い、貶めた天罰でもなんでもなく―――――。
『全部、全部アビゲイル様たちのお陰です』
脳裏に晴れやかな笑顔と声が木霊した。
心の底からアビゲイルに感謝と尊敬を抱いているエヴァ。
彼女は私たちがそれを知らないのを知らなかった?
そうして唐突に思い出す。
自分を溺愛してくれていた母である王妃がエヴァを毛嫌いしていたことを。アビゲイルが聖女となったことを告げた日、酷く狼狽を見せたことを。卒業後すぐに、早めに旅を終わらせることを提案したのが母だったことを――――――。
ひゅっ……と喉が鳴った。
目を細め、クライドへと振り向いたエヴァが吹き抜ける風に前髪を押える。
驚き過ぎて驚愕の表情すら作れない彼に気づかぬまま、柔らかな笑みで微笑んだ。
妻であり、母であることを感じさせる慈愛に満ちた微笑み。淡い色の髪を風に揺らし、眩しそうに瞳を細めた微笑みのままエヴァは告げた。
「叶うことのない初恋だったけど……ずっと貴方が好きでした」
近づいてくる夫と子どもに聞こえないように、小さな秘密を打ち明けるように過去の淡い恋を囁く。
少女のように、酷く無邪気に。
「だって」
風に乗る声が、そっとクライドにだけ囁きを届ける。
「貴方はいつだって、私を救ってくれたから」
お読み頂きありがとうございました。
純愛風のタイトルと見せかけて……微ホラー?な読後感を目指しました。
エヴァ……重責に向き合う覚悟も、逃げ出す覚悟もなかったごく普通の少女。本気でアビゲイルを尊敬してます。まさかそんな重要なことがクライドに知らされてないなんて思ってもみない。
クライド……当事者なのに重要事項を知らされてなかった。なので余計にエヴァのことを聖女の権力を振りかざしたくせに役目に向き合わないなんて……と不満があった。
アビゲイル……自業自得とはいえ、ある意味一番の被害者さん。高位貴族らしい傲慢さはあるけど、根っからの悪い子じゃないのでちょっと可哀そう。とっととクライドと婚約しとけば良かったのに……。
王妃……一番の元凶。溺愛する第二王子の婚約者が男爵令嬢なことが不満だった。なのでエヴァが大事にされるのが気にいらなくて聖女のリスクを伝えなかった。王たちには「クライドには私から伝えます」って言ってた。
エヴァと入れ替えにアビゲイルが聖女となった時点で王たちも事情に気づいたし、王妃は超焦ったけど、聖女の力の譲渡はそう何度も出来るものじゃないのでアビゲイルを生贄に。途中で聖女の役目を放棄されても困るので、身体に影響が出る前に即行で役目を終わらせようとそそのかした形です。
この後、真実を知ったクライドたちと親子喧嘩勃発ですね……。




