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婚約破棄された測量士令嬢、持参金の土地を正しく測ったら王国の命綱でした

作者: 百鬼清風

 夜会服の裾が磨かれた床にさざめく。天井から吊られた無数の燭台が、磨かれた石柱に金の光を散らし、楽団がゆるやかなワルツを奏でていた。私は――アメリア・セラフィーニは、胸元に差した短い鉛筆の重みを指先で確かめる。測量士のくせが抜けない。式典用のクラッチには、薄い羊皮紙のメモも入っている。本当は定規も持ち込みたかったけれど、さすがにドレスのラインが台無しになってしまう。


 今日は私とアレッサンドロ・ヴィスコンティ殿下の婚約披露舞踏会だ。ヴァレリア王国の王太子。長いまつげ、きれいな横顔。礼法の教本に載っているような完璧な微笑み。小さい頃、父に連れられて王都へ出たとき、遠目に拝見して「絵から抜け出した王子様だ」と思った。十数年経っても、その感想はほとんど変わらない。変わったのは、私が「王子様に憧れる少女」ではなく、「境界と傾斜を読む職人」になったことくらい。


「アメリア嬢、素敵なドレスだわ」

「まあ、ありがとうございます」


 貴婦人が笑顔で私を褒め、続けて小声で囁く。


「でもねえ、“測量士”だなんて。殿下はよくお許しになったこと」


「仕事は仕事です。私には私の地平がありますから」


 私は笑って返す。棘は含まない、つもり。社交の言葉と、現地の測量標識は、似ている。必要なときにだけ意味を持ち、風が吹けば簡単に倒れる。倒れないように、心の杭を深く打っておく。


 やがて、司儀の金の杖が床を叩いた。音楽が止み、視線が一斉に壇上へ向かう。アレッサンドロ殿下が一歩進み出る。光の中に立つ彼は、私の記憶どおり美しかった。いや、記憶以上だった。だからこそ、次の言葉が、余計に冷たく響いたのだろう。


「本日を以て、我はアメリア・セラフィーニ嬢との婚約を解消する」


 大広間の空気が、一拍遅れて凍る。耳の奥で、測量用の糸がぴんと張る音がした気がした。私は深く息を吸い、吐く。胸の内側で、数字が並ぶ。角度、距離、見渡す人の数。ざっと四百。噂になるまでに要する時間、二時間。王都の外縁へ拡散するまで半日。


「殿下?」司儀が青ざめている。「それは……正式な……?」


「正式だ」殿下の声は澄み、よく通った。「彼女の持参金である土地は、近年の調査により“荒地”と判明した。王家として、国民に対し無益な結びつきを続けるわけにはいかない」


 ざわめきが大きくなる。肘で私の背中を小突くような視線が、幾重にも重なる。


「まあ」「やっぱりね」「職人肌ですって」「女が外で働くなんて」


 私は一歩進み出た。膝は震えていない。踵が床に触れる感触――硬い大理石。わずかに左へ傾斜。掃き清められた表面に、斜めの微かな擦り傷。きっと楽団の搬入でついた痕。そんな無駄な観察が、私を落ち着かせる。仕事は私を裏切らない。裏切るのは、いつだって人だ。


「殿下」私は笑顔を保った。「“近年の調査”とは、どなたのものをご覧になったのです?」


「王都土木局の報告だ」殿下は即答する。「地質が悪く、地下水も乏しい。耕作には適さず、交通路も遠い。無価値だ」


「そうですか」


 私はクラッチから、折り畳んだ羊皮紙を一枚取り出した。ぎりぎりまで迷った。これをここで見せるべきか。けれど、殿下が“今日”を選んだのなら、私もまた“今日”を選ぶ。


「土木局の測点は旧式です。基準杭が何度もずれている。もともと私の持参金の土地は、正式測量が施されていません」


 私は会場の一角――装飾の柱の根元を指さした。そこに、誰も気づかないほど小さな黒い点がある。昨日、挨拶のために会場準備を下見した際に見つけた。古い墨の跡。王都が初めて等高線図を作った頃の、職人のしわざ。


「王都の測基線は、ここから南南西へ一・四度ずれています。古い杭の狂いが、そのまま最新図に流用されている。私の土地は“荒地”ではありません。“白地”です。つまり――“未確定”。価値を判定するための正式測量が、まだ一度も行われていない」


 静寂。私は羊皮紙を開く。そこには、私の手で引いた仮の網目――仮測の格子と、湧水の推定ライン。会場の誰かが、小さく息を呑んだ。


「セラフィーニ嬢」冷たい女の声。殿下の後ろに立つ、薄紫のドレスの貴婦人――カタリーナ・フェルメール。近衛長官の娘。最近、殿下と並んでいる姿をよく見かける。噂の“新しい婚約者候補”。彼女は上唇で笑った。「あなたの落書きに、王家の判断が左右されるとお思い?」


「落書きではありません。仮測です。正式な測量は、承認と器材、そして人員が要ります」


「それを、あなたが?」


「ええ。わたしは測量士ですから」


 笑いが起きる。けれど、笑い声のいくつかは途中で止まった。近くの将校が私の羊皮紙を覗き込み、眉根を寄せる。


「待て。……この“湧水域”の推定、王都の上水路と重なるぞ」


「重なります」私は頷く。「王都の上水は近年、流量が不安定です。皆さまも感じておられるでしょう? 噴水の勢いが落ち、庭園の芝が乾きやすい。理由は単純です。古い導水路が浅い。もし、このラインで深層の水脈が走っているのなら――」


 私は言葉を切った。言い切ってしまえば、ここで殿下の顔を潰す。潰された顔は、二度と同じ形には戻らない。


 殿下の横顔が、わずかに硬くなる。「詭弁だ。王都の上水は王家の監督下にある。お前一人の素人測量で何が分かる」


「素人、ですか」

「そうだ。女の道楽が」


 踵の下の大理石が、少し冷たく感じられた。私は深く礼をした。礼の角度は、教本どおりに。


「では、殿下。正式に申請いたします。明日、王国水利局と土木局に、私の持参金の土地――サン・ルーカの原の正式測量を願い出ます。基準杭を打ち直し、三角点を取り、傾斜と深度を測り、地下の音を聴きます」


「地下の音?」


 思わず、といったふうに殿下が繰り返した。私は顔を上げる。


「井戸掘りの職人は、地面に耳を当てます。けれど、私たちは地面に耳を当てるだけではありません。地中の空洞に響く“遅い音”を拾う器具があります。深層の水は、乾いた土とは違う仕方で響くのです。学者たちはそれを“水走り”と呼びます」


 私の背後で、乾いた声がした。


「セラフィーニ嬢。妄言はほどほどに」


 私が振り向くと、銀の肩章を輝かせた男が立っていた。背は高く、日焼けした肌、短い髪。軍の人間だ。目が真面目で、まっすぐすぎる視線をしている。


「妄言、ですか?」


「私は辺境軍のエドガルド・ロッシだ。王都の給水が不安定なのは承知している。だが、その原因が“深層水の乱れ”であると断言するのは――」


「断言はしていません。だから測るのです」


 私は彼の目を見返す。軍人の目は、地形図みたいだ。起伏がはっきりしていて、陰影が読み取りやすい。


「……測れば、分かるのか」


「測れば、分かります」


 沈黙。大広間のあちこちで、押し殺したささやきが波立っている。殿下は唇を引き結び、やがて司儀に目配せをした。


「式は続ける。婚約破棄は正式だ。セラフィーニ嬢、退場を」


 私は胸に手を当て、礼をした。足を踏み出すと、裾のビーズが細かく触れ合い、微かな音を立てた。楽団が、壊れた歯車のように一瞬遅れて演奏を再開する。私は背筋を伸ばし、会場を後にした。


 廊下の冷気が肌を撫で、胸の奥の炎を静める。踵の音が規則的に響く。五歩で一呼吸、十歩で一息。角を曲がったところで、影が動いた。


「セラフィーニ嬢」


 さきほどの軍人――エドガルドが、私を呼び止めていた。近くで見ると、まぶたの縁に風の細かな傷が走っている。外の仕事をする人間の目だ。


「あなたの話――あれは、虚勢ではないのだな」


「虚勢にしては、あまりに地味でしょう?」


 彼はわずかに口元を緩めた。笑顔、というより、頬の筋肉が“了承”と答える動き。


「もし、あなたの言うとおりなら、王都は危機だ。いや、国そのものが」


「だから、測ります」


「人手が要る。器材も。王家は許さないだろう」


「許可は法で取れます。水利局の定めは、婚姻や身分の上にあります。洪水や渇水は、誰にも従いませんから」


「……そうだな」


 彼は一歩近づいた。ほのかに革と油の匂いがする。馬具の匂いだ。


「明朝、城門の外で待つ。私の部下を数名連れていく。護衛と、手伝いだ」


「殿下のお立場は?」


「私は王に忠誠を誓っている。王太子個人ではない」


 淡々とした声。私はうっかり、笑いそうになった。危うく笑ってしまうところだった。危険な夜に、危険な人と、危険な約束。


「ありがとうございます、ロッシ殿。助かります」


「もう一つ」


「はい?」


「あなたは、今夜泣かないのか」


 私は少し考えた。泣くべきかどうかを考えるなんて、変だ。でも、考えてしまったのだ。


「……泣くのは、杭を打ってからにします」


「杭?」


「測量の杭です。境界線を決めるための。杭がなければ、何も始まりません」


 エドガルドは短く息を吐き、それから真っ直ぐに私を見た。


「セラフィーニ嬢。あなたは強い」


「強く見えるだけです。仕事に寄りかかっているだけ」


「寄りかかる相手としては、良い仕事だ」


 彼は敬礼に似た仕草で頭を下げ、背を向けた。私はその背中を見送り、握りしめたクラッチの角で指が痛いことに気づく。指の腹に、薄く汗。舞踏会の音の残響が遠くからついてくる。私は深呼吸し、歩き出した。


 夜の王都は、夏の匂いが強かった。石畳は昼の熱をまだ抱いていて、路地の奥からはパンを焼く匂いと、どこかの井戸の湿った風が混じって漂ってくる。私は空を見上げる。星の並び方で、方向感覚をたしかめる。測量士は、夜でも迷わない。


 家へ向かう道の途中、私はふと立ち止まった。王宮の尖塔が、闇に黒く浮かんでいる。あの中で、殿下は新しい誰かと踊っているのだろうか。私の代わりに、殿下の肩に手を置いた誰か。殿下の視線は、彼女を真っすぐ見ているだろうか。私の顔を通り越して、いつも遠くを見ているようだったあの目は、やっと隣を見ることを覚えただろうか。


 分からない。分からないから、測るのだ。


 私は空気を吸い込む。明日、杭を打つ。基準点を決める。地面の中を、確かめる。王宮の灯りが遠のいていく。足音が、私一人の境界線を引く。


 ――婚約は終わった。

 だが、私の仕事はここから始まる。

 そして、王国の“命綱”がどこにあるのかを、私は知っている。まだ誰も知らない線の上に、私は最初の杭を打つのだ。



 翌朝の空気は、夜とは違う種類の冷たさだった。湿度の少ない風が頬を撫で、雲の影が石畳の上を静かに流れていく。私は城門の外、約束の場所に立っていた。深呼吸を一度。息が思ったよりも軽い。泣かなかったせいかもしれない。泣かないぶん、胸の奥に何かが沈殿している気がする。重くて、でも沈み切らず、浮かびもせず——測れない感情は、扱いに困る。


 だが、杭は測れる。角度も距離も重さも。だから仕事を始められる。


「来たか、セラフィーニ嬢」


 低い声がした。エドガルド・ロッシ。濃紺の軍装に外套を羽織り、馬を連れて立っていた。その背後には、軍の部下らしき男たちが三人。誰もが無駄のない荷物を背負い、武器と測量器具を両方積んでいる。軍の荷馬車には、見慣れた形の三脚や水準器、巻尺——そして、革箱に収められた音響探査器まで。


「本当に、用意してくださったんですね」


「ああ。王都の給水は軍の補給線と直結している。君の話が真実なら、これは“軍事案件”だ」


 こういうところが、軍人は分かりやすくて助かる。水が止まれば兵も止まる。兵が止まれば国が死ぬ。それだけの話。


「ただし、一つだけ確認を」


「はい」


「君は“王太子を貶めるため”に測るのではなく、“土地の真価を知るため”に測るのだな?」


 その問いには即答できた。


「もちろんです。測量士は、敵も味方も、地面も空気も、すべて同じ距離で扱います。仕事に嘘は交ぜません」


 エドガルドは、それで十分だと言うように頷いた。


「ならば、我々は君の杭になる」


「杭、ですか?」


「地図は信頼できる基準がなければ意味を成さない。君が線を引くなら、我々は揺れない点でいよう」


 ……そう言われると、少し泣きそうになるじゃないか。


「ロッシ殿、そういう台詞は、あまり不用意に言わないでください」


「なぜだ?」


「測量士は、杭を打つと情が移るんです。地形にも、人にも」


「悪いことではない」


「悪いことにもなります。杭は、抜くときがいちばん痛い」


 私がそう言うと、彼は少しだけ目を細めた。笑ったような、呆れたような、遠くを見るような——そのどれでもあるような表情だった。


「なら、抜かずに済む杭であればいい」


「ロッシ殿、それはあまりにも不器用な口説き文句です」


「口説いたつもりはない」


「その自覚のなさが、一番危険なんです」


 軽く笑い合ったあと、私たちは馬車に乗り込み、王都を出た。測るべき土地——サン・ルーカの原は、王都から東へ半日ほどの丘陵地帯に広がる。昨日、婚約破棄の場で「荒地」と言われた場所だ。だが私は知っている。“荒地”と“未開”は違う。測っていないだけの土地に、価値がないと決めつけるのは、数学の証明を「紙が汚い」で破り捨てるようなものだ。


 正午、私たちは現地に到着した。草原と低木と、緩やかな丘の連なり。だが、足を一歩踏み出した瞬間、私は確信した。


「……やっぱり、湿気が違う」


 空気の重さが、ほんのわずかに沈んでいる。熱ではない。水の粒子の重さだ。この地下に、何かがある。


「セラフィーニ嬢、まずは何をする?」


「基準杭を打ちます。三角点の候補を二カ所——それから、水平方向の測距。次に、音響探査」


 私は革袋から三角点用の短杭を取り出した。スチールの頭が光る。ハンマーを握り、地面に打ち込む。打撃音が大地を伝って返ってくる。


 ――コン、コ……ン、コ、ン。


「……響きが浅いな」


 エドガルドが言う。私は頷いた。


「表層が乾いているから。でも、少し離れた南斜面、あそこは音が違うはずです」


 歩く。草を踏む。影が揺れる。風の向きが変わると、ほんのり湿った香りが鼻をくすぐる。そこに第二杭を打つ。


 ――コン、ゴン……ン、ゴン。


「深いな」


「ええ。空洞がある。土ではない響き。水か、空洞です」


 探査器を地面に伏せ、音を拾う。機械の上で針が震え、ゆっくり右へ振れた。私はそれを見て、息を飲む。


「……やっぱり、地下水脈です。それも、かなり大きい。地図に載っていないタイプの、深層走行水」


「つまり?」


「王都の井戸を満たしているのは、この水かもしれません。もしそうなら——」


「もしそうなら?」


「王都の命綱を押さえているのは、私の持参金の土地、ということになります」


 風が止まった。軍人たちは顔を見合わせ、唾を飲み込むような音が聞こえた。


「……セラフィーニ嬢」


「はい」


「王太子は、こんなものを捨てたのか」


「ええ。測らずに捨てたんです」


「愚かだな」


「測量士からすれば、そうです。でも、殿下にとって必要なのは“価値”ではなく“体裁”だったのでしょう」


 私は杭に触れた。ひんやりした金属の温度。叩き、打ち立てた杭は揺れない。基準は、ここにある。


「さあ、これで申請できます。今日中に水利局へ提出すれば、最短で一週間以内に正式測量隊が動くはずです」


「王家が妨害するかもしれん」


「妨害するなら、“王家が水を止めた”という記録が残ります」


「……恐ろしい女だ」


「測量士ですから」


 エドガルドはふっと笑い、それからまっすぐにこちらを見た。


「セラフィーニ嬢。君に必要なのは、護衛ではなく味方だな」


「できれば、居てくれると助かります」


「では、味方になろう。杭が抜けるまで」


 ——また、そんな台詞を言う。


「ロッシ殿。それ以上言われると、本当に泣きますよ?」


「泣けばいい。泣きながら杭を打てばいい」


「……軍人は本当に不器用で困ります」


「測量士もな」


 私は、笑うしかなかった。


 杭は二本打った。これで三角測量ができる。距離を測り、角度を測れば、水脈の正確な位置と形が地図に落ちる。そこからが本番だ。地図は事実を暴く。事実は誰も殺さないが、真実は人を破滅させる。


 王太子はまだ知らない。彼が捨てたものが“荒地”ではなく、“国を潤す唯一の地下水脈の鍵”であることを。


 私は軽く空を見上げた。日差しが杭の先端に落ち、ちいさな光を跳ね返す。


 ——杭は、もう打った。

 あとは線を引くだけ。



 水利局への申請は、驚くほど早く通った。軍の同意書、辺境軍司令官の署名、そして私の仮測データ。法の手続きは感情よりも静かで、しかし鋭い。三日後、正式測量隊がサン・ルーカの原に入り、一週間で報告書が仕上がった。私は毎日現地に立ち会い、杭を増やし、線を増やし、数字を積み上げた。数字は裏切らない。裏切らない数字の束を胸に抱え、私は王城へ向かった。


 その日、王城は祝祭の装いだった。大広間には花が溢れ、銀の皿の上で果物が光り、音楽家が調弦を繰り返す。アレッサンドロ・ヴィスコンティ殿下の“新たな縁談発表”があるのだという。噂は早い。私の耳にも届いていた。私が門をくぐると、侍従が二度瞬きをしてから、意外にも丁重に頭を下げた。


「水利局より通達が来ております。セラフィーニ殿、報告は祝宴の後半、諸侯参集の場にて」


「承知しました」


 私は胸元の薄い革フォルダを押さえ、列柱の陰に立った。視線のいくつかがこちらを刺す。憐憫、好奇、嘲笑。全部、測れる。問題は、測った上でどう引き受けるかだ。


 高らかなファンファーレ。殿下が入場し、薄紫のドレスのカタリーナ・フェルメールが隣に並ぶ。殿下は完璧な笑顔で、王家の安寧と未来を語った。未来。妙な言葉だ。地図の未来は、現在の杭と線でしか描けないのに。


 やがて、王国水利局長が呼ばれた。白髭の老紳士。長年の実務で手が紙のように乾いている。局長は壇上で殿下に一礼し、会場全体に向かって声を張った。


「本日は、王都の給水計画に関わる重要な報告がある。サン・ルーカの原の正式測量が完了した」


 ざわめき。カタリーナが小さく眉を寄せたのが見えた。殿下の笑顔は崩れない。崩れていないように見えた、が正しい。


「報告者は、王国登録測量士、アメリア・セラフィーニ嬢」


 私は前へ出た。足音が広間の石に吸い込まれていく。壇上に上がり、局長から許可を得て、私は革フォルダから巻物を取り出した。巻物は一本ではない。地形、断面、音響、流量、測点一覧、杭番号——六本。全部、事実だ。


「セラフィーニ嬢。簡潔に頼む」


「簡潔に」


 私は頷き、中央の机に地図を広げた。まずは等高線図。次に音響探査の反射波形。会場の空気が変わるのが分かった。見慣れていない目でも、濃淡の違いは分かる。そこに“何かがある”ことは、言葉より先に伝わる。


「サン・ルーカの原の地下、深度七十〜百二十メートルにわたり、幅広い深層走行水が確認されました。旧導水路は表層に偏在し、近年の渇水はこれが原因と見られます」


「深層……走行水?」殿下が初めて口を開く。声にかすかな硬さが混じった。


「地中で遠距離を走る水脈です。表層と違い、季節や雨量の影響を受けにくい。王都の人口は過去十年で増えました。表層の水では足りません。深層を開くべきでした」


 私は指で等高線の谷を辿り、反射波の濃い帯の上に置いた。


「ここが“主脈”。そして、ここが“分岐”。本題はここからです」


 私は別の地図を広げた。水利権区分図。測点から割り出した境界線が色分けされ、所有と管理が一目で分かるようになっている。小さな声を呑む音が、あちこちから。


「サン・ルーカの原の地下主脈は、私の持参金の土地の直下を通過しています。現行法に基づき、私は深層水脈の一次取水権を得ます」


 空気が一度だけ跳ねた。すぐに静まる。この国の貴族は、驚いたときほど静かになる。静けさの密度が増す。測れる静けさだ。


「更に申し上げます。王都の上水路の途中、王太子殿下の開発計画により新設された堰が、表層水の流入を乱し、地下主脈への負荷を増大させています。これが近年の不安定化の主要因です」


 殿下が動いた。ほんの少し、肩が。カタリーナの指が扇子を握る力を強める。私は続ける。


「結論です。王都の安定供給には、深層主脈の適切な取水と、殿下の堰の撤去が必要です。私は一次取水権の行使を宣言します。王国水利局の監督下、新たな導水路“深渠”の開削を提案します」


「待て」


 殿下の声は、今度は確かに強かった。よく通る、美しい声。私はその美しい声が好きだったことを思い出し、同時に少しだけ恨めしくもあった。


「それは、王家の監督下で行われるべき事業だ。私の堰が原因だという証拠は——」


「あります」


 私は最後の図面を広げた。堰の位置と、反射波形の歪みの相関図。王都土木局の古図も添えてある。古い誤差。昨日、会場の柱で見た古い墨の点。その系列が、ここにも生きている。


「基準杭のずれが、最新図に引き継がれていました。殿下の計画は、そのずれた基準で設計されています。誤差は累積し、堰は“最悪の場所”に置かれた」


 誰かが低く唸った。水利局長が前へ出て、地図を覗き込む。老いた指が、私の引いた線の上をなぞる。老いた目が細くなり、やがて、はっきりと頷いた。


「……確かに。これは、私どもの不手際でもある。王家にも、王都にも、セラフィーニ嬢にも、謝罪せねばならん」


 会場の片隅で、エドガルド・ロッシが黙って立っていた。彼の目は地図を見ていない。私を見ている。私の声が震えないか、呼吸が乱れていないか、杭が揺れていないか——そんなことを確かめるように。


 カタリーナが一歩前へ出た。「でも、それは後から作った話ではなくて? あなたは殿下に恥をかかせるために——」


「恥は、地図がかかせます。私は線を引いただけ」


「無礼者!」


 扇子の骨が一枚、乾いた音を立てて割れた。私は局長に視線を戻す。


「王都のために、深渠の開削を急ぎましょう。取水権の具体的な配分は協議に応じます。ただし一つだけ——」


「何か」


「私の土地を“荒地”と呼んだ記録の訂正を求めます。王国公報に、正式に」


 沈黙。殿下が私を見つめている。初めて、真正面から。私の顔を通り越さず、遠くも見ず、今だけを見ている目。


「アメリア」


 その呼び方は、昔の庭園の匂いを連れてくる。少年だった殿下が石の縁に座り、制服の襟を緩め、泉に落ちた花を拾おうと手を伸ばして水を浴びた日の、くだらない笑い声。私は記憶の扉を一枚、内側から閉めた。


「殿下」


「すまなかった。私の判断は——」


「謝罪は要りません。杭を打ち、線を引けば、地形は分かります。謝罪は地形を変えません」


 殿下は唇を結び、やがて小さく頷いた。負けを認めた目だった。王族がその目を持つとき、世界は少しだけ正しくなる。


「王国公報に訂正を出そう。水利局と土木局を改組する。堰は撤去する。深渠は——王家の費用でやるべきだな」


「取水権の合意が先です」


「……そうだな」


 そこへ、別の声が割り込んだ。濁りのない低音。隣国アトラ公国の使節だった。燕尾服の胸元に小さな国章が光る。


「もし、王国の決定が遅れるならば、我々はサン・ルーカの原の深層水利用権を正式に購入したい。公国の港湾都市まで水路を延ばす計画がある」


 会場の空気が、今度ははっきりと波打った。外交。つまり、金と権益と力の線引きだ。殿下の顔色が変わる。水利局長は咳払いをし、使節を制した。


「その件は、まず国内で協議を——」


 私は一歩前へ出た。


「買い取りの話には応じません。サン・ルーカの原はヴァレリアの土地。深層水は王都の命綱。交渉は王国水利局と私の間で行われます」


 使節は目を細め、次いで口角を上げた。「勇敢だ。水の価値を分かっている人間は少ない」


 勇敢ではない。杭に従っているだけだ。杭は、うそをつかない。


 そのとき、背後で軍靴の踵が鳴った。エドガルドが壇上の手前まで進み、敬礼を打つ。


「辺境軍司令官エドガルド・ロッシ、進言いたします。深渠開削および堰撤去に関し、軍は全面的にセラフィーニ嬢の測量指揮に協力する用意があります」


 ざわめきが二段階で広がった。「軍が?」「女に?」という疑問の波だ。エドガルドは一歩も引かない。


「水は補給線であり、補給線は戦である。戦の指揮に男も女もない。杭の位置を誤れば軍は死ぬ。彼女は杭を誤らない」


 殿下がゆっくりと頷いた。視線は私に固定されたまま。


「アメリア。私は、君を——」


「殿下」


 私は静かに遮った。やさしく、しかし杭のようにまっすぐに。


「ここは、仕事の場です」


 殿下は口を閉ざした。少しの間、私たちは互いの形を測るように黙って立った。やがて殿下は視線を落とし、低く言った。


「分かった。仕事をしよう。王国のために」


「はい。王国のために」


 水利局長が杖で床を一度叩いた。「それでは、深渠計画に移る。臨時委員会を設置し——」


 言葉の続きを、私は聞いていなかった。足元で、杭が静かに光った気がしたからだ。私が打ったわけではない杭。たぶん、誰かが心の中に打った杭。誰のものか、考えなくても分かる。


 式が終わり、人の波が緩む。私は巻物を巻き直し、革フォルダに収めた。背後から近づく気配。振り返ると、殿下ではなく、エドガルドだった。


「見事だった」


「地図が、です」


「君が、だ」


 言葉が短い。短いのに、重い。私は肩の力を少し抜いた。


「ロッシ殿。杭は、抜かずに済みそうですか」


「抜かない。むしろ、増やす」


「増やしすぎても、森になりますよ」


「森なら、守るのが得意だ」


 困った人だ。本当に。


「では、明日から現地監督に入ります。深渠のルート、堰の撤去。数は多いですが、全部線で繋がります」


「分かった。——アメリア」


「はい」


「君は、泣いたか」


 私は一瞬だけ考えてから、首を横に振った。


「泣くのは、王国公報が出た後にします。『荒地』の訂正が印刷された紙を見てから」


「よし。では、泣く練習をしておけ」


「軍人は本当に……」


「不器用、だろう?」


 私は笑った。殿下の視線が、遠くから刺すようにこちらをかすめていった。過去の杭だ。抜けようとしている杭。痛いが、仕方ない。新しい杭が増えていくのだから。


 大広間を出ると、薄い夕風が頬を冷やした。空はまだ明るく、しかし西の端だけが赤い。私は地図の重さを肩に感じながら、石段を降りた。下りは、上りよりも測りやすい。足元を見ればよいから。


 ——ざまぁは終わっていない。

 紙が印刷され、堰が取り払われ、深渠が水を走らせ、王都の噴水が空へ伸びるまで。

 杭の仕事は、終わらない。



 翌月、サン・ルーカの原には風の音が絶えなかった。掘削機の軋む音、杭を打つ音、測量線を張る声、馬車の軋み。乾いた丘は少しずつ、湿った匂いを帯びはじめていた。


 私は地図を胸に、杭を見回る。エドガルドが隣で腕を組む。

「よくここまで来たな。王都からの妨害も少なくないだろうに」

「少ないとは言いません。でも、数字は静かです。怒鳴られても、杭は動きませんから」


 堰の撤去も始まった。あの誤った基準線に立てられた石壁は、今や崩され、水の音が戻り始めている。

「アメリア、今日で最後の測点だ」

「ええ。最後の一本を打てば、地図は閉じます」


 私は杭を握り、土を見つめる。

「杭を打つたびに思います。地図の線は、人の意志なんです。何を守り、どこで止め、どこへ流すか。それを決めるのが測量士です」

「君が決めた線は、正しい」

「まだです。水が流れるまでは、結果が出ません」


 夕暮れ、最後の杭を打った瞬間、地下から鈍い音がした。地中の圧力が動くような、低い唸り。次の瞬間、斜面の下から透明な水が噴き出した。誰かが歓声を上げる。私は手袋を脱ぎ、その冷たい水を掬った。

「……生きてる」

「水脈が繋がったんだ」

 エドガルドが低く息を吐いた。

「これで王都の井戸も、泉も救われる」


 遠くで鐘の音が鳴った。工事監督が旗を振り、兵たちが笑い声を上げる。水が、国を走り始めた。


 その夜、王都の噴水が再び空へ伸びた。十年ぶりに、あの白い水花が灯りを受けて輝いたと人々が口々に言った。翌朝、王国公報の号外が出る。


「サン・ルーカの原、正式測量完了。深層水脈確認。一次取水権、アメリア・セラフィーニ嬢に帰属。先王の認可を以て発表」


 見出しの下、小さな欄外にもう一行。


「同地、従来“荒地”の記述、誤記と訂正」


 私はその行を指でなぞった。指先に紙のざらりとした感触が残る。ようやく泣けた。


「やっと泣いたか」

 背後で声がする。振り返ると、エドガルドが立っていた。軍装ではなく、白いシャツに黒の外套。

「ロッシ殿……泣く練習は済みましたから」

「本番は一度きりでいい」

 彼はゆっくりと近づき、私の手から公報を取った。

「この紙一枚が、国を変えたんだな」

「紙ではなく、杭です」

「では、杭を打った人を、俺は尊敬する」


 少しの沈黙。風が二人の間を抜け、彼の外套の裾を揺らす。

「セラフィーニ嬢——いや、アメリア」

「はい」

「王が言っていた。サン・ルーカを独立の水利領とし、管理官を置くと。お前がその官だ」

「……つまり、辺境の女領主ですね」

「辺境には強い水脈がある。そして強い女がいる」

「お世辞ですか?」

「求婚だ」


 言葉があまりに直線的で、思わず笑ってしまう。

「杭を打つのと同じくらい、まっすぐですね」

「曲がった杭は使い物にならない」


 私はうなずき、少しだけ目を閉じた。

「……いいですよ。抜けない杭を、ひとつくらい増やしても」

「では、杭打ちはもう二人の仕事だ」


 その夜、風の中で水音が聞こえた。地中を走る新しい流れが、国を貫き、丘を潤していく。王太子の名前は、後に歴史書の片隅で短く記された。


「誤った測量により、水脈を見失う」


 そして、アメリア・セラフィーニの名の下には、ただ一行。


「国を測り直した女」


 私は時々、夜の丘に立つ。風の音が杭を撫でる。あのときの涙は、もう乾いた。でも、水の音だけは今も変わらない。


 ——杭は、抜けなかった。

 そして、それでよかったのだ。



完。

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― 新着の感想 ―
楽しく読みました 面白いです、ありがとうございました
王太子、婚約者に嫉妬するより相談して学べばよかったのにー。人の上に立つのに能力の見極めができないのはかなり失点だな。物語は淡々とだからこそ切々と主人公の思考や感情が溢れて伝わってきて良かったです雰囲気…
面白かったです! 杭を打ちながら仕事をしていく、 自分の打った杭が形になっていく快感。 男性の職場と言われる業種に 最初の杭を打った女性達は こんな感じだったのでしょうか… 彼女は、王子の隣にいる…
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