第7話:桶狭間決戦
雨脚が強まっていた。
空は厚い雲に覆われ、風が斜面を駆け抜けていく。
木々の葉がざわめき、あたりの視界を曇らせる霧と雨。
それはまさに“天の加護”のようだった。
「ここまで条件が揃うとはな……」
木の影に潜む悠真は、濡れた髪を手で払いながら、谷間を見下ろしていた。
今川本隊は桶狭間の中央に陣を敷いている。
兵たちは雨を避けて布を張り、火を焚いているが、どこか緊張感に欠けていた。
これが、教科書に載っていた“桶狭間の義元”——悠真の知る姿と、重なる。
(本当に……このまま行けば、“あの通り”になる)
それは確信に近かった。信長の奇襲が成功し、今川義元が討たれる——
だが、だからこそ怖かった。
ここで自分が何かを間違えたら?
信長が死ぬことになったら?
それとも……歴史の流れそのものが変わってしまったら?
「……怖いか?」
低く落ち着いた声が背後からかけられる。
振り返ると、そこにいたのは——織田信長。
甲冑に身を包み、顔には泥と雨が跳ね、だがその目は凛として揺らいでいない。
「怖いです。でも、それでも……」
悠真は、震えそうになる声を押し殺して言った。
「ここで俺が何もできなかったら、意味がない。信じてくれたあなたに、応えたいんです」
「ふむ」
信長は少し目を細めると、悠真の肩に手を置いた。
「ならば、前だけを見よ。振り返るな。お主の策に従い、我が軍はすでに布陣を終えた。あとは——その時を待つだけよ」
その“時”は、すぐにやってきた。
雷鳴。
そして——信長の馬が、ぬかるみを蹴って跳ね上がる。
「者ども、出陣じゃ!」
信長の号令が山間に響いた。
一斉に、伏兵が動く。
斜面を駆け下り、木々の影から姿を現す兵たち。
まるで雨と風に紛れた影が、谷へと襲いかかるようだった。
「——うおおおおおっ!」
咆哮のような鬨の声。
今川の兵たちが振り返る間もなく、織田軍はその陣を突き崩していく。
火がはじけ、布が裂け、泥が飛び、槍が交錯する。
悠真も、その場から動いた。
自分の位置を示し、後方支援の兵たちへ合図を送る。
(もう、止まれない)
刃の音、叫び声、血のにおい。
“戦”がここにあった。
ゲームでも、ドラマでもない。
“生”と“死”が一瞬で交錯する、現実の戦場。
だが、悠真は目を逸らさなかった。
「信長様の馬、前へ!」
「前列を突破、義元の陣近くまで到達ッ!」
伝令が次々と駆け、戦況は加速度的に動いていく。
そして——そのとき、彼は見た。
槍の先に立つ、白銀の甲冑。
髷を結い、扇を手にした男。堂々と馬に跨り、敵陣の先頭に立つ男。
——今川義元。
(……これが、今川義元)
教科書で読んだ「油断して討たれた男」ではなかった。
たしかに油断はあった。だが、戦の中でなお堂々と指揮を執るその姿に、
悠真は、胸を突かれた。
彼もまた、この時代を“生きている”のだ。
「退けいっ!」
今川の側近たちが義元を守ろうとする。
だが、すでに遅かった。
——信長が馬を駆け、間合いを詰める。
振り下ろされる刃。
血しぶきとともに、歴史が——動いた。
今川義元、討死。
それは、後に語られることになる。
戦国の常識を覆した“奇襲の勝利”。
だがその場にいた者たちにとって、それはただ——
“生き残った”という事実だけが残る、極限の瞬間だった。
戦が終わる頃には、雨は静かに止んでいた。
空にはようやく、薄い陽の光が差し込んでいた。