第6話:桶狭間へ
馬の蹄がぬかるみを叩く音が、列の奥から断続的に響いていた。
厚い雲に覆われた空。明け方には止んでいたはずの雨が、再びぽつりぽつりと落ち始めている。
神谷悠真は、槍兵たちの列の後方からその様子を見つめていた。
(……これが、戦に向かう空気か)
前にいる兵士の背には雨除けの布。けれど、甲冑はすでに濡れ、冷たく光っていた。
顔をこわばらせ、言葉少なに進軍する男たち。
緊張と覚悟、そして……恐れ。
彼らは、命を懸けている。
(これまで俺が知っていた“桶狭間の戦い”は、ただの歴史だった。
でも今は違う。……本当に、人が、死ぬんだ)
教科書では、数字と結果しか記されていない。
だが、現実は——もっとずっと、生々しい。
「——そろそろ見えてくるぞ」
声をかけてきたのは、木下藤吉郎だった。
変わらず軽薄な笑みを浮かべているが、腰の太刀にも甲冑にも、迷いはなかった。
「ここから南へ折れれば、田畑の向こうに……」
秀吉の言葉を遮るように、遠くから雷鳴が轟いた。
その音に、列のいくつかがわずかにざわつく。
「雨も風も……味方してくれるかもな。こっちは奇襲だ」
「……本当に、勝てますか?」
ふと、口から漏れたその言葉に、秀吉は立ち止まり、悠真を見た。
「“勝てるか”じゃねぇ。“勝つしかねぇ”んだ」
真剣な瞳。その一言に、悠真は何も返せなかった。
そして——見えた。
桶狭間の地形。狭く、湿った谷間。周囲を山が囲み、風が舞う。
ここに今川軍が陣を張っている。
だが、その姿はまだ見えない。霧が立ち込め、雨がその輪郭をぼやかしている。
「神谷!」
馬上から声が飛ぶ。信長だ。
黒の甲冑に身を包み、眼光鋭く、悠真を見下ろしていた。
「前に出よ」
「は……はい!」
悠真は前へと走り出す。ぬかるんだ地面に足を取られながらも、膝をつくことなく信長の前に立った。
「お主の知恵、ここで活かす時が来た」
信長が短く言い放つ。
「この谷間に、どのように兵を展開するか——策を申してみよ」
重みのある問い。
悠真は息を呑み、地面にしゃがみ込み、泥の上に指で地形をなぞる。
「ここ……この尾根沿いに伏兵を置いてください。斜面の影を使えば、敵からは見えません。
あとはここ、谷の入り口を塞ぎ、音で誘導すれば……」
しゃべりながら、脳内で何度もシミュレーションする。
知識が血肉になる。戦が、ただの記録ではなく、“今”として脈打ち始める。
信長は黙ってそれを見ていた。途中で口を挟むことはなく、ただ見守っていた。
やがて——
「よい」
その一言に、周囲の兵たちが息をのむ。
「その策、我が軍で採用する。お主が導け、神谷悠真」
その名を、信長が初めてはっきりと呼んだ瞬間だった。
心臓が跳ねた。名を呼ばれただけで、全身に力がみなぎる。
(……認められたんだ)
この時代で、自分の居場所を。
だが、それは同時に、重大な責任を背負った証でもある。
ここで失敗すれば——多くの命が失われる。信長も、歴史も、すべてが変わってしまう。
悠真は拳を握りしめ、立ち上がった。
「必ず、成功させます」
その言葉に、信長はわずかに笑みを浮かべ、馬を進めた。
空からは、いよいよ本格的な雨が降り出した。
それは、戦いの始まりを告げる“幕”のようだった。




