第5話:開戦の鼓動
まだ夜は明けていなかった。
だが、織田軍の陣営には確かな熱気が漂い始めていた。
地を踏む足音。槍の先を確認する音。甲冑の軋む音。
一つひとつが、戦の始まりを告げる“音”だった。
神谷悠真は、陣の片隅でじっとその音を聞いていた。
昨夜の軍議の後、彼は“策士”として信長の命を受け、正式に織田軍の一員と見なされた。
もっとも、周囲の目は依然として冷たい。とくに柴田勝家の視線は、背中に刺さるようだった。
(そりゃそうだ……こんな得体の知れない奴、誰だって警戒するよな)
だが、それでも信長が「任せる」と言った。それだけで十分だった。
ここで逃げることは、信長の言葉を裏切ることになる。だから——
「お主、目は覚めておるか?」
その声に振り向くと、焚き火の向こうから信長が歩いてきた。
甲冑の隙間から見える鋭い目は、夜の冷気の中でもなお熱を帯びている。
「はい、殿」
自然と口に出ていた。言った瞬間、自分でも少し驚いた。
(……“殿”って)
信長の前に立つと、自然とそう呼びたくなる。
それは恐怖ではない。敬意と——どこか、懐かしさのような感情だった。
「よい目をしておる」
信長が小さく笑った。
「初めての戦場に臨む者にしては、ずいぶんと落ち着いているな」
「……怖くないと言えば嘘になります。でも、それ以上に……自分にできることを、全力でやらなきゃって思ってます」
「ほう」
信長はしばらく悠真を見つめた後、静かにうなずいた。
「戦とは、策だけでは勝てぬ。策に命を吹き込む“意志”がなければ、ただの絵空事よ」
「……意志」
「お主の策に、我らが命を預ける。ならば、貴様もこの戦に“生きる意味”を見出すがよい」
信長の言葉に、悠真の胸が震えた。
(この人は……ただの戦上手なんかじゃない。本当に“人の上に立つ者”なんだ)
だからこそ、この人が歴史で“死ぬ”ことを、まだ受け入れられずにいた。
その未来を知っているのに——自分は、それを止めてはいけない。
止めれば、帰れなくなる。
(でも……もしそれでも、俺が信長を助けたいと思ったら……)
そのときは、覚悟を決めなければならない。歴史に抗う覚悟を。
「出陣の時だ」
信長が言った。悠真が顔を上げると、すでに空がほんのりと白み始めていた。
兵たちが次々と列をなし、馬に乗り、槍を携え、弓を背負い、陣を離れていく。
それはまるで——一つの大河のようだった。
悠真も、その流れに加わる。
戦場へ向かう。その事実に、足が少しだけ震えた。
だが、拳を握って、前を向いた。
(これが……俺の選んだ道だ)
(歴史を守るって、そういうことだろ?)
鼓動が高鳴る。
それは恐怖ではなく——未来を賭けた決意の音だった。