第47話:疑念の芽
岐阜城に戻ってきてから数日——
城内に、かすかなざわめきが広がっていた。
「神谷殿が、殿のお側に呼ばれることが増えたらしい」
「軍議でも異例の意見が採用されたとか……」
「まさか、外様の者が権勢を持ち始めておるのでは……」
それは小声のささやき。だが、日を追うごとに輪郭を増し、やがて明確な“疑念”として城内に染み渡り始める。
神谷悠真は、それを肌で感じていた。
(……明らかに視線が変わった。俺に対する信頼が、疑いに変わりつつある)
もはや“よそ者”ではなく、“異物”とでも言いたげな眼差し。表面上は誰も何も言わぬ。だが確実に、何かが——揺れていた。
そんな空気のなか、神谷は一人、書庫にこもっていた。
散らばる巻物と地図。合戦記録。系譜図。自分が知っている歴史と、現地の記録との微妙な“差異”に目を通すためだ。
(加賀美……まさか、ここまで内側に干渉してくるとは。俺が“表で動いた”以上、奴は“裏”から攻めてくる)
そう予想していた通りだった。
信長のもとへ届く報告のいくつかに、明らかな“脚色”が加えられていた。事実と異なる戦況、異なる人物評価、誤った動員計画。
それらは小さな綻びに過ぎない。だが、放置すれば組織の信頼を蝕む毒になる。
「……誰かが意図的に流してる。俺の立場を危うくするために」
呟いたそのとき、書庫の扉が静かに開いた。
「神谷様。殿がお呼びです」
声をかけたのは、信長付きの若侍——柴田勝家ではない。別の家臣だった。だが、どこかぎこちない態度。目を合わせようとしない。
(この使者も、俺の味方ではないのかもしれない……)
そんな考えが脳裏をよぎったが、神谷は首を縦に振った。
「わかった。すぐ行こう」
足取りは、重い。
このままでは——織田家に、“加賀美の影”が根を張ってしまう。
そんな危機感が、胸を締めつけていた。
***
信長の執務室。火鉢の前に腰を下ろし、淡々と文書に目を通していたその男は、神谷の姿を見るとゆるやかに目を上げた。
「そなたのことを“疑っておる”者がいるようだな」
開口一番、その言葉。
神谷の背中に、冷たいものが流れた。
「……はい。感じております」
「わしは、気にしておらぬ」
そう言って、火鉢に炭をくべる信長。その横顔は、どこまでも静かだった。
「人は、“知らぬもの”に恐れを抱く。それが例え、恩人であってもだ。だがそれは、わしも同じよ」
「……同じ、とは?」
信長は口の端を上げた。
「そなたがなぜ、戦の展開を“読む”ことができるのか。なぜ、わしの考えを先回りするのか。それを問う者もおる」
「……それは……」
言葉に詰まる。
答えることは、できない。いや、してはいけない。
「わしは、気にしておらぬ。そなたが“何者”であれ——我が軍を勝たせる知恵を持っている。それで十分だ」
その言葉に、神谷は一瞬、胸が熱くなるのを感じた。
(信長様は、俺のことを……)
だが、すぐに冷静さを取り戻す。
(……それでも、どこかで見られている。“異物”として)
信長が神谷を信じてくれていても、家中の全員がそうではない。むしろ信長の寵愛が強まれば強まるほど、反発は大きくなるだろう。
「神谷。今一度、申しておこう」
信長が顔を上げた。
「“敵”は外にはおらぬ。内にいる。そなたが潰すべきは、外の軍勢ではなく、内に潜む“影”だ」
静かな声だった。
だがその言葉の重みは、刀より鋭く、槍より深かった。
***
部屋を出た神谷は、月明かりの下、渡り廊下を歩いていた。
その背後に、静かに歩を重ねる影。
「……神谷様」
振り返ると、そこには——お市がいた。
淡い灯りのなかで、神谷を見上げるその瞳は、どこか不安を湛えていた。
「最近、神谷様のことを……悪く言う声を耳にします」
「……気にしないでください」
神谷は、優しく笑った。
「私は、やるべきことをやるだけです」
お市はしばらく何も言わず、そっと神谷の袖を掴んだ。
「……ご無理なさらぬように」
その小さな手のぬくもりが、神谷の胸に染み入る。
(……こんな時代でも、俺は……守りたい人がいる)
そう強く、心に刻んだ。
ふむ……神谷殿、また一つ手柄を挙げおったな。
あの若造、ただの物知りかと思いきや、戦場でも冴えておる。
わしも、まだまだ老け込んでおれんな。
だが、戦の裏に潜む“もう一つの動き”……
不穏な風が、背後から忍び寄っておる気がしてならん。
信長様も、何かを探っておられる様子……。
読者殿よ、ここからが面白くなるところじゃ。
神谷を信じ、見届けてくれい。
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次回も、覚悟して読むがよいぞ!
──織田家筆頭家老・柴田勝家、かしこみ申し上げ候。




