第4話:試される知恵
軍議の間には、濃い煙と緊張が漂っていた。囲炉裏の火に照らされる地図の上、指が何本も動き、やがて一点に集まる。
神谷悠真はその場の端、背筋を伸ばして立っていた。
座ることも許されないその場で、彼に注がれる視線は一様に冷たく、鋭い。
信長をはじめとした織田家の重臣たち——柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、そして木下藤吉郎。
いずれも一国を任されるような猛者たちだ。
その視線が、ただの高校生に向けられている。
「神谷よ」
信長が静かに口を開いた。
「先ほどの言、忘れてはおらぬ。“今川は北東から攻めてくる”。その言葉、我が軍にとって無視できぬものとなった」
信長の指が、地図の上を滑る。山、森、谷、そして——
指先が止まったのは、桶狭間。
「だが、ただ一度の言で全てを託すことはできぬ。……よって、もう一度問う」
「今川義元の本隊は、次にどこへ向かう?」
ずっと想像していた場面だった。
人の命、歴史の流れ、そのすべてを左右する決断が、自分に委ねられる瞬間。
けれど実際にその場に立つと、喉が張りつくように乾き、心臓がうるさいほど鳴っていた。
深く息を吸う。
自分が何者か。なぜこの時代に来てしまったのか。
それを確かめるためにも、ここで逃げるわけにはいかない。
「……桶狭間、です」
空気が動いた。ざわめきと、疑念と、静かな緊張。
「理由を聞こう」
信長の声は静かだった。
悠真は、真っすぐ地図を見据えたまま言葉を重ねる。
「今川軍は、圧倒的な兵力で進軍しています。敵を侮り、京への上洛を焦っていない。——つまり、油断があります」
「……油断?」
「はい。桶狭間は、風通しがよく、休息地に適しています。義元はそこに陣を敷き、戦の準備を整えるはず。そこが、最も無防備になる瞬間です」
重臣たちの間で、静かな視線が交錯する。
信じる者、疑う者、それぞれの思惑が飛び交っていた。
だが、その空気を切ったのは、木下藤吉郎の飄々とした声だった。
「なるほど、こいつぁ理屈が通ってる」
軽い口調の裏に、冷静な観察眼が光る。
「だが、あんた……いったい、何者なんだ? まるで未来でも見てきたような口ぶりじゃねぇか」
悠真は答えなかった。
否、答えられなかった。
(……今はまだ、言うべきじゃない)
この時代の人間に、“未来から来た”などと話して信じてもらえるはずがない。
ましてや戦の最中、警戒されれば即座に命を奪われる可能性だってある。
だからこそ、悠真は淡々と答えた。
「偶然、地形や戦術を学んでいた。ただ、それだけです」
「……ふむ」
信長が目を細める。まるで“嘘”であることを見抜いたかのように、しかし口には出さなかった。
そして——静かに、言った。
「面白い」
それは、裁定の言葉だった。
「この戦、桶狭間にて義元を討つ。策の中心に、神谷を据える」
「信長様!? この得体の知れぬ若造に、我が軍の命運を——!」
柴田勝家の怒声が響くが、信長は揺るがない。
「時に、異端こそが勝利を呼ぶ。……我が眼は、誤らぬ」
その一言に、誰も何も言い返せなかった。
軍議の空気が、決まった“流れ”を受け入れていく。
(……信長は俺を、使うつもりなんだ)
悠真は手のひらに滲む汗を感じながら、静かに拳を握りしめた。
(だったら俺も——応えるしかない)
(歴史を守る。それが、ここに来た意味なんだ)