第39話:影の視線
神谷、お前に任せたいことがある」
信長の言葉に、神谷悠真は背筋を正した。
夜明け前の岐阜城。まだ陽が昇り切らぬ廊下には、肌寒い空気と張りつめた沈黙が漂っていた。
「近隣の集落に不穏な動きがある。だが、軍勢を動かせば余計な騒ぎを招く」
「ゆえに、お前一人で行ってもらいたい。現地での状況を確認し、報せてくれ」
「はっ。承りました」
答えながらも、神谷の胸中には引っかかりがあった。
前回の“村の火事”の背後に、加賀美の影を感じ取った直感は、まだ消えていない。
(何かが起きている。歴史の“表”では動いていないが、“裏”が揺れ始めている)
信長はしばし神谷の眼を見つめ、やがて軽く頷いた。
「……行ってこい。そなたの目を、信じている」
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神谷が出発する直前、廊下の角で誰かとすれ違った。
足を止めたその人物は、静かな声で呼びかけてきた。
「神谷殿」
「光秀様……」
端整な顔立ちに、一瞬の影が走った。
「お気をつけて。あの地には、かつて私が支配していた頃の痕跡が多く残っております」
「もし“誰か”がそこを狙っているとすれば……裏に“企み”がある」
神谷は光秀の言葉に、どこか憂いを含んだ色を感じた。
「……何か、心配されているのですか?」
「私は……過去に、殿に対して“迷い”を抱いたことがあります」
光秀は目を伏せる。
「忠義とは、ただ従うことではありません。
信じ、支える者として……見極めねばならぬこともある」
その言葉はまるで、自分自身に言い聞かせているようだった。
神谷は言葉を返さず、静かに頭を下げて歩を進めた。
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調査地は、城から東に三里ほど離れた山間の集落だった。
焼け跡こそなかったが、地元の百姓たちから妙な話を聞いた。
「……数日前、旅人らしき男が来ての。妙にものを知っておった」
「見たこともない装束で、村の構造や年貢の分配まで詳しくての……」
「名前? さあな。“役人の使い”だと言っておったが、妙に馴れ馴れしかった」
悠真は心の奥がざわつくのを感じた。
(また加賀美か……? それとも、協力者か?)
未来の知識を用いて村の仕組みに干渉しているとすれば、
それはただの情報収集ではない。
“歴史”を操るための布石——そうとしか思えなかった。
「……ありがとう。気をつけて暮らしてください」
百姓たちに頭を下げ、神谷は山を下りはじめた。
(これは偶然じゃない。加賀美は、また何か仕掛けてきている)
(……それにしても、なぜこの集落なのか。何か意味がある?)
考えながら歩く神谷の背に、遠くから小さな石が転がってきた。
反射的に身を翻し、周囲を見回す。
だが、誰もいない。
(……気のせい、じゃない。誰かが、こっちを“見ていた”)
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その頃、京のある屋敷の奥座敷。
加賀美黎士は、屏風の前に座り、古い資料を並べていた。
その視線は、地図に赤く記された一点に注がれている。
「予想より動きが早いな、神谷」
静かに笑う。
「だが、それもまた“選ばれた者”の資質というべきか」
加賀美はそっと紙の端を折り、巻物に書き込んだ。
「次の調整地点は、ここか。
……あと一手、踏み込めば“流れ”は固定される」
その言葉の裏にあったのは、
この時代の人間たちを“盤上の駒”としか見ていない冷たさだった。
⸻
岐阜城へ戻る途中、神谷はふと空を見上げた。
春の風が頬を撫で、かすかな違和感を連れてくる。
(……何なんだ、この落ち着かなさ。何かが、噛み合ってない気がする)
まるで、目に見えぬ“誰か”が、この時代のすべてを俯瞰して操っているような——
そんな感覚だけが、神谷の胸にわずかに残っていた。
——ここまで読み進めてくださったお方、まことにありがたき幸せ。
神谷という異邦の若者、そして我らが織田家が歩むこの先には、まだ見ぬ策と剣が待ち受けておろう。
わしにはわからぬことも多い。
だが、あの若者の背に吹く風だけは、何かを変える“兆し”であるような気がしてならぬ。
もしこの物語に心動くところがあったのならば——
ぜひ「評価」や「ブックマーク」、一筆でも「コメント」を残していただければ幸いである。
それが、この物語を紡ぐ“次の一手”となるやもしれぬゆえに。
……では、また戦の続きを共に見届けよう。
──織田家筆頭家老・柴田勝家、かしこみ申し上げ候。




