第36話:裏切りの火種
京の外れ、近江の山中にある一軒の屋敷。
かつて織田家とも親交のあった浅井家の家臣がひそかに集まる場所——
そこに、ひとつの黒き影が現れていた。
「……これはこれは、まさか加賀美殿が我らのような辺境の地まで足を運ばれるとは」
薄暗い部屋にて、扇を片手に笑みを浮かべる男——浅井長政。
若き当主は、表向きは織田家と姻戚関係にありながら、その内心は揺れていた。
「信長の膝下で生きることに、違和感を覚えたことは……ないのですか?」
加賀美の声は冷静で、よどみがなかった。
「私は、変革を恐れない者が未来を築くと信じています」
「変革、とな。だが、信長こそがその象徴ではないか?」
「“自分の意思で変える”ことと、“誰かに変えられる”ことは違うでしょう」
一拍の沈黙。
加賀美の指先が、地図の一点をなぞる。
そこは、美濃と近江の国境——信長の勢力が確保しつつある場所だった。
「歴史は強者が紡ぐものではありません。
“知る者”によって、書き換えられるのです」
長政の目に、一瞬だけ本気の光が宿った。
「……興味深い」
加賀美は何も言わず、静かに頭を下げた。
その背に揺れるのは、かすかな狂気と冷徹な企図。
(さあ——まずは、一手目だ)
⸻
同じ頃、岐阜城・城内。
「——神谷、そなたに任せたい役目がある」
信長の間。
悠真は正座の姿勢を崩さぬまま、その言葉を受け止めていた。
「はっ」
「明日、使者として東の村へ向かえ。
加賀美の動きが及んでいる可能性がある。あえて“そなた”を使うのは、敵の目を引くためでもある」
「……囮、ですか」
「囮であろうと、生き延びれば勝ちだ」
信長の口元に浮かぶのは、したたかな笑み。
その奥には、悠真の“存在そのもの”を戦略に組み込む信頼がある。
(信長様は……気づいている。俺の知識、そして正体にも)
確証がないまま、けれどそう思わせる空気があった。
あの鋭い眼差しは、すべてを見通すような気がしてならなかった。
⸻
その夜、悠真は城の外れにある小庭へと足を運んでいた。
月明かりに照らされた水面。そこに立っていたのは、お市だった。
「……こんな夜に、一人で?」
お市は振り返り、小さく微笑む。
「静かなところでないと、心が落ち着かなくて……」
二人は言葉を交わさず、そのまま並んで立った。
しばしの沈黙——けれど、不思議と気まずさはなかった。
「明日、村へ行くのですって?」
「……はい。殿のお命令で」
「危ないことに、巻き込まれなければよいのですが」
そう呟いたお市の言葉には、どこかに滲む不安と、止められない気持ちがあった。
「……俺、絶対に戻ります。お市様に、また会いたいから」
その一言に、お市ははっとしたように目を見開いた。
だが、すぐに恥ずかしげに顔を伏せ、小さく頷いた。
「……なら、無事で帰ってきてくださいね。必ず」
月が照らすのは、確かに“繋がり始めた”二人の距離だった。
⸻
そして夜明け。
馬に乗った悠真が、城門を越える。
その背には、まだ浅い覚悟と、けれど確かな決意が宿っていた。
(俺は、この時代に来た意味を見つける。そのために、戦う)
未来を変えないために。
そして、大切な人たちを守るために。
その先に、何が待っていようとも——。
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