第26話:交錯する影
山村の夜は、城下とは比べものにならないほど静かだった。
竹林を揺らす風が囁くように葉をこすり合わせ、獣の気配も感じさせないほどの冷気が漂う。
その中を、柴田勝家は慎重に進んでいた。
鎧を脱ぎ、黒装束に身を包んだその姿は、いつもの堂々とした姿とはまるで別人のようだった。
(殿が、神谷を受け入れられた理由——それが、俺にはわからぬ)
疑念はあった。神谷悠真という若者が、まるで未来を知っているかのような“知恵”を持ち合わせていることに。
勝家は、信長に忠義を誓った男である。だが、だからこそ——
(殿を信じるだけでいい。それが理想だ。だが俺の役目は、信じる前に“確かめる”ことだ)
向かっているのは、今川の残党が潜んでいると噂される古い山寺跡。
勝家は神谷の言葉を鵜呑みにせず、別の視点から真相を掴もうとしていた。
⸻
月明かりが射す山寺の裏手、苔むした石段を登り詰めたその先に、古びた堂宇が静かに佇んでいた。
その前に立つ一人の男。
薄い外套に身を包み、髭をたくわえたその男の顔に、勝家は見覚えがあった。
「……貴様、まさか……河合吉統……!」
驚愕に目を見開いた勝家は、思わず足を止める。
河合吉統。かつて織田家に仕え、謀反の疑いで“処断された”はずの男である。
吉統は口の端をわずかに持ち上げた。
「久しいな、勝家殿。……生きていて悪いか?」
「貴様、生きていて……何をしている。いや、誰に仕えている?」
「今は誰にも仕えてはおらんよ。ただ、“未来を選ぼうとしている者”と手を組んでいるだけだ」
勝家の眉がぴくりと動く。
「加賀美……か」
「加賀美は駒だ。俺もまた、別の駒に過ぎん。ただ、俺はあの男に賭けている。“今ある流れ”を変えられる存在としてな」
「神谷……を、か?」
「名を出すのは早計だ。ただ……そなたも気づいているはずだ。あの若者の言葉と知恵は、常軌を逸している。あれが本当に“過去に生きる者”のものか、とな」
勝家は言葉を飲んだ。
彼自身、その“違和感”を感じていた。感じていたからこそ、こうして動いたのだ。
「ならば、何を狙っている?」
勝家の問いに、吉統は小さく首を振る。
「神谷には、まだ何もしていない。ただ、彼がこの時代に何を残すか——それを、我らは見届けている」
「“我ら”とは何者だ」
「名を明かすほど愚かではない。ただ……一つだけ教えよう。
あの男が何を選ぶかによって、信長の運命も、やがて大きく揺らぐ」
(この男……なぜ、殿の行く末までを語る……?)
勝家の胸に、得体の知れない戦慄が走る。
(あいつは本当に、“何か”を知っている)
だが、それ以上を問い詰める前に、吉統はふっと身を翻した。
「いずれまた会おう。時が満ちれば、答えは勝手に姿を現す」
そう言い残し、竹林の闇に姿を消した。
⸻
一方その頃、織田家の城内。
前田利家は人気のない廊下の片隅で、一通の文を手にしていた。
差出人の名はなく、文面も簡潔だった。
「神谷悠真には、殿が知らぬ知恵がある。己の目で確かめよ。
信じるとは、疑うことだ」
筆跡は……どこかで見たことがある気がした。
(……この筆跡、あの浪人に似ている。まさかとは思うが)
利家は紙を丸めて袖の内にしまい込み、静かに吐息をついた。
心の奥に、小さな棘が刺さったような、妙な感覚が残った。
⸻
その夜、悠真はうなされるような夢を見ていた。
揺れる風景。霞んだ光。どこか懐かしい声。
『……お兄ちゃん、見ててくれるだけでいいから……』
声は幼い少女のものだった。現代の、妹の記憶。
顔は見えない。ただ、懐かしさと共に胸が締めつけられる。
(……俺は……戻らなきゃいけない。あの世界に)
夢の中の景色が崩れ、闇に吸い込まれていく中、悠真は叫ぶように手を伸ばしていた。
⸻
目を覚ました時、空はまだ明けきっていなかった。
枕元に置かれた古い和紙に、自分が無意識のうちに描いた何かが残っていた。回路図のようなもの。意味はない。けれど——
(俺は……まだ帰れてない。けど、あの子に“帰る”って約束した)
悠真はゆっくりと体を起こし、窓の外の空を見つめた。
その胸の奥に、小さく火が灯る。
(この時代を守る。それが……俺の今の使命だ)




