第24話:裂けゆく輪郭
静かな朝だった。城の回廊には早朝の風が吹き抜け、白い帳のような霧が庭を包んでいた。
その中を、前田利家が無言で歩いていた。普段なら人当たりのいい笑顔を浮かべ、若い兵たちにも気さくに話しかける男。だが今の彼には、その面影はなかった。
(勝家様の様子が……変だ)
昨日、加賀美という謎の浪人とすれ違ったあとから、勝家は目に見えて険しくなっていた。軍議の場でも言葉は少なく、神谷悠真に向ける視線には明確な棘があった。
(殿の意図は……何だ? 神谷殿を信じておられるのか、それとも……)
利家は、武人である前に一人の人間として信じたいと思っていた。信長の見抜く力を、そして神谷悠真という異質な存在に込められた何かを。
だが、それが“願い”であることに、彼自身が気づいていた。
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一方、悠真は兵舎裏の井戸のそばで、木桶に水を汲んでいた。まだ冷たい朝の空気が肌を刺すように感じる。
(……勝家さんの目が明らかに変わった。疑われてる)
名指しされていない。言葉も交わしていない。だが、人の視線というものは、何よりも雄弁だった。
信長には受け入れられた。お市様も、少しずつ理解してくれている。だが——
「……城の中で、信頼されるって、こんなにも難しいんだな」
呟いた言葉は水音に溶け、誰にも届かない。
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その日の昼、信長は数名の重臣を前に座していた。
勝家、利家、丹羽長秀、そして神谷悠真——重苦しい空気が広間を包む。
「神谷。次の進軍計画に、何か意見はあるか」
その問いに、悠真はほんのわずかに戸惑った。ここで発言すれば、また疑念の火に油を注ぐ可能性もある。しかし——
「はい。今川の残党が北へ逃れたという報せがあります。山道を通る可能性が高く、補給線を狙っての奇襲が考えられます」
「ふむ」
信長は短く頷いた。
その横で、勝家の腕が微かに組まれるのが見えた。
「なぜ、そこまで読めるのだ。地形も、敵の思考も——まるで見てきたかのように」
抑えた声で放たれた勝家の問い。
それはまるで「なぜ未来を知っているのか」と問う一歩手前だった。
「……読んでいるだけです。想像力の範囲内ですよ」
「想像でここまで語れるものか。そなたの知識は、どこから来る」
その瞬間、空気が鋭く張り詰めた。
「——勝家」
信長の低い声が割り込んだ。
その声には、静かな威圧が込められていた。
「問いただすのは容易い。だが、それが忠義とは限らぬ。
そなたは、疑うために仕えるのか? それとも、守るために仕えるのか」
勝家は唇を噛みしめたまま、何も言わなかった。
沈黙の中、信長は立ち上がり、皆の視線を払うように歩き出す。
「人は皆、知らぬものを恐れる。だが、恐れだけでは時は動かぬ。
神谷は我が客将だ。——それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉に、場がようやく緩んだ。だが、完全に疑念が払拭されたわけではない。
むしろ、それは新たな分断の種を蒔いたに過ぎなかった。
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その夜、お市様は一人、廊下を歩いていた。
薄暗い回廊。灯りのゆらめきが彼女の表情を不安げに照らしていた。
(兄上は……本当に、神谷様を信じているの?)
悠真と交わした会話の中で、確かに彼の思いは真っ直ぐだった。
けれど、それを全面的に信じてしまえば、逆に見えなくなるものもあるのではないか——そんな疑念が、微かに胸に芽生え始めていた。




