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第23話:揺れる忠義

「勝家殿。ご機嫌麗しゅうございますな」


 その声に、柴田勝家は眉をひそめた。

 廊下の角から現れたのは、痩せぎすで目元に陰のある男。名を明かさず、ただ「浪人」とだけ名乗るその男——加賀美だった。


「貴様か。何の用だ」


「用など……ただ、殿のために働くお姿を見て、感服いたしました。

 それゆえ、どうしてもお伝えしたいことがあって」


「まわりくどい。言え」


「——神谷悠真は、殿の命を狙っております」


 その言葉に、勝家の足が止まった。周囲には誰もいない。

 だが、声はまるで火を灯したように、彼の中でくすぶる疑念を刺激した。


「根拠はあるのか」


「証拠なら、いくつか。あの男が触れた地図、語った戦術、すべてが“未来”を知っていなければ出てこないもの。

 それを殿は“奇才”と評したが、私には“異端”にしか見えませんな」


「それがなぜ、主君の命を狙うことになる」


「未来を知る者が、過去を歪めたらどうなります?

 殿がご自身の意志で行動していると思われますか? いずれ、神谷に導かれるまま、未来を変えることになる」


「……くだらん」


「それでも構いません。ですが、もし……“変わってしまった未来”が、殿の死を呼ぶとしたら?」


 その言葉に、勝家の心臓が強く脈打つ。

 加賀美は一礼すると、何事もなかったようにその場を去っていった。


(殿は……本当に、神谷を信じておられるのか?

 我らが血を流し、築いてきたものを……すべて、あの得体の知れぬ若造に預けるのか?)


 胸の中で、忠義が揺れていた。



 一方、悠真は庭の縁側に腰を下ろしていた。

 ここに来てから、戦、会議、疑念、試練——慌ただしい毎日の中で、ほんの一瞬の静寂だった。


「神谷様」


 振り返ると、そこにはお市様がいた。

 その手には、湯気の立つ湯のみが二つ。


「……よろしければ、お茶をどうぞ」


「ありがとうございます。助かります」


 二人は並んで腰を下ろし、しばし無言で茶をすする。

 夜風が吹き、庭の松がさらりと音を立てた。


「兄上と、何か話されましたか?」


「……ええ。少しだけ」


 悠真は茶を見つめたまま答える。


「信長様は、やはりすごい人だと思いました。

 人を見抜く力も、時代を変える意志もある。……けど、それゆえに孤独です」


 お市様は驚いたように目を見開いた。


「兄上が……孤独?」


「はい。強い人ほど、誰にも頼らないから。

 でも、だからこそ、近くにいる人が支えなきゃいけない。……信じて、支えてあげる人が」


 お市様は、そっと湯のみを置いた。


「……神谷様は、兄上を支えたいと思っているのですか?」


「俺にできることなら、何でもするつもりです」


 その言葉に、お市様の瞳が少し潤んだように見えた。


「……では、私も、神谷様を信じます」


 悠真は、ふとお市様を見た。

 その眼差しは、迷いなくまっすぐだった。

 かつて自分を訝しんでいた、あの鋭い視線とは、明らかに違っていた。



 その夜の奥座敷。


 信長は火鉢の前に座り、一枚の和紙に目を通していた。

 そこに記されていたのは、名もなく、出所も不明な密やかな“報告書”だった。


「……勝家が、揺れ始めたか」


 信長は紙を燃やし、目を閉じた。


「名も顔も知れぬ影だ。探れ。何者が糸を引いているのか」



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