第19話:戦場の匂い
甲冑の音。馬の嘶き。血の匂い。
神谷悠真が初めて足を踏み入れた“戦場”は、思っていたよりもずっと静かで、けれど確かに“死”が転がっていた。
「ここは……」
言葉を失ったまま、悠真は信長の後ろに従って歩いた。
戦はすでに終わっていた。斥候の情報通り、敵の小勢が侵入してきたのを奇襲で叩いたという。
が、そこには、無数の命の残滓が転がっていた。
「初めて見るのか? 戦の“あとの姿”を」
信長が、振り返らずに言った。
「……はい」
「これが現実だ、神谷。人は死ぬ。理由もなく、時には誇りを捨ててすら、な」
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ひとりの敵兵が、まだ息があった。
若い。自分とそう歳は変わらないように見える。
が、その目には恐怖も、懇願も、何もなかった。ただ空虚な色。
「こいつをどうするか、そなたに決めさせようか」
信長が無表情で言った。
まるで悠真がどう反応するか、試しているように。
「どう……って……」
「逃がせば、また敵となろう。斬れば、そなたの手に血がつく。
それでも、選べ」
悠真の手が震えた。
(これは……“歴史”じゃない。俺の選択なんだ)
「……できません。俺には、まだ……覚悟がない」
震える声で、そう答えるのが精一杯だった。
信長はしばらく黙っていたが、やがて手を振って兵を呼んだ。
「斬れ。戦とは、覚悟なき者にとって地獄でしかない」
乾いた音が響き、悠真は目を背けた。
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その夜。
悠真は焚き火の前でひとり、じっと掌を見つめていた。
あの命を救うことも、奪うこともできなかった自分の手。
「お前は、優しいのか、臆病なのか……」
ぽつりと声がして顔を上げると、お市がいた。
膝を抱えて、火を見つめている。
「兄様はね、人の命を“秤”にかけることがある。でも、それは……昔はできなかったの」
「……そうなんですか?」
「うん。あの人も変わったの。利休様に出会ってから」
その名前が再び出た。
信長が“変わる”きっかけとなった人物。
そして今、悠真自身も変わろうとしている。
「私、信じてます。神谷様は、変われる人です。……ちゃんと、自分で選べる人です」
その言葉が、炎よりも温かく胸に染みた。
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一方その頃、城下のとある屋敷では。
加賀美が、書状を手に静かに笑っていた。
「織田家に忠誠を誓う者ほど、脆い。……“信頼”と“正義”をぶつければ、すぐに軋む」
彼の視線の先には、ある家臣の名が記された文があった。
「次は……あの者に火をつけようか。信長と神谷を分断するには、あの男が適任だ」




