第18話:揺れる心、揺さぶる者
「戻ったか、神谷」
織田信長は、書状に目を通しながらも、確かに悠真の気配を感じ取っていた。
「はい。ただいま戻りました。……村は、かなり厳しい状況でした。
井戸が枯れかけ、農地も荒れて。補給が遅れているようで……」
「そうか」
信長はそれ以上何も言わず、静かに筆を置いた。
「そなたに、あの任を任せたのは……ただの試しではない」
悠真は、思わず顔を上げた。
「試しでは……ない?」
「儂は昔、人に言われたのだ。『人は人の中でしか磨かれぬ』とな。
——千利休。変わった男だったが、言葉には芯があった」
信長が“誰かの言葉”を引用するなど珍しい。
その横顔は、いつになく柔らかかった。
「己を見失っていた頃の儂に、利休はこう言った。
“戦の道ではなく、生の声を聞け。それが未来を繋ぐ”と」
それは、まるで悠真に言っているようでもあった。
「……神谷。そなたは不思議な男だ。時に脆く、だが見ようによっては鋼の芯がある。
その芯が、どこに向かうか——それを見てみたいのだ」
悠真の胸に、静かだが確かな火が灯った。
(俺は……ただ守られているだけじゃない。何かを託されている)
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その夜。城の一角、人気のない渡り廊下。
お市はひとり、月を眺めていた。
遠くで虫の声が響く中、彼女の胸にあったのは、拭いきれぬ“もや”だった。
(兄様は……何かを抱えている。誰にも言えない何かを)
あの沈黙。あの鋭さ。
そして、神谷悠真という男への、言葉にはできない特別な扱い。
「——揺れてますね、心が」
背後から、柔らかな声がかけられた。
「……誰?」
振り返ると、灯の影に立つ男がいた。
凛とした佇まい。けれどどこか影を感じさせる雰囲気。
「私は、ただの通りすがりです。
……ただ、大切な人が苦しむ姿を見るのは、辛いものだと思いまして」
お市は答えなかった。ただ、その声が奇妙に耳に残った。
「もし、お困りのことがあれば……私はいつでも、力になりますよ」
そう言って男は静かに去っていった。名乗ることもなく。
(……今の、誰?)
胸の奥に、得体の知れないざわつきだけが残った。
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加賀美は月明かりの中、静かに手の中の扇を開いた。
そこには、織田家の“人間関係”を記した見取り図。
次に揺さぶるべき“心”に、そっと赤い印がつけられていた。
「織田信長の妹——お市。
彼女の揺らぎは、この城を軋ませるには十分な力を持っている」
闇の中、加賀美の目だけが、不気味な光を宿していた。




