第16話:偽りの絆
その日、神谷悠真は信長の命により、城内の文庫整理を任されていた。
雑用とはいえ、城の内部に深く入り込めるこの役目は、むしろ信任の証とも取れる。
(信長様は……少なくとも、まだ俺を排除しようとは思ってない)
だが、それでも悠真の胸に渦巻く不安は拭えなかった。
どこかで誰かが見ている。そんな視線の気配が、背後からずっと付きまとっているように思えた。
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その夜——。
廊下を歩いていた悠真は、ふと人影を見つけた。
灯りも持たず、ひとり静かに庭を眺めていた男——明智光秀だった。
「……神谷殿、夜分にすまぬな。少し、話してもよいか?」
優しげな声音。だが、目は笑っていなかった。
「はい。もちろん」
二人は縁側に並んで腰を下ろした。しばしの沈黙のあと、光秀がぽつりと口を開く。
「先の件……密告文の一件で、私は少し思うところがあってな」
「……それは、俺が疑われた件ですか?」
「いや……違う。あの文が、誰にとって都合のいいものだったのかを考えていたのだ」
光秀の声はあくまで穏やかだったが、言葉には妙な重みがあった。
悠真は思わず身を固くする。
「私が“内通”しているなどという虚言……その文が出回ったことで、誰が得をしたか。
誰が“真に疑われるべき人物”なのか……そう考えたくもなるだろう?」
「……どういう意味ですか?」
「私ではない。だが、そうでないと証明する術もない。
信長様はお見通しだ。だが、人は皆、目に見えるものに囚われる」
言葉の中に、不可解な含みがあった。
まるで——“お前こそ疑われるべきだ”と暗に告げているようにも感じられた。
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翌朝、噂が城内を駆け巡った。
「明智殿が、神谷殿と密かに会っていたらしい」
「やはり、あの文書……両者に何か繋がりが?」
「今川と通じていたのは……まさか」
誰が広めたのかも分からぬまま、噂は形を持たないまま拡散していく。
否定しようにも、証はない。
そして、光秀本人は——一切の言及をせず、沈黙を守った。
(……あの人は、味方じゃない。けど、敵とも言い切れない)
悠真は徐々に、言葉の裏に潜む“恐ろしさ”を知り始めていた。
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一方、城の別棟。
お市は、兄・信長の執務室の前で立ち止まっていた。
扉の向こうから聞こえる、短く、鋭い声。
誰かに命を下しているようだった。だが、その言葉が終わると、妙に長い沈黙が続いた。
(……兄様、何を考えているの? どうして、何も仰らないの?)
ふと感じた、かすかな違和感。
それは兄への信頼が揺らいだのではなく、**「兄が何かを隠している」**という確信に近かった。
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その夜、城の外れ。
加賀美は低く笑っていた。目の前の文机には、すでに用済みとなった密告文の写し。
「信頼を壊すには、真実は要らない。……疑いと、沈黙さえあればいい」
彼の口元は笑っていたが、目は冷たかった。
「さあ、織田家の内側から、崩していこうか。
——神谷悠真、お前が生き残れるかどうか、見ものだな」




