第14話:影の罠
雨の前触れのように、空気がどこか湿っていた。
神谷悠真は、朝の稽古のあと、城の庭先で一息ついていた。
昨日は柴田勝家に組太刀をつけてもらい、今日は木下藤吉郎に口の悪い指南を受けた。
彼らの態度には表面的な柔らかさはあるが、心の奥までは届いていない。
(信長様が信じてくれてることだけが、今の自分の立ち位置だ)
そう思っていた矢先、城内に緊急の呼び出しがかかった。
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「……神谷、そなたがこの書状を出したという証はあるのか?」
軍議の間。前田利家の鋭い視線が悠真を貫いた。
手元には、一通の偽書。
“明智光秀が密かに今川と内通している”という虚偽の密告文——
しかも、その文末に記されていたのは、神谷悠真の名だった。
「俺じゃありません。そんな文、見たこともない」
当然のことを言ったつもりだったが、部屋の空気は冷え切っていた。
「そのような言い逃れ、誰にでもできますな」
利家が冷ややかに言うと、他の家臣たちも視線を落とす。
口には出さずとも、疑念は確実に広がっていた。
(まずい……)
悠真の喉が、ひりつくように渇いていた。
この時代に生きる者たちにとって、「正体が分からぬ者」は、それだけで脅威なのだ。
だが、静寂を破ったのは信長だった。
「利家、その書状……どこで手に入れた?」
「城下の文士より密告があり、回収しました」
「文士の名は?」
「名乗らぬまま、姿を消したと……」
信長は目を細め、書状を手に取ると、しばし無言のまま見つめた。
そして、ふっと笑う。
「紙は新しい。墨も乾ききっておらぬ。……おおかた、今朝方書かれたものだろうな」
「で、ですが!」
「……利家」
信長の声が、低く、通った。
「証もなく、行動を起こすな。それがどれほど軽率なことか……そなたほどの男が忘れたか?」
利家は肩を震わせ、口をつぐんだ。
その瞬間、悠真の胸の奥で、熱のようなものが湧き上がった。
庇われた、というより——見透かされたような気がした。
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軍議の後、信長は一人、縁側に座って空を見上げていた。
傍らには誰もいない。けれど、そこには確かな“過去”の影があった。
「……利家の言も、間違いではない」
そう呟いた信長の脳裏に浮かぶのは、かつての自分——
父・織田信秀の影に怯え、周囲から“薄気味悪い”とささやかれていた少年の頃。
異端。異物。得体が知れぬ——
その視線に晒され続けた彼を、変えたのは、ひとりの男だった。
「千利休。……儂に“己を生きろ”と説いた変人め」
誰に向けたともない呟き。
悠真に感じたのは、ただの興味ではない。
かつての自分を思い出させる、どこか放っておけない“歪さ”だった。
それが正しいかどうかは、まだわからない。
けれど——
「信じておるわけではない。ただ、似ているだけだ。あの頃の儂に……」
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その夜、町外れの寺。
灯もない本堂の中で、加賀美は静かに書状を燃やしていた。
書き終えたばかりの密告文。
それは、もう“役目”を終えた。
「ひとつ目の種は蒔いた。信じるか、疑うか。……揺れる心が、もっとも脆い」
火が書を飲み込むのを見届けると、彼は立ち上がった。
「さあ、“歴史の綻び”を引き裂いてやろう」
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一方、城の奥でお市は、縁側に静かに座っていた。
風もなく、虫の声もない、沈黙の夜。
胸の奥に、言葉にできない違和感が渦巻いていた。
(何かが……ずれていってる)
誰もが気づかぬふりをしている。けれど確かに、城の中に、空気の揺らぎがある。
お市は、そっと掌を胸にあて、静かに目を閉じた。
(あの人が、傷つくようなことがなければいいけれど……)
それが悠真に向けたものだとは、まだ自分でも気づいていなかった。




