オデットの受難(1)
ここ数日、前世の夢は見ない。
実のところ、ベッドに入り目を閉じて、いつの間にか意識がなくなって、眠っているという実感がないのだけれども。
ただ、起きたときにあの嫌な記憶を思い出さなくて、それだけでも良かった。
「お姉さま……」
ミルリィは最近、ミズリィの朝食の時間には必ず起きてくる。学院の朝は少し早いので、本当なら妹ほどの年齢なら眠っていても構わないのだけれど。
「あら、お顔が変よ。どうしたのかしら」
「ミズお姉さまも変よ。どうなさったの?」
「私はなんともなくてよ?」
一体、何を気にしているのか、ミルリィは食卓に並んだ自分の分のスープに手を付けず、じっとミズリィを見ている。
「うそよ。お姉さまは私に……ううん、お父さまにも隠しごとをしていらっしゃるのでは?」
「そんなことはないわ」
隠しごとというほどでもない。言えないことがあるだけだ。
しかし、ミルリィにはそれが大変なことのように見えているらしい。
「心配してくれてありがとう。でも、本当に大丈夫よ」
「お姉さま……」
「行ってまいりますわ」
立ち上がり、ミルリィのそばに寄って、その小さな頭を撫でる。
「今日はマナーの日でしたかしら。頑張っていらしてね」
「お姉さまも、お勉強を……いえ、ご無理はなさらないで」
不安そうな緑色の瞳に、胸がチクリとした。
最近欠席が多いオデットだけれども、今日は学院に朝から来ている。
スミレやイワン、それと本人の希望で正規のカリキュラムとは違うものを取っている、かなり忙しいメルクリニも揃っている。
アリッテルの一件以来、たくさんの人が囲みに来ていたが、この2、3日で落ち着いてきた。
「人の噂も75日ってね」
「なんですの、その言葉は」
「東洋の格言? でしたっけ……?」
「さすが! スミレはなんでも知ってるね」
「これはたまたまです……噂は75日過ぎてしまえば、みんな忘れてしまうので、転じて誰もがそのうち興味を無くすっていうことですね」
「75日もないけど、もう他のことに気が向いてしまったんだろう」
「勉強になりますわ……」
ミズリィはそもそも噂だとか、聞こうともしたことがなかった。社交界で特別必要なことはイワンが教えてくれていたし、誰がどうした、こうしたという話は面白いとは思ったことがなかったので。
「じゃあ、私は騎士科の方に用があるから」
メルクリニは放課後になって、ひとり別れた。
ほかはクラブの課外活動もないらしく、全員揃って帰宅の馬車の停留所へ向かう。
「そういえば、スミレってお名前は東洋の言葉よね?花の名前でしたかしら」
歩きながら、オデットがふとそんなことを言った。
ミズリィは初めて聞いたことだった。不思議な響きの名前だとは思っていたけれど。
「まあ、そうなの?」
「あ、ハイ。実は曾祖母の名前から取ったのですが……東洋の人だったみたいです。たしか、移民とか」
「どんなお花かしら」
スミレは苦笑した。
「こちらで言うヴァイオレットです」
「なるほど、ですからスミレなのね」
「安直ですよね、嫌いではないですけど」
肩で揺れるスミレ色の髪をつまんで、スミレ。
「優しいお色で、わたくしはとても好きですわ」
「あ、ありがとうございます……」
少し頬を赤くしたスミレは、さっと髪を払った。
「ミズリィ様も瞳がきれいな紫ですね。やはり魔力の関係ですか?」
「ええ、母と一緒の色ですわ」
「紫は魔力が強い家系に出るはずだよね、公爵家の縁者はやはり貴族だから……スミレは、その曾祖母が魔術師だったりするのかい?」
口元に手を当ててイワンは思案げだった。
「……さあ、そういえば聞いたことがありませんね。遺伝はそうなんでしょうけれど、私自身も魔力量は少ないですし、父はからきしですからうっかりしていました」
「魔術師の家系なら、貴族ではないの?」
それとも、父親が魔力がないため爵位が剥奪されたのだろうか。
あまりないことだけれど、過去に数回、生まれてくる子供が一切魔力がなく、貴族から下げられて平民になった家門もあるらしい。
スミレは困ったようにオデットとイワンを見た。
「えっと」
「……多分、歴史をちゃんと覚えていないから中途半端な解答になっちゃったんだな」
「イ、イワン様」
「うふふ、かわいいわねぇミズリィもスミレも」
「……つまり、わたくしはまた何か勘違いをしているのね?」
「では、復習がてら、このホーリース帝国の歴史を語ろうか」
イワンは得意げに手に持っていた教科書を持ち上げた。
ホーリース帝国は、500年ほど前に建国した。
教会の総本山であるテクリク・リス――教皇がおわす教会や修道院があり、信者が住まうその聖地から、神の予言を受けた修道士が一人、10人の修道士を連れてやってきたのが当時荒れた土地だったホーリースだ。
小国がひしめいて、戦争や内紛に絶えず焼かれ、農作物は実っては奪われ、人は戦と飢えで死んでいく。
そこに、予言を受けた修道士――預言者が小さな祠を建てた。
毎日お供えする酒やパンは、すぐに盗まれ、祠も壊される。しかし諦めず預言者は毎日祠を作っては供え続けた。
やがて、その祠を中心に小さな集落ができた。施しに感謝し、祠を守ろうとする人々が自然と集まったのだ。
数年後、集落で初めて生まれた子が、初代皇帝バザイ・ソーダである。
「ソーダ? アメジストではなくて?」
「ソーダが初代王朝の皇家の名さ。アメジスト……今の皇家は3つ目の王朝。確か、ソーダの末娘と最初の十修道士の子孫……だったかな。皇帝陛下はアメジスト家の17代目当主、ホーリース帝国皇帝としては22代目」
「……?」
「本題はそこじゃないからまた教科書を読んでね……」
神はその一部始終を見ておられ、十修道士と、バザイとその兄弟、バザイの妻、双子の息子に祝福として魔力を与えた。
魔術師となった彼らは土地を豊かにするため、魔法を使って、焼けて枯れきっていた山や草原を再生した。実りも多くなり、国として成り立った。
それを妬んだ周囲の国々は、侵攻し略奪しようとしたが、強大な力を持つバザイたちには太刀打ちできなかった。
悪魔を召喚し襲った国もあったが、それも打ち破ったバザイは、とうとうホーリースを平定した。
「悪魔――」
その言葉に、どきりとした。
悪魔については、少し調べた。
どんな存在なのかは結局よくわからないらしい。
どんな形をしているのかわからない、動物や人に化ける力もあるようで、敬虔な神の信徒をそそのかし、悪の道に落したり、または襲いかかって呪ったり殺したり。
どれだけいるのか、なんのためにそんなことをするのかもわからないが――神を冒涜するものであるのは間違いないと、どの書物にも書いてあった。
「実際のところはよくわからない、いわゆる伝説だけどね」
イワンは考え込んだミズリィに、どうしたんだ、と声をかける。
「いえ……そんなことがあったのね」
「伝説だから、本当かどうかはわからないよ」
スミレは何故かオデットを気にしているが、彼女は肩をすくめて笑っている。
「で、魔術師が貴族なのはそういうことさ。国を作ったときに神の祝福を受けたバザイ皇帝の家族と十修道士が、そのまま貴族になった。僕らはその子孫ってことだな」
「つまり、魔術師が貴族というのは……最初の皇帝の家族と修道士たちの血縁だからで、それ以外は魔力を持っていても貴族ではない?」
「そういうこと。だから、スミレの曾祖母の東洋人が魔術師でも、移民だったら貴族にはなれなかっただろうね」
「では、平民で魔力がある人はそういった移民なのかしら。あら、でも魔術師は他の国にもいらっしゃるのよね……?」
初代皇帝たち以外にも、魔術師がいるということだ。
「ホーリースの魔術師は、神の祝福を受けた者ってことで特別だ――ということになっている。だから特別階級の貴族なんだ。ただの魔術師ならそれこそ人類が誕生したときからこの国以外でも、どこにでもいるさ」
「人……は、いつ生まれたのかしら」
「それはわからないよ、まだ。学問が進んでいないから」
「? そうなの」
学問が進んでいないと、分からないことはあるのか。
スミレは持っていた歴史の本を眺めながら、ポツリとつぶやく。
「ですが、移民は管理されていますし、この国で魔法を使えるのは確かに貴族の方々だけなんですよね……」
「魔力の有無は血筋で間違いないのはトランタのランピエイル博士の論で言われているし、建国の伝説も間違いじゃないと思うんだ……でも、平民で突然魔法が使える人が出てくるのも本当なんだよね」
「30年前に男爵になられたモマート様は、奥様が子爵家だからもありますけど、当主のご令息は今は魔術師団の部隊長でいらっしゃいますわねぇ」
「逆に10年前に、ピーチドルット伯が――」
「そういえば、普通クラスのゲイペルが――」
「でも、去年のニーオールで――」
「――」
ミズリィの理解力は、友人たちの半分以下だということは自分でもわかっているけれども。
(全然わかりませんわ……)
わからないことが不利なのは、前世のことでよく身に沁みた。
すこしでも、と勉強をしてみたが、悪魔について調べただけで、まだ何もわかっていない。
そもそも、悪魔について、何を調べればよいのだろうか。
「……っと、ごめん、ミズリィ。少しはわかったかな」
「ええと……あら? 何を教わりたかったのだったかしら」




