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01 バースデー

 ショットバーは、ずっと僕の憧れだった。

 その店は、繁華街の中心道路をひとつ外れた突き当りにあった。たまに扉が開いており、そこから見えるのは狭いカウンター席と、天井まで積み上がったボトル。白いシャツに黒いベストを着た、ショートヘアーの女性マスターが一人。初めて入るなら、この店だと僕は思っていた。

 そして、二十歳の誕生日の日。土曜日の夜八時。自宅で夕食を済ませてからそのショットバーへ向かった。扉は開いており、まるで僕が来ることをわかっていたかのようだった。奥に一人、男性客が腰かけており、彼の吸うタバコの匂いがした。


「いらっしゃいませ」


 マスターは、僕の顔を見ると、少し眉を動かした。


「済みません、お客様。何か年齢を証明できるものはお持ちですか? こういうご時世なもので……」

「あっ、はい」


 僕は財布から保険証を取り出した。童顔なのは自覚していた。こうした質問も想定内だった。マスターは保険証を眺めると、こう言った。


「十月一日生まれ……今日ですか?」

「はい」

「ハッピー・バースデー」


 マスターはふんわりと微笑むと、中央の方の席を手のひらで示してくれた。ここの椅子には背もたれがない。僕は腰かけると、すっと背筋を伸ばした。マスターはあたたかいおしぼりを出して言った。


「ご注文はいかがいたしましょうか?」

「ビールをお願いします」

「かしこまりました」


 サーバーからビールがグラスに注がれた。マスターは余分な泡をバースプーンですくいとり、コースターの上に置いてくれた。僕はその一連の動作を黙って見ていた。


「いただきます」


 泡の感触を確かめながら、少しずつ、ゆっくりと。ビールは僕の胃にすとんと落ち、とても心地が良かった。奥に居た男性客が話しかけてきた。


「今日、誕生日なんだって?」

「はい」


 男性は、三十代くらいに見えた。癖の無いショートの黒髪で、パーカーとデニムというラフなスタイルだった。こういう場だからと思って、僕は白いシャツにベージュのカーディガン、黒いパンツを履いてきていたのだけれど、彼の恰好を見る限り、ここはそこまで形式ばらなくても良かったのではと思った。男性はこう続けた。


「おめでとう。二杯目は俺から奢るよ」

「いえ、そんな。今日出会ったばっかりの方に」


 すると、マスターが僕に言った。


七瀬(ななせ)さんは誰彼構わず奢る方じゃないんです。誕生日だし、特別なんですよ」


 ナナセと呼ばれた彼は、にっこりと微笑んだ。


亜矢子(あやこ)さんの言う通り。ここで出会えたのも何かの縁だしね」


 マスターの名前はアヤコさんというのか。黒髪で清楚そうな彼女にぴったりの名前だと思った。僕は彼らに会釈すると、もう一口ビールを含んだ。そして、思い切って尋ねてみた。


「七瀬さんは何を飲まれているんですか?」

「俺? ハーパーソーダ。いつもはアイリッシュウイスキーだけど、今夜はそんな気分でね。君、何て呼んだらいい?」

中野葵(なかのあおい)です」

「アオイくん? 綺麗な名前だね」


 本当は、この名前は好きではなかった。かなりの確率で女性と間違われるし、葵という字面も高貴すぎて僕には似合わない。でも、素敵だと言われると素直に照れてしまうのは事実だ。僕は思わず七瀬さんから目をそらした。会話は続いた。


「葵くんは大学生?」

「はい。二年生です」

「誕生日の夜だっていうのに、彼女とかいないんだ?」

「い、いないですよ」

「へえ? カッコいいのになぁ」


 男性からそんな風に言われるのは初めてだ。僕の顔は十人並みだと思う。唯一目立つのが、色素の薄さで、この茶髪は生まれつきだ。肌も青白く、日に当たるとすぐに赤くなってしまう。僕は言葉を探した。こんな風に褒められたときの返事を僕は持ち合わせていなかった。助け舟は亜矢子さんから出た。


「七瀬さん。初対面の若い子に恋人の有無を聞くのは無作法ですよ」

「ははっ、悪い悪い」


 七瀬さんは髪をかきあげた。その仕草が何とも色っぽくて、僕はますます言葉を失くした。それで、とりあえずビールを飲んだ。七瀬さんはタバコに火をつけ、亜矢子さんに全く別の話を持ちかけた。


「亜矢子さん。あの後初音(はつね)さん、どうなった?」

「初音さんですか。仕方がないので、わたしが大和(やまと)さんを呼びました。二人で帰っていかれましたよ」

「そりゃ良かった」


 知らない名前がどんどん出てきた。七瀬さんという人は、ここの常連なのだろう。彼はもう一杯、ハーパーソーダを注文した。僕のビールは半分くらいになっていた。次は七瀬さんに奢ってもらう流れになってしまったが、何を頼めばいいだろう。ここに来るまでは、二杯目はジントニック辺りのシンプルなカクテルを注文しようと思っていたのだが。

 僕は視線をさまよわせた。ずらりと並ぶボトルは、薄暗くてどれも名前が読めなかった。そもそも僕がお酒にはまだそこまで詳しくないというせいもある。これから、覚えていきたい。亜矢子さんが言った。


「改めて、誕生日おめでとうございます。大事な日に、うちの店を選んでいただけて光栄です」

「こちらこそ、ありがとうございます。初めて来るならこのバーだって、ずっと決めていたんです」

「ふふっ、嬉しいです」


 まだ夜は長い。僕は晴れて二十歳になった。大人の付き合いというものを、してみようじゃないか……。


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