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Phantom  作者: えご
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巣tress

   《 Stress 》

 ――― 生体に、外傷・中毒・寒冷・伝染病・精神的緊張などの刺激が加わったとき、生体の示す反応。俗に、精神的緊張。





 僕は家の玄関の前で立ち止まる。正直、家には帰りたくない。

 父さんの望んでいない回答は例えそれが些細な取るに足らないようなことでも、それが父さんの怒りの起爆薬となって殴られる。母さんに少しでも助けを求めようものならば、面倒くさいと切り捨てられる。一挙一動、僅かな言葉ひとつさえ、全てが死に繋がりかねない。この家に安堵や安らぎは微塵も無く、そんな緊張感だけが胃のあたりをぐるぐるとのさばっている。

 この家は、昔からそうなのだ。

「ただいま」

 僕は玄関の鍵を開けて家に入る。僕の言葉への返事はいつも通り無い。けれど、それでも一言「ただいま」と言わなければこれが父さんの怒りの琴線に触れ、「挨拶もロクに出来ねえ愚図が」と殴られる。これは過去に二度三度あったから学んだ。

 それから僕は自室に直行して制服から部屋着に着替える。どうやら父さんは学生時代にあまり良い記憶が無いようで、制服を見るとそれを思い出すと言う。それ故か、前に何度か僕が制服姿のままリビングにいると「俺に嫌なことを思い出させやがって。なんの嫌みだ」と言って殴られた。

 部屋着に着替えた僕はリビングに行き、帰りがけに買ってきたコンビニのおにぎりを食べる。「作るのが面倒」ということから、いつも千円だけが机の上に置いてあり、僕はそれで毎日食べるものを買っていた。大抵父さんや母さんは僕が帰ってくる前に食べ終えていて、食べる時間が合わないので僕は一人で食べる。

 思えば、いつからか僕は両親と食卓を共にした記憶が無い。

 機能不全家庭。それがきっと僕の家族の名前だ。

 父さんと母さんは二人ともソファに座っていて、父さんはテレビを、母さんはその横で雑誌を読んでいる。正直なところ、一人で食べるご飯に味を感じたことはない。一口、また一口とそれらをポツポツと口に運び、まるで作業のように飯を食う。餌付くのを堪えて固まった糊のような米を喰む。咀嚼、咀嚼、咀嚼。飲み込む。これを繰り返すだけのこと。僕にとって食事は、もうずっとただの栄養補給するための作業でしかない。

 ごちそうさまと小さく言って席を立ち、空虚な作業の残骸をゴミ箱へ捨てた。捨て終えて、僕は風呂場に向かう。

 脱衣所の戸を静かに閉めて、僕はホッと胸を撫で下ろした。ようやく少し気が抜ける。風呂に入っている間は一人だから、あんまり長い時間を入っているようなことがなければ何か言われたりすることはまず無い。その日の疲れを無理矢理拭い去るように、僕はシャワーを体に当てた。

「疲れた」

 ふと口を衝いて出た言葉が風呂場に響く。こんな家のことを誰かに話せるわけも無く、学校では必要最低限に明るく振る舞う。家へ帰れば理由(わけ)も分からずに殴られて疎まれて、それが嫌だから行動と言動に細心の注意を払ってただ息をする。

 こんな僕の人生に、果たして何の意味や価値があるのか。ずっと死んでしまいたいなんて思っている。

 もう、疲れた。何も考えたく無い。何も感じたくない。何で僕は生きているんだろう。

 もしも僕が本当にファントムだったら、今すぐ誰彼構わずその首に縄をかけて吊るし上げるだろう。……いや、誰彼構わずというのは訂正しよう。少なくとも天使ヶ原や慶人、それから朝陽には明るいところで生きてほしい。そんなことを考えながら冷めた湯船に浸かる。

 風呂から上がった僕は、ドライヤーで素早く髪を乾かして歯を磨いた後、一度リビングに戻り「おやすみなさい」と一言言ってから自室へ戻った。布団に横たわり、読みかけの本を開く。その本の内容は少し説明が難しくて、簡潔にどういうものというのは上手くは言えない。その日僕が読んだのは「悪いこと」を道徳と倫理に反した「悪」であると理解しているのに、それを「間違い」だと思わない頭のイカれた女が、主人公の部下である女性の四肢を生きたまま鉈で切り落としながら嗤う。その様子を主人公にスマホのビデオ通話で生配信しているという場面だった。


 イカれた女が言う。


「私、悪いこと大好きなんです」

「これはきっと悪いことですね」

「あなたは正しい人だから、きっとやめろって言うわね。止めるわね」

「ねぇ、見て? よく見て? 私を見て? この子を見て?」

「正しいことが好きなあなた。悪いことが好きな私。同じ人間なんだから、私達きっと何も変わらないわ」

「ねぇ。「正しい」って、果たしてなんですか?」


 活字を読む目が、どんどん下へ左へと滑っていく。

 女が鉈を振り下ろして、遂には部下の女性の首を落とした。主人公の嗚咽と女の無邪気な血塗れの笑顔が、活字越しに脳幹を焼き貫いてくる。


 ああ、この女。楽しそうだな。


 その時、何故だが少しだけ胸がスッとした気がした。自慰には満たないが、それは確かに僅かな快楽だったのを僕は憶えている。

 僕はまたページをめくった。

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