腐ragile
《 Fragile 》
――― 脆い、壊れやすい。脆弱。
あぁ、今日も世界に音が多すぎる。羽虫の交尾みたく人が行き交う様に反吐が出る。
僕はこの昼休みの喧騒が嫌いだ。沢山の音と無数の声が混じり合う。吐き気がする。全く気が狂いそうだ。
そう思っていると、よく聞き慣れた声に話しかけられる。
「綺礼、お前また顔色悪いぜ。アレか、例の貧血か」
「っ……慶人」
話しかけてきたのは宮彦 慶人。小学生からの付き合いで、親友だ。サッカー部のエースストライカーで頭も良く、その上に人当たりも大変良い。僕なんかとは違って底抜けに明るくて、男女問わず人気がある。
「ったく、ちゃんと鉄分と栄養あるもん食ってんのか? どうせ今日もカロリーメイトしか食ってねぇんだろ」
「ん……バレたか」
「はぁ、だからお前は……ほらよ」
そうため息混じりに言うと、慶人は僕に何かを手渡してきた。
「これは……」
「鉄分ジュース。どうせ綺礼がまたまともに食わねぇんだろうなって思って、持ってきといて正解だったよ」
「あ、ありがとう」
僕は慶人から紙パックの鉄分ジュースを受け取り、背面に付いているプラストローを取り出して飲み口のところに突き刺す。吸ったときに僅かにズッという音がした。
「どうだ、先週のはあまりにも鉄臭いと言われたから、今日はヨーグルトテイストの物を買ってきたんだけど……それなら平気か?」
ん? そう言われてみれば確かに、先週もらった物よりずっと甘い気がする。そうか、そこまで考えてくれていたのか。ありがたいなと感じると同時に、何だか申し訳無いなと感じた。
「ああ、これなら全然平気だよ。ありがとう」
そう僕が返すと、慶人は
「そうか、なら良かった」
と笑った。隣のクラスなのに、昼休みにはわざわざ僕の所へ来てこうして話してくれる。
「なんか、ごめんな」
「え?」
「いや、何というかその……ありがたさと、申し訳無さが……だな……」
そう言うと、慶人が大きな温かい手で僕の髪をわしゃわしゃとしてくる。
「ばーか。そういう時は素直に「ありがとう」で良いんだよ」
「あ、ありがとう……」
僕が言うと、慶人は満足げににっこりと笑った。
「おうおうそれでいいんだ。次は素直に言えよな。いや、「最高だぜ! ありがとうベストフレンド〜!」とかでもいいぜ?」
「いや、何だそれ」
「はは、冗談」
ずっと明るくて、学年のムードメーカー。僕みたいな根暗な奴とも仲良くしてくれて、本当良い奴だな。
慶人には、感謝してもしきれない。
終業のチャイムが鳴る。今日分の授業は終わり、これからは各々が好きなことに熱を注ぎ打ち込む部活の時間だ。
支度を終え、教室を出て部室に向かおうと廊下を歩く。すると背後から呼ばれ慣れた変なあだ名が聞こえてきた。
「おーい、神父ー」
「天使ヶ原……」
「神父はこれから部活?」
「うん、そうだよ」
想い人に話しかけられて動揺しないはずは無いが、動揺がバレないようここは「友達」として平静に接する。
「なら一緒に行こうよ、部室」
「……おう」
僕と天使ヶ原は同じ演劇部に所属していて、彼女が部長を務めている。
「今年は「オペラ座の怪人」だけどさ、そういえばここで使う指輪、準備できそう?」
ふと、天使ヶ原が今年の文化祭で演じる「オペラ座の怪人」の台本を開き、怪人が歌姫に指輪を渡すシーンを指さして言った。
「ああ、安物だけれど、銀色の綺麗なやつ。僕の指には入るけれど天使ヶ原の指には……どうだろう。少し大きいかもしれない」
僕がそう答えると、うーんと少し唸ってから「まぁ、その時はその時ってことで」と天使ヶ原が言う。
そんなことを話しながら歩いていると、あっという間に部室に着いてしまった。
―― 原題『Phantom of the Opera』
和訳の題は『オペラ座の怪人』。
一九〇五年。或る歌劇場にて、かつての舞台道具等がオークションにかけられている。その中で一人、買い取った猿の細工付きオルゴールを抱えるラウル・シャニュイと名乗る老紳士がいた。
「では666番、シャンデリアの破片ひと揃い。皆様の中には、かの有名なオペラ座の怪人事件をご記憶の方も いらっしゃいましょう」
競売人の声と共に老紳士の前に現れる巨大なシャンデリア。光り輝くシャンデリアと鳴り響くオルガンの音と共に幕が開く。
――遡ること約半世紀。舞台は一八七〇年、フランス・パリの歌劇場 オペラ・ガルニエ ―― 通称『オペラ座』。
オペラ座が華やかな舞台で賑わう一方、白い仮面をかぶった謎の怪人『ファントム』の仕業とみられる奇怪な事件が頻発していた。そのファントムを亡き父が授けてくれた『音楽の天使』と信じ、彼の指導で歌の才能を伸ばしてきた若きコーラスガール、クリスティーヌ。
彼女はある時、ファントムの策略通り歌姫の代役として新作オペラの主演に大抜擢され、喝采を浴びることとなる。幼馴染みの青年貴族ラウルも祝福に訪れ、二人は再会を喜び合った。
だがその直後ファントムが現われ、クリスティーヌをオペラ座の地下深くへと誘い出す。
オペラ座の地下水路、その傍らにある地下室に住む醜悪な容姿の怪人ファントムは、歌姫クリスティーヌに恋をしていた。
ファントムはクリスティーヌに求婚するが、クリスティーヌはそれを受けない。ファントムは自分の指輪をクリスティーヌに渡し「私の指輪を着け、このことは誰にも、何も語らないこと」を条件に解放する。
しかしクリスティーヌとラウルの恋仲に嫉妬したファントムは、クリスティーヌを誘拐。追ってきたラウルの首に縄をかけ「婚約を拒むのならば、ラウルを殺す」と言い、クリスティーヌへ無理に婚約を求める。
愚かな怪人の心を嘆き、怒ったクリスティーヌは「本当の愛の為ならば厭うものも恐れるものも無い」とファントムに口づけをした。
すると怪人ファントムは「母にすら愛されたことは無かった」と泣き崩れ、二人を解放し、何処かへ失踪する。
怪人が遺した地下室には、白い仮面と怪人が大切にしていた猿の細工付きオルゴールのみがあった。―――という物語だ。
『そうだ! 私が「天使の声」の主である!』
今回怪人ファントムを演じるのが僕、衛藤綺礼で、歌姫クリスティーヌを演じるのが彼女、天使ヶ原冬音だ。
『ああ、貴方があの声の主なのですね! どうか、どうか私に一目そのお顔をお見せ下さい!』
『無理だ。私の顔はとても醜いのだ』
『そんな! あんな美しい声の主が醜いはずがありましょうか! どうか私にお顔をお見せ下さい!』
ここで僕は、振り返り客席側へ両目と口が縫合された継ぎ接ぎの仮面を見せる。
『まぁ…なんてこと……』
天使ヶ原が顔を真っ青にして言葉を失う。演技と分かっていても胸の辺りが一瞬ズキリと痛んだ。それほどまでに彼女の演技力は凄い。
『クリスティーヌ、私は君を愛しているのだ。どうか、どうか私の花嫁になってはくれまいか。私と共にいてはくれまいか』
『っ……いいえ、それは出来ません』
『何故だ! 私のこの顔が酷く歪んでいて醜いからか!』
僕は天使ヶ原にそう叫んだ。すると天使ヶ原もこれに呼応して叫ぶ。
『いいえそれは違います! 私は、私の歌を待つ者たちのところへ行かねばならぬのです。貴方がくれたこの歌声を、待つ者たちがいるのです……』
『……そうか。ならば仕方ない。行くがいい。ただし、条件がある』
『条件…?』
僕は左手の中指から指輪を外して、首を傾げる天使ヶ原の左手を取り同じく中指に指輪を優しく通す。
『私の指輪を離さず持っていてくれ。私のことを、忘れぬように』
『そんな、忘れるはずなどありましょうか……んっ……』
僕は右手の人差し指を立てて「Si…」と言い、天使ヶ原の柔い唇に軽く押し当てる。
『それから地下水路のこと、そしてこの地下室と私のことは誰にも、何も語ってはならないよ。いいね』
『はい。分かりました。今晩のことは誰にも何も語りません。決して語りませんとも………ふふ」
役に没頭していたはずの天使ヶ原がいきなり笑い出したものだから、僕は驚いた。
「え? 何、どうした」
僕が話しかけると、笑い続けたまま天使ヶ原が言う。
「ふふ、あはははは。変なの」
「変? 何が?」
「だってここの場面のとき、神父が他の場面より感情的っていうか、なんていうか……まるで本当に「目の前に愛している人がいる」みたいっていうか」
「……!?」
気付かれた……か?
「そんなこと無いのにね、ふふふ、変なの」
気付かれ……てないなこれは。いや、そこまで行ったらいっそ気付けよ。天使ヶ原は妙に鈍い所がある。
「それにさ、ほら」
そう言って天使ヶ原が左手を見せてくる。
「私達が手の大きさがほぼ一緒なのは知ってたけど、まさか指の太さまでほぼ同じだとは思わないじゃん? こんなことってある?」
天使ヶ原の中指を見ると確かに指輪のサイズはピッタリで、元々この指輪は僕のものなのだと考えるとなんだか可笑しくて、僕まで笑えてきてしまった。
「はは、確かに。こんなことってそうそう無いよね。確かに変だ」
でしょでしょ! とはしゃいで言う天使ヶ原を見ていると、本当に僕はこの人が好きなんだなぁと思い出す。「目の前に愛している人がいる」……あぁ、いるよ。「みたい」じゃなくて、本当にいるんだ。目の前に。
ガチャ、とドアの開く音がしてふと我に返る。目を向けると、僕と天使ヶ原以外の演劇部の部員が三人来たのが分かった。
「悪ぃ、遅れた」
「ごめんねー、掃除長引いちゃってさぁ」
「って、まぁたてしてしと綺礼が一番乗りかよ。人揃ってない内からよくやるねぇ」
天使ヶ原のことを「てしてし」と呼ぶ女子、花渕 朝陽は僕の幼馴染だ。
「でさぁ、綺礼。てしてしの「歌姫」はどうよ」
「どうって、そりゃもう圧巻だね。演技力がズバ抜けてるよ。気を抜くと、演ってる最中に食われちまいそうだ」
「食われるって……『役が呑まれる』っていう、アレ?」
「そう」
「ふーん。たしかてしてしを演劇部にスカウトしたのって綺礼だったよね。よく見つけたねあんな逸材。……でも綺礼の演技力も大したもんじゃね? あたし無理だよあんな上手い演技」
「朝陽の場合は単に練習不足だよな……っ痛ぇな何すんだよ! 痛い、痛いって!」
ついポロっと口から溢れた言葉に「なんだと綺礼の癖に!」と朝陽が軽く脚を蹴ってくる。それを見て皆が「またやってるよ」と笑う。釣られて僕も朝陽も笑う。
ああ、僕はここが好きだ。演劇部の皆が好きだ。ずっと、ずっと演劇部の皆と一緒にいたい。こうして笑い合っていたい。
ずっと、ずっと。