こんな私に何用ですか
「リディア、ようやく結婚相手が決まったぞ!」
「え……」
子爵・ホスキンス家の館にて。
唐突に父からそう言われ、リディアは困惑する。
自室で本を読んでいる最中、何の脈略もなく飛び込んで来た話なのだから当然だ。
「お相手はハーヴィート侯爵家のご子息! これでリディアの肩の荷も下りただろう!」
「ま、待って下さい、お父さま! 結婚って、本当なのですか!?」
「勿論! ハーヴィート家の当主さまも了承済みさ! 一時はどうなることかと思っていたが、これで一安心だ!」
父は安心するように顔を綻ばせていた。
やっと成就したとでも言いたいようだが、リディアにとっては初耳である。
相手であるハーヴィート侯爵家の令息というのも、現在は休学中。
貴族学院では一度も顔を見たことがない。
分かるのは子爵令嬢である彼女にとって、見上げる程の地位にいるということだけ。
一体どうやって、そんな所から婚約をもぎ取って来たのか。
唖然としていると、傍にいた母が心配そうな様子で近づく。
「リディア、私達は貴方を案じているの」
「お母さま……」
「パーティーでも上手く溶け込めていないことは知っているわ。だからこそ、このままではいけないと思ったのよ。私達もハーヴィート家には苦手意識があったけれど、実際に話してみると印象は全く違っていたの。まずはお互いに話し合う機会を設けましょう」
気持ちは分かるが、といった形で宥められる。
あくまで娘のためというスタンスである。
唐突な話に抵抗しようと思ったリディアだが、こうなった原因に心当たりがあり過ぎて反論もできない。
それに両親に反発するような気の強さもない。
彼女に選択肢はなかった。
それからは、あっという間だ。
貴族の子として果たすべきは、お互いの家の関係維持。
数日後には、顔合わせという段階まで進んでいた。
「そんな……いきなり結婚なんて……」
右往左往する暇もない。
事実を受け入れるのに精一杯なのに、刻々と時間は迫っていく。
そんな中でリディアは思い返す。
元々の原因。
繰り返すが、彼女には心当たりがあった。
それは自分の風貌と性格。
容姿は素朴、髪は三つ編みのおさげ。
本を読むときは眼鏡も掛ける。
良く言えば真面目そう、悪く言えば自信なさげ。
自分を変えようという一歩も、上手く踏み出せない。
そんな雰囲気のせいで、パーティーではよく後ろ指を指されていた。
『おい、見ろよ。あの女……』
『あれは、壁の花じゃないか』
『今日もまた、パーティーで仲間外れか』
『お前、声を掛けてこいよ』
『冗談じゃない。嫌に決まっているだろう?』
いつもと変わらない陰口と笑い声。
調子づいた令息達の言葉は、今でもハッキリと思い出せる。
パーティーに参加した所で、リディアに声を掛ける者はいなかった。
元々は貧しい土地を管理する子爵の令嬢。
貴族学院でも知識も魔法の技術も平凡のため、交友関係は殆どなかった。
一応、現在はリディアの両親が貧しかった土地を再開拓している。
成果は徐々に実を結んでおり、貧乏ではあるが知る人ぞ知る貴族になりつつある。
その過程で侯爵家に名を売り込んだのかもしれない。
しかしそんな父や母との違いを、リディアは感じ取っていた。
自分には父のような度胸がある訳でもなければ、母のような思慮深さもない。
「こんな私に、何の用が……」
きっと失望させるに決まっている。
パーティーの時と同じように、鼻で笑われるだけ。
上手く行く訳がない。
不安がどんどん膨らんでいった彼女は、その果てに一つの考えに至る。
もし逃げ出せたなら、何か変わるだろうかと。
翌日、一般人に扮装できるようにリディアは荷物をまとめた。
気付かれないように量はできる限り少なくし、気分転換にと言い訳を用意して王都まで辿り着いた。
従者にも下がってもらい、図書館の敷地内にある東屋で一人になる。
ここまでは驚くほど順調だった。
誰も彼女が逃げ出すなど思ってもいない。
言わば、絶好の機会。
けれど、それだけだ。
リディアにそれ以上のことはできない。
荷物も目の前にあり、当分一人でいられるだけのお金も持っているのに、動けない。
理由は彼女の性分。
最後の一歩を踏み出す勇気が持てなかったのだ。
「なんて……。逃げる度胸があったら、こんなことになってないし……」
分かっていたことだ。
逃げ出せるような気概があるなら、両親にも反発していたし、陰口を叩いていた令息にも面と向かって対峙していた。
それに逃げれば、それこそ父や母の顔に泥を塗ってしまう。
相手の侯爵家を怒らせる結果にもなるだろう。
受け入れなければならない。
自信がなくとも、どれだけ貶されようとも、顔すら知らない相手のためにこの身を捧げる。
それが自分の責務なのだから。
リディアは用意していた荷物を、両手で強く抱きかかえた。
「っ……」
寄り添う者は誰もいない。
やり場のない感情が湧き上がり、思わずリディアは涙ぐむ。
だが暫くして、変化が訪れる。
リディアのいる東屋に、慌しい声が聞こえてきたのだ。
「おい! 見つかったか!?」
「いえ! ですが、この辺りにいらっしゃるはずです!」
「まさか、こんなことになるとは……! 必ず見つけ出せ!」
何だろうと、リディアは目元を擦る。
声は複数人。
何かを探しているようだが、かなり切羽詰まっているように聞こえる。
図書館の敷地内といっても、まさか本を探している訳でもない。
不審に思ったリディアの視線がそちらに向く。
すると同時に、今までとは違う若い男の声が近づいてきた。
「もう、ここまで追って来たのか! 仕方ない、一旦こっちに……!」
足音が迫ってくる。
もしかして、こちらへ来るのでは。
そう思ったのも束の間、ザッという音と共に東屋の手摺に何者かが飛び乗ってくる。
思わず身構えるリディアだったが、その姿を見て思考が止まった。
「あ……」
現れたのは彫の深い美青年だった。
逆立った黒髪と、透き通った青色の瞳。
向こうの視点からでは、リディアの姿が見えていなかったのか。
青年は彼女の姿を見て、僅かに驚いた表情を見せた。
そしてお互いの動きが止まると、彼の方から声を掛けてくる。
「もしかして、泣いているのか?」
「な、何ですか貴方は……! 急に飛び出してきたと思ったら、そんな失礼な……!」
突然現れたと思ったら、この言い草である。
リディアは取り繕おうと、流れていた涙を拭おうとする。
だがその直後、複数の足音がこちらに迫ってきた。
「マズい……! とにかく、この場所は借りるぞ!」
「ち、ちょっと……!」
彼女が何かを言うよりも先に、青年は東屋の中へと飛び降り、物陰の隅に隠れる。
追手から逃げられないと思ったのかもしれない。
あまりに強引な行動。
涙を拭く猶予すら与えてくれない中で、複数人の男達がやって来た。
「今、こっちから物音がしたぞ!」
彼らは主に仕える従者のような出で立ちだった。
きっと先程の青年を追っているのだろう。
だが、それ以上は踏み込んで来なかった。
何故なら東屋にいたのは貴族令嬢。
涙を拭き損ねた少女が、そこにいたからだ。
男達はしまった、という表情を見せて頭を下げてきた。
「あっ……! も、申し訳ありませんでした! 先客がいるとは知らず!」
「他を探しましょう! まだ遠くには行っていないはずです!」
「失礼いたしましたっ!」
訳など聞くはずもない。
気まずい態度を見せながら、従者達は次々に立ち去っていく。
最早、何が何やらという状況。
すると青年は気配が消えたと気付き、ゆっくりと物陰から現れてきた。
「助かった。流石のアイツらも、ここまでは踏み込んで来なかったか」
「……最低です」
「わ、悪かったよ。面倒ごとに巻き込みかけたのは事実だ」
リディアは少しだけ睨む。
流石に面と向かって言われたのは堪えたのか、青年は申し訳なさそうに頭を下げた。
服装は貴族というよりは平民よりものだったが、整った様相から裕福な家庭の出身だと分かる。
見覚えはないが、きっと何処かの地主か貴族の令息だろう。
加えてこの端麗な容姿だ。
好き勝手に振舞うのが当然、というタイプに違いない。
勝手に想像を膨らませていると、彼はハンカチを差し出してくる。
「とりあえず、これで涙を拭いてくれ」
「……お気遣いなく。拭うものくらい持っています」
「おぉ。これはまた、気の強いお嬢様だ」
意外そうな返しをされる。
気遣っているつもりらしい。
何にせよ逃げ出す勇気もないのに、面倒ごとに巻き込まれるのは御免だ。
リディアは自分からハンカチを取り出して、ようやく涙を拭う。
青年も長居する気はないようで、その場から背伸びをするように腰に手を当てた。
「だったら、悪いゴロツキは早いところ退散するか。さて、次は何処に逃げたものか……」
だが、その言葉にリディアは反応した。
「……貴方、逃げてきたんですか?」
「見ての通りさ。ちょっと居なくなっただけでコレだ。ったく、過保護すぎて嫌になるぜ」
勘弁してくれと言いたげに息を吐く。
先程の従者から明らかに逃げていたので、そういうことなのだろう。
一体、何処に行くつもりなのか。
今の様子からすると、その算段も立てていないようだ。
しかし、と少しだけリディアの頭が冷える。
この青年は、自分にできない逃亡という選択肢を簡単に取れてしまう。
周りを気にせず思うままに行動できる。
自分には到底できないことだ。
そこに彼女は引っ掛かりを覚えた。
目の前の彼と自分と、一体何が違うのか。
「待って下さい」
気付けばリディアは、背を向けて去ろうとする青年を呼び止めていた。
本来、こんなことをする性分ではない。
関わり合いにならないようにと、考えていたはずなのだ。
それなのに色々な感情が混ぜこぜになっていて、つい口を滑らせてしまう。
するとその言葉を聞いて向き直った青年は、暫くしてこう聞き返してきた。
「逃げるコツを教えてくれ?」
「……はい」
「アンタ、足が速いようには見えない。走ったところで、すぐに追い付かれるぞ」
「駆けっこの話ではありません……」
それは彼特有の思考だろう。
リディアはたどたどしくも、今までの感情を言葉に変えて溢していく。
「逃げようと思っても、簡単には行動に移せないものです。周囲に迷惑はかけるし、それが自分にとって正しいことなのかも分からない。貴方はどうして、逃げているのですか?」
彼女は今まで、そんな勇気は持てなかった。
令息達のからかいも含めて、他の術を知らずに抱えるだけだった。
だから抗えるだけの理由があるなら、それを知りたい。
すると彼は意外そうに瞼を見開き、そして目を伏せる。
「……そんなことを言われたのは初めてだな」
「あの……」
「分かった。少しの間なら話に付き合おう」
少しだけ神妙な態度になって、青年はもう一度だけ向き直った。
辺りに先程の従者は見えない。
暫くは近くには来ないと思った上での行動だろう。
彼はリディアが座っていた真向いの椅子に座った。
「俺は、言われた通りの道を歩いてきた」
次第に彼は話し始める。
「俺の意志なんて関係ない。言いなりばっかりで、色んな場所に向かわされた。そうしている内に、自分ってヤツが分からなくなってきてな。羽目を外したくなったんだ」
「後悔しないのですか……?」
「さぁ」
「さぁ、って……」
「後悔ばかり考えていたら、何も行動できないだろ」
至極当然のように返される。
青年は今までの生活に束縛感を抱いていたようだ。
そして後悔を考えるよりも行動するタイプらしい。
今の状況がそれを物語っているが、果たしてそんな簡単にできることなのか。
色々と考えていると、彼はリディアを見つめる。
「アンタ、見たところお人好しだな。自分よりも周りの視線を気にするから、雁字搦めになって何もできなくなる」
「……!」
「いっそのこと全部吐き出せば、スッキリするんじゃないか?」
「そ、そんなはしたないこと。私に出来るのは、気晴らしくらいで……」
「気晴らし?」
「たとえば、その……本を読むとか。そうすれば少しは、気分転換できるものです」
「へぇ。そういうやり方もあるのか」
青年は顎に手を触れる。
彼は無理に溜め込むなら吐き出せば良いと言っているが、令嬢としての体裁は崩せない。
大声を出すことすら、リディアにとっては大穴を飛び越える位の勇気が必要だった。
だから代わりに本を読んで、気を晴らす。
想像を膨らませることが、彼女のできる精一杯だった。
逆に青年にとっては意外なことだったようで、感心するような表情を見せた。
もしかすると彼は、気晴らしということを知らないのだろうか。
「だったら今までとは違う、何か新しいことでも探したらどうだ。無理に逃げて後悔するっていうなら、それが一番だ」
「貴方は、何か心当たりが?」
「いや……あまりそういったことは考えなかったな。遊びのような娯楽は、禁止されていたからさ」
「えっ!? 娯楽が禁止ですか……!?」
「はは。やっぱりそういう反応だよな。同期に話しても、同じ顔をされたよ」
自嘲気味に青年は笑う。
両親からの決まりが厳しいのか。
娯楽を許されないというのは、リディアでも経験したことがない。
もし、自分が小説を読むことすら禁じられていたらどうなっていたか。
想像もできない。
自然とリディアは、自分の境遇と彼のそれを照らし合わせる。
そして気付けば、思わず口を開いて尋ねていた。
「もしかして貴方は……気晴らしで逃げている、とか?」
彼はきっと、それ以外を知らない。
だから逃げるという行動自体が気晴らしになっている。
そんな気がした。
そして喋った後で失礼なことを聞いていると気付き、リディアはハッとする。
だがその直後、青年は愉快そうに笑い始めた。
「はは! そうか、気晴らしか!」
「す、すみません! 失礼なことを……!」
「いや、全然。ちょっと新鮮でさ。俺のやり方をそんな風に言われるなんて思わなかった。そうかそうか、そういうことだったんだな」
不快に思った様子はない。
自分でも言われて初めて気付いたような態度だった。
純粋そうな笑顔が、リディアの心に響いてくる。
彼は先程こう言っていた。
自分というものが分からなくなっていると。
その言葉は、彼女自身が抱いていた思いと同じだったのだ。
(もしかしてこの人は……)
果たさなければならない責任。
両親や家柄のために、押し殺さなければならなかったものの数々。
それら後悔が、親近感という形で現れる。
始めは急に飛び込んで来た粗暴な人だと思っていたが、徐々に彼のことが分かってくる。
だからこそ、だろうか。
ポツリと彼女は話し始めた。
「貴方の話を聞いて分かりました。やっぱり私には、逃げるだけの勇気は持てません。けれど、その中でもできることがあるはず」
逃げることはできない。
全てを捨てる覚悟なんて持てない。
どうしても受け入れなければならないことは、必ず出てくるものだ。
だとしたら、どう受け止めるか。
受け止めるために、どんな気晴らしがあるのか。
それを知ることも、決して悪いことではないと思った。
「知らないのなら、探しに行きませんか」
だからリディアはそう言った。
青年はその言葉を聞いて、目を丸くする。
「俺みたいなゴロツキに頼むことか?」
「今だけは良いんです。今だけは私も貴方と同じで、羽目を外したい気分だから」
「全く、困ったお嬢様だ。でも……」
彼は言葉を区切って立ち上がった。
「俺も我武者羅に飛び出せばいいと思っていたんだ。だから、少し考えが変わった」
青年は背を向けない。
逃げるためではなく、別な思いを持ってリディアと向き合う。
同じ考えを持つ者同士。
やり場のない感情を抱く者同士。
今この瞬間なら、何かが見つけられるかもしれないと考えたのだ。
「アンタが望むなら手伝おう。新しい気晴らしってヤツを見つけるために」
きっと、これが最後になる。
薄々お互いが勘付いていたからこそ、拒む理由もない。
彼の言葉にリディアは頷く。
唐突に出会った二人は、今日限りの気晴らしを見つけることにした。
●
王都は多くの嗜好に溢れている。
貴族の目を引く多数の宝石や建造物、平民が好む味の濃い食べ物。
それらが多くの人を集め、都市という大きな街を作り上げる。
人と人が交差する中心とも言えるところ。
そこでリディアは青年を連れ歩いていた。
用意していたローブを身に纏い、一般人に紛れ込む。
青年も元は逃げるために扮装していたので、人混みの中でも不自然には見えないようだ。
今のところ追ってくる従者も見当たらない。
そうして二人は、王都でも有名な迷路植物園にやって来る。
「植物庭園か」
「一般開放されている場所は、あまり来たことがないので」
「確かに、俺も入ったことはなかったな……」
「何事も経験です! さぁ、行きましょう!」
気晴らしを見つけるため、リディアは先導する。
自分にこんな積極性があったことに、内心彼女は驚いていた。
色々な出来事の連続に、ある意味吹っ切れたのかもしれない。
青年もそんな彼女を引き止めたりはしない。
入り口でもらった地図を頼りに、背丈を超える植物が造り出した道を進んでいく。
「しかし噂通りの迷宮だな。俺達、今何処にいるんだ?」
「ええと……多分この辺りですね……」
「おぉ、よく分かるな。俺は方向音痴だから、地図を見ても全くだ」
「……もしかして、さっきも行く方向が分からなくなって飛び込んで来たとか?」
「うっ。案外、痛い所を突くじゃないか」
彼は苦笑いを見せる。
けれどその表情は何処か和らいでいるように見える。
今この瞬間、楽しめているのだろうか。
直接聞くのは何かが違うと思い、リディアは問わない。
代わりに、迷路の中を行き交う人々は楽しそうな表情を浮かべていた。
行違う子供たちも、互いに笑いながら駆け出していく。
ああやって遊んだのはいつの頃だっただろう。
間近に見える光景が、新鮮に見える。
僅かなそよ風も感じながら、リディアと青年は互いにああでもない、こうでもないと考えながら進んでいく。
その中で、青年は前に進もうとする彼女をリードしていた。
初めて会った印象と違い、我を通すことなくリディアの意見を尊重する。
「アンタ、思ったより積極的だな」
「す、すみません。私ばかりこんな……」
「良いじゃないか」
「え?」
「それがアンタのらしさ、なんだろ。少し羨ましい位だ」
彼はそう言った。
これが気晴らしになるのかは分からない。
ただ何となくだが、リディアは心地良く感じていた。
自分が認められたような、そんな気がしたからだ。
そうして二人は時間を掛けて迷路を抜け、屋内の広場に辿り着く。
内部は休憩場になっていて、花や観葉植物が多く飾られている。
端の方では黄色い嘴を持つ鳥が、木の枝に止まって来客を待っていた。
「と、鳥です!」
「これは……鮮やかだし毛並みも良い。まるでぬいぐるみだな」
「もしかして、餌を待っているんでしょうか」
「よし、待ってろ。俺が買ってくる」
青年は興味深そうに近づいた。
鳥の近くには餌売り場がある。
恐らくこの屋内で飼われていて、鳥たちは客が餌を買うのを待っているのだろう。
そして彼は売り場で銅貨を差し出し、餌の小袋を二つ買ってきた。
何故に二つと思いきや、彼は持っていた小袋一つをリディアに渡してくる。
「ほら。これを持って、肘を上げるんだ」
「ええっ!? ちょ、ちょっと……!」
陽気な青年を前に、何かを言うよりも先にリディアは袋を受け取ってしまう。
するとバサッ、と一羽の鳥が彼女の前腕に乗って来た。
重さはない。
爪も職員が手入れしているのか、痛みも全くない。
片手で撫でられそうな位の大きさの鳥が、袋の中にある餌を見て首を傾げた。
間近で見ると、本当にぬいぐるみのようにフワフワしている。
しかし鷹狩りの経験もない彼女は、ここまで近くに鳥が寄って来た覚えがない。
癒しと緊張の半々だった。
「大人しいモンだな。もっと力を抜いても良いんじゃないか」
「そんなことを言われたって……」
「何事も経験、だろ? これも気晴らしを見つける良い機会になる」
「わ、分かりました……! やってやりましょう……!」
彼は緊張をほぐすように微笑む。
そう、これも気晴らし。
滅多にない経験だからこそ知る意味がある。
自分が始めたことであるし、その言葉も尤もだ。
踏み出す勇気。
ゆっくりと袋の口を開けると、鳥は黄色い嘴を袋の中に入れ、器用に摘んで食していく。
鳴き声も上げないし、本当に大人しい。
かなり人慣れしていることが分かる。
そんな様子を見ていると、徐々に気持ちも落ち着いてくる。
「よし、俺もやってみるか。まぁ俺くらいの余裕があれば、直ぐに集まって……」
リディアの様子を見て、青年も同じように餌の袋を解いた。
自信満々である。
すると木に止まっていた別の鳥が一羽、だけではなかった。
二羽目三羽目と、次々に彼の元に集まってくる。
千客万来か。
もしかすると動物に好かれる質なのかもしれない。
両肩にまで乗って来たので、余裕そうだった青年も流石に焦り始める。
「お前ら、集まり過ぎだろ!?」
「っ……。ふふっ……」
通り掛かった子供に、あれ凄い~と言われている彼の姿が面白おかしくて、思わずリディアは笑っていた。
彼自身、そこまで悪い気はしていなそうだったのが、余計に温かな気持ちにさせた。
そこで彼女は、自分が笑っていることに気付く。
本を読んでいた頃は、心を揺り動かされる場面に出くわせば感動という言葉で表現できた。
しかしこの感情は何なのだろう。
言葉では言い表せない、むず痒い感覚。
けれど決して不快感はない。
頬が熱くなるような感覚と共に、リディアは鳥たちと戯れる青年から視線を逸らしていた。
時間は過ぎていく。
鳥たちの餌やりも終わり、足を休めた二人は近場にあった王都の繁華街にやって来る。
観光客や商人たちが集う場で、貴族がわざわざ足を運ぶことは少ない。
そのためリディアからすれば見かけない、一般向けの装飾や食品が目に飛び込んでくる。
隣にいた青年も興味深そうに辺りを眺めていた。
「俺、喉が渇いたんだけど。何かいる?」
そして彼は先にある屋台を指差した。
見る限り、取り寄せた果実を飲み物として売っているようだ。
少し喉も乾いているし、興味もある。
看板に書かれたメニューの中の一つを伝えると、青年は二つ返事で頷いた。
まさかまた自分でお金を出す気か。
思わず自分が出すと彼女は言ったのだが、はした金くらい出すと押し切られてしまう。
妙な気を遣う必要はないのだが。
そう思いつつも、結局リディアは彼の様子を後ろから見つめ、考えに浸る。
「こういう気晴らしも、良いのかな」
王都に来ても、今までは図書館に足を運ぶだけだった。
庭園も繁華街も、慣れていないと勝手に遠ざけていた。
けれど実際に来てみると、どれも珍しいことばかりで過去の考えがひっくり返っていく。
いや、それだけではないと彼女は考える。
誰かと考えを共有しながら進んでいく。
これがきっと、自分に必要なことだった。
悲観するだけでなく一歩踏み出し、楽しもうとする力が欠けていたのだ。
「もっと早く踏み出していれば、何か変わっていたのかも……って、あれ?」
そこまで考えていると、リディアは異変に気付く。
妙に騒々しい。
元々静かな場所ではないのだが、それとは違う慌てた喧騒が近づいてくる。
何だろう、と彼女が思った瞬間だった。
「ひったくりよ! 誰か捕まえてッ!」
「えっ!?」
女性の声が奥から響き、人混みから一人の男が躍り出る。
男は手に財布のようなものを持っていた。
ひったくり、とはアレか。
人の物を強奪するあのことか。
貴族からすれば、有り得る筈のない言葉を聞いて身体が固まる。
しかも男は戸惑う人々を掻き分けながら、待っていたリディアの方に向かってきた。
「チッ! 邪魔だ!」
彼女のことは、行く手を遮る邪魔者としか見ていないようだ。
形振り構わず、跳ね除けようと突進してくる。
まさかの事態に混乱し、立ち竦むことしかできない。
避けられもせず、リディアは思わず両目を瞑る。
だが直後、目の前に大きな影が現れた。
「それは俺の台詞だ」
「なっ!?」
聞き覚えのある声に目を開くと、そこにはあの青年が庇うように立っていた。
片手に二つの木造カップを手にしたまま、空いたもう片方の手を持ち上げる。
リディアが彼を見上げると同時に、その背中から僅かな魔力が流れた。
「折角の時間なんだ。水を差すなよ」
それだけ言うと、突進していた男が上に弾き飛ばされた。
飛ばされた本人だけでなく、周りも何が起きたのか分かっていないようだった。
本当に一瞬の出来事。
そのままドサリ、と男は地面に叩きつけられて力を失った。
「ったく、自分勝手な言葉を吐きやがって」
静まり返った場の中で、青年は小さく息を吐いた。
風魔法。
リディアはその光景を見て理解する。
彼の指先から渦のような気流が生まれ、男を跳ね除けたのだ。
ただそれは瞬間的なもの。
周囲から見たら、魔法が使われたことすら分からない位の早業だった。
呆気に取られていると、青年はリディアの方を振り向く。
「大丈夫か」
「ぁ……は、はい」
「とりあえずコレ、買って来たから」
スッと目の前にカップが差し出される。
果物のジュースである。
頼んでいたことを思い出し、彼女はそれを受け取った。
周りではひったくりの男が倒れたことで騒ぎが戻り、人々がそれを取り押さえていく。
すると彼はリディアを連れて少しだけ離れ、遠巻きから見ているだけに留まった。
身分を隠している手前、目立つ行動は控えたいのだろう。
「す、すみません」
「謝る必要はないと思うけどな」
「うっ、確かにそうですね。それなら……ありがとうございます」
「はは。そっちの方がしっくり来る。どういたしまして、レディ」
おどけるように彼は頭を下げた。
わざとそうしているのか。
少しドキマギしながらも、リディアはジュースを飲む。
甘かった。
子爵令嬢として質のいい飲み物は何度も飲んでいるし、これが特別に美味しいという訳ではないのは分かる。
それなのに何故か一際甘く感じた。
視線が隣へ、青年の方へと向く。
彼は同じようにカップに口をつけていた。
これは東屋から一歩踏み出した結果だ。
あのまま涙を流していただけでは、決して知り得なかったこと。
少しでもその思いを振り絞れば、きっと変わることだってある。
そしてこの青年は、人を助けることにも簡単に勇気を振り絞れるのだろう。
自然と彼女は言葉を紡いでいた。
「きっと……」
「ん?」
「一歩踏み出すにも、勇気が必要なんですね」
「そうだな。踏み出すことも、逃げることも、同じくらいの勇気が必要だ。後はどっちが楽なのか、考えるのはそれくらいなんじゃないか」
「私を助けたのは? わざわざ、あんな怖い人の前に飛び出してまで……」
「それは楽だとか、そういう以前の話だろ。理屈でどうこう考える話じゃ……」
そこまで言って、青年は何かに気付いたようだった。
リディアにも、何故彼が言葉に詰まったのか理解できた気がした。
「あぁ、そうか。そう、だったんだな」
独り言のように呟いたその声が、リディアに共感を抱かせる。
そう、理屈じゃない。
彼が助けたのも、貴族として課せられた責任も、理屈では動かない。
自分がどうしたいのか、どうあるべきなのか。
彼女は彼の考えを代弁する。
「私は楽な方法があるなら、逃げられるなら、それが一番だと思っていました。でも……」
「それだけじゃ済まない話だってあるはず、ってことか」
「はい……」
「……アンタには、気付かされてばっかりだ。俺はただの、我儘な餓鬼だったのかもしれない」
「そ、それは違います」
「!」
「貴方は私を助けてくれました。それは、決して間違いではありません」
諦観するような言葉に、思わずリディアは首を振った。
全てを否定するつもりはなく、そのお陰で彼女は助けられた。
色々な考えを抜きにして現れた、彼の本質のようなものだ。
勇気ある行動であり、決して我儘な子供ではない。
そう言うと彼は驚いた後、柔らかい笑みを浮かべた。
「ははは。何だか良く分からなくなって来た。ホント、難しい話だよ」
青年は元気を取り戻したようだった。
照れくさそうにしている様子を見て、リディアは安堵する。
きっと自分達だけではない。
他の皆も、何かしらを受け入れて進んでいるのだろう。
誰のせいにしても良いし、無理に背負わなくても良い。
人なのだからそういうこともある。
けれどその中で必要なのは、踏み出そうとする思いの強さ。
彼女は少しだけ答えが見つかったような気がした。
時間は過ぎ、騒動は収まっていく。
男は衛兵に引き渡され、後はひったくられた女性がお礼を言いに来たくらいで、元の喧騒に戻っていった。
二人はそんな様子を長椅子に座りながら、流れていく時間を噛み締める。
だが、まだこのままでは足りない。
とある建物が視界に映り、リディアは立ち上がる。
「あの時計塔に登ってみませんか」
もう一歩だけ、彼女は踏み出すことにした。
●
飲み終えたカップを返した後、二人は王都の時計塔へ登った。
ここも一般開放されているため、最上階へ向かうのは簡単だった。
青年に手を引かれ、その感触に緊張しながらも辿り着いた場所は開けた光景。
王都を一望できる展望台だった。
「綺麗……」
「良い眺めだ。ここからなら、王都全体を見渡せる」
時計塔に来るのは初めてだった。
貴族という体面があるので、わざわざ人混みに紛れて高所に登ることもない。
だからこそ、リディアには今の光景が真新しく、そして輝かしく見えていた。
青年も同じだったのだろう。
夕暮れに包まれる建物の数々を見て、思ったことを口にする。
「この街並みは、大勢の人達が築き上げてきた結晶なんだな」
リディアは頷きながら、夕暮れに目を細める。
「きっと皆、同じなのだと思います。誰かと関わり合って進んでいく。きっとそれは、楽しいことばかりではなく、辛いことだって必ずあるはず。でも、それでも分かり合うことができればきっと……」
「いつもとは違うものが、見えるんだろうな」
彼が広がる光景を見ながら言った。
これが気晴らしなのかは、やはり分からない。
それでも答えのようなものを分かち合えた気がして、リディアは自然と微笑んでいた。
しかし、それも終わりが近い。
時を刻む時計の音と共に、見覚えのある人達が二人に近づいてくる。
それは以前、東屋で青年を探していた従者達だった。
「あの人達は……」
「時間切れ、みたいだな」
王都に留まっていたのだから、見つかるのは時間の問題だった。
青年が残念そうな表情をする。
けれど彼は、もう逃げることはしなかった。
王都の光景から視線を外し、追って来た彼らと向き合う。
その姿には諦めではなく、向き合おうとする意志の強さがあった。
「俺は、自分の戻るべき場所に戻ることにする」
「……」
「悪かったな。結局、アンタの気晴らしを見つけられなかった」
「いいえ。もう、見つけましたよ」
謝られたが、リディアは首を振る。
既に気晴らしに固執することはない。
自分の心の在り方が分かったのだ。
それ以上のものは必要ない。
振り返った青年に彼女は決意を込めて言った。
「私も、自分の場所に帰ります」
「……そうか」
「ありがとう、ございました」
「礼を言うのは構わないけど、もう俺のような悪い男に引っ掛かるなよ。アンタ、真面目すぎるからな。それと……」
途中で言葉を区切って背を向ける。
その瞬間だけ、彼は僅かに俯いた。
「俺のことは忘れてくれ」
それだけを言って、青年は従者達と共に去っていった。
塔に吹いてきたそよ風が、リディアの髪を撫でた。
勿論、追わない。
これは覚悟していたことだ、と彼女は両手を握り締める。
(こうなることは分かっていたわ。だからお互い、名前を聞かなかった。心残りが、ないように……)
青年の正体は、最後まで分からなかった。
そして探るつもりもない。
今日限りの気晴らし。
お互いに深入りしないように、余計な感情を抱かないようにしていたのだ。
これで青年との関わりも終わり。
今のリディアにできるのは、元いた場所に帰ることだけ。
受け入れなければならない。
それなのに、彼女の心には小さな穴が空いたような気分だった。
図書館に戻ると、リディアを探していた従者に見つかり、真っ先に注意された。
勝手に他の場所に出歩いていたのだ。
仕方のないことだろう。
だが何をしていたのか、本当のことは言えない。
そのまま屋敷に戻ると、慌てた両親が駆け寄ってきた。
「リディア! 急に姿を消したと聞いていたから、どうしたのかと!」
「何があったの!?」
「少し、一人になる時間が欲しくて……。お父さま、お母さま、ごめんなさい……」
彼女は真摯に謝罪した。
父や母を責める理由はない。
婚約の話も、二人が自分を案じた結果でもある。
分かっている。
このままずっと迷惑をかけ続ける訳にはいかない。
自分にできること、そしてその中で踏み出せる一歩を探すのだ。
そう考えると、両親は娘の変化に気付いたようだった。
「でも、もう大丈夫です。決心が付きました」
「リディア……?」
「ハーヴィート家との婚約、私も受け入れます」
彼女は政略結婚を引き受けた。
●
「はっはっは。貴方達は必ず我々の利になる。息子との婚約を受け入れてくれるとは、有難いことだ」
「ほほほ。あの子も素直な位に引き受けてくれたわ。私達も、少し構い過ぎていたのでしょうねぇ」
後日、リディアは両親と共にハーヴィート家を訪れた。
侯爵家というのは、やはり格式高い。
辺りの装飾や家具の一つ一つが、驚くほど煌めいているように感じられる。
ハーヴィート家夫妻も、それと同じくらいの衣装と風貌で笑みを浮かべている。
しかし子爵令嬢であるリディアをわざわざ選んだということは、独特の先見性を持っているのかもしれない。
彼らの言葉を皮切りに、両親が頭を下げた。
「私共こそ、ハーヴィート侯爵とご縁を頂けたこと、とても光栄に思っております」
「今後ともよろしくお願いいたします」
同じようにリディアも礼を尽くす。
多少の緊張はあるが、既に覚悟していることだ。
ちなみにハーヴィート家の令息、お相手の男性はまだ見えない。
準備に手間取っているのだろうか。
彼女は少しだけ婚約者となる人の正体を考えた。
(一体、どんな人なんだろう。嫌な顔をされなければ良いけど……。でも、大丈夫。婚約したからって私の心が消える訳じゃない。それを失わなければ、きっと……)
たとえ手酷い仕打ちが待っていても、踏み出す勇気があれば変わる。
きっと変われるはずだ。
あの日、色々な経験で得た教訓を胸に、リディアはその時を待つ。
するとハーヴィート夫妻が、奥の扉に向けて声を放つ。
「見かけによらず、恥ずかしがりやでね」
「フェイ、早く来なさいな。レディを待たせては駄目よ」
「……貴方達はいつも一言多い」
両親の呼びかけに答えるように扉が開かれ、若い男の声が聞こえる。
聞き覚えのある声がした、気がした。
まさか。
いやそんな筈はない、とリディアは否定する。
あまりに都合の良い話だ。
自分がそれを望んでいるからと、勝手な幻聴を生んだのだと思い込もうとした。
しかし目の前に現れた令息の姿を見て、彼女は愕然とする。
「お初にお目にかかります。私はフェイ・ハーヴィートと申し……」
見間違えようがない。
そこにいる令息はつい先日王都で知り合った、あの青年だった。
彼も視線を上げて、その違和感に気付いたようだ。
言葉を失うと同時に目が見開かれる。
分かたれた繋がりが、意外な形で交差する。
「貴方は、まさか!?」
「なっ!? アンタは、あの時の!?」
二人の驚く声に、リディアの両親は不思議そうに見比べるだけ。
逆にハーヴィート家の夫妻は、然程動じていなかった。
「おや、知り合いだったのかね?」
「お互い社交界で会っていても、おかしくなかったわね。でもそうならそうと、先に言ってくれれば良かったのに」
貴族同士なのだ。
そういうこともあると、そんな言葉で済ませようとする。
だがリディアにとっては違っていた。
あの日の出来事は心の奥底で留めておくもの。
終わった話であり、振り返ってはならないし、もう二度と関わることもない。
固く決心したからこそ今ここにいるのだ。
それなのに、彼は再び現れた。
運命が引き合わせたかのように、以前と変わらずにそこにいる。
彼女は自然と手で口元を押さえた。
何と言って良いのか分からない。
分からないからこそ感情が溢れ、その瞳から涙がこぼれる。
「り、リディア!? どうしたの!?」
「具合でも悪いのか!? それとも、何か別の……!」
突然涙を流す娘を見て、両親が慌て始める。
それだけでなく、流石のハーヴィート夫妻も息子の方を振り返った。
「フェイ……まさか彼女に何か……」
「レディを泣かせるなんて、一体何をしでかしたの!?」
「わ、私ですか!? 何かをした覚えは……! いえ、何もしなかった訳でもないのですが……それは誤解で……!」
両親に早とちりされてしまい、彼は焦り始める。
顔合わせの場が微妙に混沌としていく。
勿論、そんな事実は一切ない。
場を落ち着かせるため、リディアは皆に謝罪をしながら首を振った。
単純なことだ。
怖かった訳ではない。
傷ついた訳でもない。
ただ、嬉しかったのだ。
●
「まさか俺の婚約相手だったなんて、あの時は思いもしなかったよ」
「私も同じです。こんなことが起きるなんて……」
「……とりあえず、使うか?」
「拭うものは持って……いえ、今回はお借りしますね」
彼から差し出されたハンカチを今度は素直に受け取る。
そしてまだ乾き切っていない頬に当てた。
あれから誤解は解け、お互いに話し合う機会を設けられた。
屋敷の庭園にあるベンチに座り、再会を喜び合う。
彼も相手がリディアであるとは知らなかったようだ。
それもそうだろう。
偶然出会った令嬢が、自分の婚約者だなんて夢にも思わない。
もしあの時、互いに名を明かしていたら状況は変わっていただろう。
本心を隠したまま、分かり合うこともなかったかもしれない。
けれど、そうはならなかった。
青年、フェイは空を見上げて思いを告げた。
「考え直したんだ。理屈なんか抜きにして、俺にだって貴族としての役目と責任がある。全てを放り投げて逃げ出す訳にはいかない、ってな」
「貴方もご両親からの言いつけで……?」
「まぁ、そんな所だ。でもこの際、言いたいことを全部言ってみたんだ。そうしたら意外なことに両親から謝られたよ。良き当主とさせるために、お前を束縛し過ぎたってな」
フェイは力を抜くように息を吐いた。
以前、彼は両親から娯楽を禁じられていたと言っていた。
侯爵家の跡取りとなれば、それだけ期待されていたということだ。
ただ、今回の逃亡は当然両親の耳に入っているはず。
何故そんなことをしたのか、彼らは互いの思いを打ち明けたのだろう。
そして、ハーヴィート夫妻は自らの過ちを認めた。
少し寛容に見えたのはそのためか。
彼が道を踏み外さなかったことにリディアは安堵する。
しかし代わりに思う所もある。
彼女は僅かに俯いた。
「後悔していますか」
「何が?」
「私はその……お父さまやお母さまと違って、何も……」
「それは違うな」
自分は壁の花と呼ばれた子爵令嬢であり、それが務まるかは分からない。
するとフェイは否定した。
澄んだ青い瞳が、リディアを真っすぐに見つめた。
「自分でも分かっていなかったんだ。侯爵家の跡取りという肩書と、それに相応しい教養さえあれば良い。それが正しいことなのかどうかも、分からなかった。でもそこで気晴らしの意味を、思いを伝え合う大切さをリディアが気付かせてくれた」
「!」
「あの時は諦めたんだ。俺には相手がいるし、気を持たせるつもりもなかった。元々、奇跡だの運命だのを信じる質でもない。でも、これがそういうことだって言うなら、俺も信じてみたいんだ。リディアとの、巡り合わせってヤツを」
今までとは違う真剣な表情だった。
それはフェイ自身の意志だ。
無意識に自分を束縛していた彼は、あの出会いで気晴らしの意味を知った。
手を取り合うことができれば心は軽くなる。
その行動にこそ意味がある。
リディアと同じような考えを、彼も抱いていたのだ。
彼女はそれを聞いて、胸の内がとても温かく感じた。
「名前……」
「え?」
「私の名前、やっと呼んでくれましたね」
不安がないと言えば嘘になる。
だが彼と一緒なら、きっと大丈夫だ。
互いに支え合って歩んでいける。
リディアは持っていたハンカチを握り、優しく微笑む。
それは彼女にとって、今までで最も柔らかい笑顔だった。
「これからも、沢山呼んでください」
「!」
「私も貴方の名前を、フェイさまを沢山呼びますから」
「あぁ。勿論、呼ぶさ。数え切れない位にな」
フェイも快活に笑う。
それを導くように、薄い白雲に遮られていた陽の光が二人に降り注いだ。
●
リディアとフェイの婚約は正式に結ばれた。
一時はどうなるかと思われていたが、双方の両親もとても喜んでいた。
ちなみにハーヴィート夫妻は、フェイの言い分をしっかりと聞き入れたのか、貴方に何かを強要することはないから安心してほしいとリディアに告げた。
彼女はその言葉に感謝した。
見かけによらずと聞いていたが、彼らもただ必死だったのだろう。
そして貴族学院での生活に戻っていく。
婚約という状況ではあるが、大きな変化はない。
学院を卒業するまでは一生徒として、知識と教養を身に着けていく。
ただ何もしない訳でもない。
何食わぬ顔でリディアは学院に舞い戻るが、足取りはいつもより軽い。
するとやはりと言うべきか、学院内の廊下を歩いていると、例の令息達の声が聞こえてきた。
「おい、見ろよ。アイツ……」
「壁の花じゃないか」
「お前、声掛けてこいって……」
「いや……でも、何だか雰囲気が違うような……」
周りは変わっていない。
冴えない令嬢というレッテルを無理矢理張ってこようとする。
今までなら聞かないふりをして通り過ぎていただろう。
けれどリディアは初めて、彼らに向かって歩み出した。
令息達はまさかこちらにやって来るとは思わず、不意を突かれたようだ。
「……あの、もう止めませんか」
「何だって……?」
「私の至らなさは私自身が理解しています。けれど、それを無暗にあげつらうのは、お互いのためにならないと思います」
「なっ!?」
「こんな気晴らしをして、本当に満足ですか?」
「っ! 壁の花の分際で偉そうに……!」
更に図星を突かれたようだ。
彼らは目を吊り上げてリディアに暴言を重ねようとする。
正論を言われたからこそ、引っ込みが付かずに乱暴な言葉で返すことしかできないのだ。
彼女もそれが分かっているから引き下がらない。
気丈に対峙する。
しかしそこへ割って入る人物が現れた。
「何をしている?」
リディアも驚いて視線を移すと、そこにはフェイがいた。
騒ぎを聞きつけたのだろうか。
彼の姿を見て、皆が一斉に狼狽えだす。
「あ、貴方はまさか、ハーヴィート侯爵家の!?」
「隣国へ留学中だったはずじゃ……!?」
驚くのも無理はない。
フェイは学院入学と同時に両親の意向で他国へ留学し、休学状態となっていた。
実際、リディアも詳しい事情は知らなかった。
しかし彼は優秀だったので通常よりも早く留学を終わらせてしまった訳だ。
そして今日は学院で再登校の手続きをしていたはず。
彼のいない間に終わらせようと思っていたリディアだったが、そんな考えすら読んでいたのかもしれない。
リディアを庇うように、彼は凄みのある表情で彼らに近づいた。
「お前達か、今まで散々リディアを可愛がっていたというのは」
「え……い、いや……」
「どういうつもりだ?」
「そ、それは……」
ここにいるのは子爵や男爵の令息ばかりで、相手は格上の侯爵令息。
加えて自分達に非があることは分かっていたので、言い訳もできない。
彼らの視線が次第に下がっていくのを見て、フェイは静かに続ける。
「残念だな。こんな下らないことで信頼を失うというのは」
「待って下さい! 私達はただ……!」
「猶予は与えた。俺の婚約者に対して、今までの行いを謝罪するのであれば見逃していたさ。だというのに、お前達はその温情すらふいにした」
「こ、婚約者!?」
令息達は驚く。
それもそうだろう。
リディアたちの婚約は、つい先日決まったばかり。
彼らにとっては寝耳に水だったのだ。
そして侯爵家のお相手を侮辱してしまった事実に気付き、全員が青ざめていく。
「お前達の言い分を聞く価値はない」
「そんな……」
「失せろ。二度とリディアに近づくな」
氷のように冷たい言葉を前に、彼らは一目散に逃げていく。
侯爵家の跡取りから直接宣告されたのだ。
最早、近づこうとはしないだろう。
しかしこんな形で決着がつくとは思わなかった。
情けなく去っていく彼らの後ろ姿を見送ると、フェイがやれやれと溜息をついた。
「あれが話に聞いていた連中か」
「あ、ありがとうございます。本当は私一人で済ませるつもりだったのですが……」
「これ位なら力を貸すし、気にするなよ。それにアイツらには、リディアの魅力は一生分からないさ」
「私の……?」
自分の魅力と言われて思わず聞き返すと、彼は小さく頷いた。
「人と人との関わり合いで一番大切なのは考え方だ。外面だって重要ではあるけど、本も表紙だけじゃ中身は分からない。読んで始めて理解できるものだってあるはずだ」
「た、確かに。今の言葉はしっくりきました」
「はは。奴らはそこの所が分かっていないんだ。それに……」
一旦言葉を区切り、彼はリディアの手を取る。
体温だけではない、確かな温かさが伝わってくる。
「あの時、リディアは俺の手を引いた。その健気さに、俺は惹かれたんだよ」
フェイの言葉がリディアの胸の内に響き、鼓動を早める。
以前、二人は同じように迷っていた。
自分の意志が分からないまま、何をすべきなのかも漠然としていた。
そしてあの時、彼女達は僅かながらに思いを共有した。
気晴らしとは共有し、共感すること。
二人は自覚していなかったが、気晴らしという意味では既に目的を果たしていたのだ。
そしてその感覚は、無自覚に心を動かしていく。
「何だか少し変わりました……?」
「そうさせたのはリディアだろ。だから責任も取ってもらう」
「えっ」
「これからはリディアのために生きてみようと思う。それが何もなかった、今の俺の本心だ」
フェイは変わりかけていた。
荒い言葉遣いと飛び出すこと以外に心を表現できなかった彼は、リディアという心の通い合った婚約者を得て、ようやく動き出したのだ。
きっとそれは悪いことではない。
それでもリディアは首を振った。
「それは、駄目です」
フェイは意表を突かれたような顔をする。
そう、与えられるだけでは駄目なのだ。
彼女はその手を握り返す。
「私だって手を引かれたんです。だから二人で進んでいきましょう。これからも、二人で一緒に」
与えられるだけでは、ついつい甘えてしまう。
だがそれだけでは、本当に心が通い合っているとは言えない。
必要なのは互いに理解し合うこと。
歩み寄って初めて、見えてこなかったものが見えてくる。
それが自分として、婚約者としてあるべき姿なのだと告げた。
すると彼は何を思ったのか。
握られていた手を引くと、おもむろにリディアを抱き締めた。
「そうだな。だからもう、絶対に手放さない」
「ふ、フェイさま!?」
「あぁそれと、様付けは必要ない。今更そんな呼び方もおかしな話だろう?」
そう言って、優しく抱き止められる。
何だか更に愛情が増した気がした。
慌てるリディアだったが、既に通り掛かった生徒たちが物珍しそうに見ている。
最早、手遅れか。
そう思いながらも彼女は笑みを浮かべた。
こんな自分にできることなんてないと思っていた。
けれど、それは違った。
たった少しの気晴らし、ほんのちょっぴりの思いを分かち合うだけでも支えられるし、誰かの支えになれる。
人と人との繋がりとは、そういうものなのだろう。
だからこそ自分を愛してくれる人の、その思いに応えていこうと彼女は決心するのだった。
その後、学院での学びを終えたフェイはハーヴィート家の当主を引き継いだ。
両家と協力関係を結び、自らの領土だけでなく、ホスキンス家の領土も国内で有数の都市になるまで発展させていく。
それは彼が皆の意見をしっかりと聞き、共感し、実現しようとする意志を持っていたからだろう。
しかし成果は彼だけのものではない。
隣には、考えを共有し分かち合うリディアの姿があった。
彼女はその中で多くの経験と自信を得て、今まで隠れていた才覚を発揮していった。
それ故に今では、ハーヴィート家の目覚ましい上進には、凄腕の妻の助力があったからだと囁かれている。
加えてそんな二人の姿はとても仲睦まじく、微笑ましいものだったという。