あれは、あなたの
「落としましたよ」
最初は、呼び止められたと気付かなかった。そのまま二、三歩ばかり階段を昇ってしまってから、ようやく投げかけられた言葉の意味が頭に染み込んできた。慌てて足を止め、振り返る。
「落ちましたよ、あなたの」
後ろからやってきた男は、不自然にかすれた声でそう告げる。そして、返事を待たず足早にわたしを追い越して階段を昇っていった。顔を合わせたのは一瞬だったが、鶏がらのように痩せこけた頬、むくんだ下瞼の翳りは妙に目に残った。
男が指さしていった足元に目を落とす。階段の段鼻に引っかかるようにして、弛緩したように横たわる小動物の死骸――と見えたのは錯覚で、掌大のタオル地の縫いぐるみだった。
赤ん坊がベビーベッドの中でもてあそぶような、小さな綿の塊。けれど、不潔な床に落とされて久しいのか、繊維は灰色にくすみ、見るからに汚らしい。
ウサギなのかクマなのか、頭部にでろりと垂れ下がった耳は片方がちぎれてどこにも見当たらない。ぼってりとした腹は、生地が薄くなったのか乱暴に扱われたのか、真っ二つに裂けて黄ばんだ綿が臓物のようにはみ出していた。寒々しいほどに古ぼけた見かけのなかで、目の場所に縫い付けられた二つの真っ黒なボタンだけが褪色しておらず、それもまた言いようのないほど気味が悪い。お世辞にも触れたり抱いたりしたいような代物ではなかった。
「……わたしのじゃありません」
とっさにそう言ったが、そのとき、階下のプラットホームに轟音をたてて電車が滑り込んできた。足元の階段は小刻みに揺れ、電車の巻き起こす突風が足元から吹き上がってくる。階段の上からどやどやと高校生の集団が駆け降りてきて、男の後ろ姿はまぎれてしまった。
乗車を急ぐ高校生たちの勢いに押しのけられるようにして、わたしは脇の手すりまで後退せざるを得なかった。そして、止める間もなく、無数のローファーが次々と縫いぐるみを踏みにじっていくのを見た――と思った。
怒濤のような群れが行き過ぎた後、そこに縫いぐるみはなかった。
忘れた頃に、また現れた。出現した、としか言いようがない。
同じ駅で、わたしは降車するところだった。
夜も遅い時間帯だった。ブレーキが掛かり、レールを軋ませながら電車が完全に停車すると、座席の背もたれに沈み込んだ上体もそれに合わせて揺れる。車内は混み合ってはいなかったが、下車するために扉の前に列とも呼べないまばらな列を作るだけの人数はあった。扉が開いてから席を立ったので、その最後尾につく形になる。疲れきった足を引きずりながら、前を行く人に続いてホームに降り立った瞬間、わたしは凍り付いたように動けなくなった。
ホームに接した車両と点字ブロックの間に、それはうつ伏せに転がっていた。ちぎれた片耳。腹の下からはみ出した綿。顔はのっぺりと地面に密着しているから、二つの黒いボタンは今は見えない。どこもかしこも鼠色に汚れてけばだっているが、何か液体をこぼしたとおぼしい赤黒いしみが、背中から尻尾にかけてべたべたとこびりついていた。
「車両から離れてください!」
窓から身を乗り出した車掌に怒鳴るように注意され、その場に立ち尽くしていたわたしはつんのめるようにしてホームの内側まで走った。電車は発車し、線路の向こうの暗闇に吸い込まれていった。立ち止まってから唾を呑み、恐る恐る振り返る。
縫いぐるみは消えていた。
現れては、消える。それを繰り返した。
思いも寄らないときに、思いも寄らない場所に落ちている。
ホームのベンチに腰掛けたとき、いつの間にか隣の席に転がっていることもあったし、定期券を取り出しながら何気なく目を上げると、頭上の電光掲示板にぶら下がっていることもあった。かと思えば、電車待ちをしているとき、レールの枕木の上に引っくり返っていたこともあったし、駅舎に入るやいなや、改札手前の展示ケースに飾られた生け花の花器にもたれかかっていることもあった。
こうなってくると、もはや偶然とは言いがたい。誰かの趣味の悪いいたずらならどれほど良かったか。いつも、わたしが視界に入れ、目をそらして次に見たときには跡形もなく消えている。
おかしな縫いぐるみと遭遇したくなくて、駅を替えてみたことがあった。一駅分歩くのは大変だったが、ウォーキングだとでも思えばいいと自分に言い聞かせた。それであの気味の悪い縫いぐるみを見ずに済むなら安いものだ。あの縫いぐるみが落ちているのは、家の最寄りの駅の構内と決まっていたから――息を切らして隣の駅まで辿り着き、改札を抜けようとしたとき、悲鳴を上げそうになった。改札機の上に、待ち受けていたかのようにあの縫いぐるみが張りついていた。
こんなことは誰にも相談できない。正気を疑われるのがおちだ。それとも、本当にわたしの頭がおかしくなってしまったのだろうか。まとまらない思考で、ぐるぐると考え続けるしかない。
縫いぐるみは、わたしに拾ってほしいのだろうか。拾って、洗剤で洗って、乾かして、元のきれいな姿に戻してほしいのだろうか。抱きしめて慈しんでほしいのだろうか。それとも、神社か寺院まで運んで供養してほしいのか。
どちらにしろ、そうするには一度手で触って拾い上げなければならない。でも、そんなことをしたら、もう取り返しのつかないことになるような予感がする。拾わないでいるから、まだこの距離にとどまっているのだという予感が。拾ってしまったら、わたしの所有になってしまう。そうしたら、あれは本格的に取り憑いてくるのではないだろうか、今よりも酷く……
どうしてこんなことになったのだろう。
縫いぐるみが現れるようになってからというもの、ろくに眠れていない。乾いた目をしばたたく。眠ると、夢のなかでもあれが落ちているような気がして恐ろしい。睡眠不足で注意力散漫になっているせいか、あちこちぶつけたり擦り剥いたり、小さな怪我が増えた。今はまだこの程度で済んでいるが、このままだとじきに大きな事故に繋がるだろう。この間など、横断歩道を渡ろうとして、後ろを歩いていた同僚にすんでのところで助けられた。車が迫り来る赤信号をゆらゆらした足取りで渡ろうとしていたという。限界だ。心底そう思う。
駅に行きたくない。駅に行けば、あの縫いぐるみが落ちている。電車を使わない通勤方法はいくつか考えられるし、会社の徒歩圏内に引っ越すという手もある。でも、そんな財布の余裕はないし、さらなる懸念もある。
最寄りの駅を避けたとき、あれは別の駅に出現した。逃げても追いかけてくる。わたしが駅そのものを使わなくなったら、あれは今度は駅以外の別の場所にやってくるのではないか。
もしも、わたしの部屋にあれが落ちているようになったら、もう正気を保てない。洗濯物を干そうと窓を開けたとき、ベランダにあれが横たわっていたら。夜中に目を覚ましたとき、あれがわたしのベッドの上にいたら。恐ろしい想像に神経を磨り減らしながら、辛うじて生活している。どんなに気が滅入ろうと、ずっと引きこもっているわけにもいかない。今日は現れませんように――毎朝祈りながら、家を出る。
今日は、祈りが届かない日だった。行きは大丈夫だったのに、帰りに出くわしてしまった。最初に遭遇した駅の階段で、またあの縫いぐるみが転がっているのを目にしたとき、わたしは麻痺したようにその場を一歩も動けなくなった。恐怖すらももはや感じない。塗り潰されたように頭が働かなくなっている。
どうしても拾わなくてはいけないのだろうか。拾ってはいけない、触ってはいけない、絶対に関わってはいけない、という警告音が脳裏に鳴り響いて辛うじてわたしを押しとどめる。が、忌避感が頭をもたげるのと同時に、早く楽になりたい、とどめを刺してくれと心のどこかで願ってもいる。
階段の途中で棒のように突っ立っているわたしを、後ろから昇ってきた女がパンプスのかかとを小気味よく鳴らしながら追い越していった。通りすがりに、眼鏡の奥からちらりと不思議そうな目を向けるのが分かった。そこで、わたしは気付いたのだった。ようやく気付いた。
小学生の頃、休み時間によく校庭で鬼ごっこをした。たわいない遊びだ。鬼になった子どもが、逃げているほかの子どもを捕まえれば、入れ替わりに今度はその子が鬼になる。
簡単なことだった。この上もなく。
持っていたくないなら、渡してしまえばいいのだ。
「大変! 落としましたよ」
わたしはわざとらしく声を張り上げる。なるべく明るい声を出そうとしたのに、喉からほとばしったのは絞められる鶏の悲鳴に似ていた。
「落ちましたよ、あなたの。あなたのものが」
ぎょっとしたように彼女は足を止め、振り返る。