唇亡びば歯寒し(4)
「智伯様」
再び戻ってきた智過は、苛立っていた。
「また来たのか」
「えぇ、韓氏と魏氏のもとへ行って参りました。」
「これ以上ことを荒立てるなと言ったはずだが」
「僭越ながら、私はどうも自分の考えが間違っているようには思えないのです。私が行ったところ、二人は動揺して、話もしどろもどろ。
必ず、あなたに背くことでしょう。
ですから、今のうちに彼らを殺す方が得策かと。」
智伯は、眉間に皺を寄せた。明らかに不愉快なようだ。
(もし、韓氏と魏氏が裏切ってしまったら……。私の苦労が水の泡となってしまうのはもちろん残念だが、智伯様の3年も無駄となるかもしれない。どうして分からない。)
「軍を晋陽に配置してからもう三年もたった。もう少しで趙を倒せるところまできたのだ。裏切ろうなどとは毛頭考えまい。お前はもう二度とそのようなことを言うな。次はない。」
智過は融通のきかない、安直な主君に苛立ちながらも怒りは見せなかった。
「…殺さないのならば、韓・魏両氏と親しくして下さい。」
「お前がそこまで言うなら、…そうすることにしよう。しかし、どうやって親しくなるのだ?」
「簡単なことです。本当に親しくする必要はございません。魏宣子の謀臣は趙葭と言い、韓康子の謀臣を段規と言います。彼らと約束なさればよいのです。」
「なんと約束する?」
「趙を破ったときには、その地を分け与えると約束なされば良いのではないでしょうか。」
智伯は、今まで飲んでいた茶の湯呑みを床に投げ捨てた。
「それはできない。趙の地を分け与えてしまったのなら、それはすなわち私の取り分が減るということだ。」
(呆れた……。毛頭、裏切られてしまうということなど考えもしない。その対策もしない。自分の欲ばかりに囚われ、肝心なことを見落としている……こんな愚かな男に……私は……)
智過は、今まで智伯を信じて着いてきた自分を残念に思った。智伯が投げて割ってしまった湯呑みのように、もう二度と元の姿に戻ることはできないのだ。
「智伯様……、私は、智伯様を信じておりました。」
そう言い残して、智過は天幕を去った。
その後、智過は苗字を捨て、輔氏と名乗ることにした。そして、智伯の元に戻ることはなかった。
ありがとうございました!