第一話 ラーメン屋
5月30日の朝。
加護兼年は、16国道号線の側にある、一軒のラーメン屋に来ていた。
時間は……多分午前11時より前。スマホの充電が切れて正確な時間は確認できないが、ラーメン屋のおばちゃんが店の中で仕込みをしているので、11時の開店まであと少しだ。
昨夜、森の中で自殺を決めた自分が何故ここにいるのか。
自分でもよくわからない。もう二度と陽の目を見るはず無かったはずなのに、今はガードレールに寄りかかり車の行き来を眺めている。
昨夜のことをぼんやり思い返す。
漫画家と名乗る男、千代田の電話を切った後、僕は自殺をすることができなかった。
あの森は僕が唯一、世間から離れられる浮世の世界のはずだ。なのに、あの電話一本で僕は浮世から現実世界に引きずり戻されて、ここにいる。
我ながら意思が弱い。今になって死ぬのが怖くなるなんて……。
自殺を決行することができずに朝まで森にいた僕は、いつの間にか眠っていたようで、スマホの着信音で目が覚めた。
ほぼ反射的に電話を取る。
「もしもし」
『お、まだ繋がってら。お前、昨日の夜に電話してきた男だよな?」
「ええ、何か用ですか」
『別に用があるってわけでもないけど。電話があった日の翌日は、もう一度かけるようにしてるだけ』
「生存確認ですか?」
『まあな。お前ら自殺志望者がこの世に未練を残さず死ぬとしてもさ、電話を取った俺が気を取られちゃ世話無いだろ』
だから電話かけたんだ、と千代田は言う。
「じゃあ用が無いなら切りますよ」
『あ、いやちょっと待って』
「……なんですか」
『お前、今どこにいる?』
突然場所を聞かれて戸惑った。
「……も、森です」
『どこの森?というかそこ何県?』
「千葉県です」
『千葉県って自殺名所あるの?』
「そんなことどうでもいいでしょう。何で場所なんて聞いたんですか」
『近くに410号線が通ってる?』
「…なんでそれを」
『前にもそこらへんで自殺するって電話してきたやつがいたから。そいつは千葉県民だった』
「で、結局何が言いたいんですか?まさかここまで来るなんて言わないでしょうね」
『行かねえよ。お前がこっち来るんだ』
……はあ?この人は一体何を言ってるんだ?
『一回死に底なったら、次やる気力が出るまで時間かかるだろ。だったら一回こっちに来いよ。上手いラーメン屋知ってるんだ』
「ちょ、なんでそうなるんですか。確かに僕は昨夜できなかったですけど、今からだって……」
『できるのか?』
口を噤んで、考えてみる。
「……無理です」
『だよな。じゃあこっち来いよ。16号線沿いにあるラーメン屋。博多とんこつラーメンの店があるから、そこで待ち合わせな』
千代田はそう言って勝手に電話を切った。
なんというか、腹痛みたいな男だな。勝手に人の領域にずかずか入り込んできて、波のように引いては押し寄せる感じが、腹痛のそれに似ている。
それから数分悩んだのち、僕は荷物をまとめて森からでた。睡眠薬は置いていこうかと思ったけど、やっぱり一緒に持っていくことにした。
そして現在。
一台のグレーの車が駐車場に入ってくる。車を止めて出てきたのは痩身の若い男だった。
「よう、お前が自殺志望男?」
「……あなたは漫画家の」
「千代田な。そういやお前、名前なんだっけ?」
「……僕は加護と言います」
「加護ね、よろしく」
千代田はそう言って笑った。屈託の無い笑顔。人生どん底の人間を前にして出せる表情じゃない。
ちょうど店が開く時間になったのか、店のおばちゃんが外に出てきて「準備中」の札を「営業中」に返した。
2人で店の中に入る。当然の如く一番乗り。
「お前、金持ってるか?」
「……ええ、ラーメン一杯くらいなら」
自販機で食券を買って席に着く。残金150円。
「……それで、何故ここに?」
「何故って電話で言っただろ。ここのラーメンおいしいから」
「そうじゃなくて、何故僕をわざわざ車で数時間の場所に呼びつけたんですか」
「ええ……そこ重要?」
重要だよ!お前が何をしたいのか全くわからないからこっちはイライラしてるんだよ!
僕が睨みつけると、千代田は「まあ、それはラーメン食べた後に教えるからさ」と宥めてきた。
その直後にラーメンが出てくる。
細身の面に白いスープ。豚骨ラーメン特有の臭みは無く、香ばしい匂いが鼻を通る。何てタイミングだ。
死に切った精神をくすぐるこの匂いに耐えられず、僕は割りばしを手に取った。
隣にいる千代田も割りばしを割って食べ始める。
お前、割りばし割るの下手くそだな。