海に還る
海の向こう側からわっと波が押し寄せてくる。波は浅瀬に近づくごとに勢いを減衰していき、岸に着いた時、手をぎりぎりまで伸ばすみたいに広がっていく。海の水が私の立っているぎりぎりのところを濡らした。
私はしばらく、波の運動を眺めていたけれど、やがて前にすすんで海の中へと入っていった。胸のところまで海水につかると、私はクロールで泳ぎ始めた。海の水が口に入った。口の中が塩辛くなって、海のにおいが口から鼻にまで広がっていった。
それから体のだるくなるまで泳ぎ終わった私は、海から上がるとシャワーを浴びにいった。そしてロッカーからスマホを取り出した。時間を見ると、午後三時を少し過ぎたところだった。旅館にチェックインすることのできる時間だった。私は水着から私服に着替えた。
私は海のすぐそばにある旅館まで歩いて行った。
私は旅館に足を踏み入れた。それから受付のためにやってきた女性の顔は見覚えのある者だった。私はその顔立ちのあまりに似ていることに驚愕した。彼女の細い目、右の頬骨のあたりにあるほくろ。そんなところまでそっくりなことに私は驚いた。
「どうかなさいましたか?」
女性が発したその声まで、私には懐かし気な響きを感じた。同時に、私が長い間言葉を発しないでいたことを思い出した。
「あ、その、川原という名前で予約をしているものですが」
「川原様ですね、少々お待ちください」
女性は受付のカウンターのところに行って、書類を確認し始めた。その間、私は改めてこの他人の空似に対する、驚きの余韻を感じていた。
彼女はとても良く似ていた。けれども彼女本人であるはずがなかった。なぜなら彼女は中学二年生のころ、すでに死んでいるのだから。
「川原、芳樹様ですね」
「はい」
「お部屋へご案内します」
私は女性についていった。
私は岡本千佳と同じ学校に通う、同級生であった。けれども知り合ったのは学校の外で会った。もし学校の中で知り合っていたなら、私と千佳は知り合ったとしても、まったく別の関係になっていたかもしれない。
私が千佳と初めて知り合った時、千佳は段ボール箱に入っている捨て犬の前にしゃがんでいた。私は下校する途中で、千佳のいるところを通りかかった。
私はその情景を見たことで、その女の子が捨て犬を飼うかどうかを迷っているところなのだろうと理解した。
私は女の子の様子が気になって、ちらちらと様子を見ていた。女の子の様子から察するところでは、飼うことはなさそうだという気がした。それというのも、いつまでも犬を抱き上げることなく、ただ見ているだけだったからだ。
私は女の子が立ち去るのかどうか、その行く末が気になって仕方なかった。できることなら、拾ってほしかった。私はその時、少女が捨て犬を前にして立ち去る姿を見たくなかったのである。それはあまりに寂しい出来事のように思われた。
「ごめんね」
少女が言った。
その言葉が私の胸に急激に作用した。私は急に、この女の子と、捨て犬が哀れになった。女の子が捨て犬を目の前にしながら、たいした未練もなく立ち去ったのならばこんな気持ちは起こらなかったかもしれない。ただ、女の子は涙を流していた。また捨てられていた犬がこちらに視線を向けなければ私は素通りしていたのかもしれない。しかしその犬が私のことを見ていた。私はこの犬の視線を無視するわけにはいかなかった。
「どうしたんですか?」
「え?」
「その犬を飼ってくれる人を、探しているんですか?」
「えっと、飼おうと思ったんですけど、うち、飼えなくて」
「よければ、僕が飼いましょうか?」
「いいんですか?」
よくはなかった。いきなり捨て犬など連れてくれば、まず間違いなく親は騒ぐはずだった。しかし声をかけておきながら、親が怖くて飼えないとも言うつもりはなかった。
僕は段ボールを捨て犬ごと持ち上げた。
「ありがとうございます」
「いいですよ、お礼なんか」
「いいえ。おかげでその子がもう寂しい思いをしなくて済むと思うと、お礼を言わないわけには」
「いいえ、気にしないでください」
「あの、ところで」
「何ですか?」
「時々、その子の様子を見に行ってもいいですか?あの、やっぱりその子のこと、気に入っちゃって。飼えなくてどうしようかと思ったんですけど」
「ええ、いいですよ」
それ以来、私と千佳はたびたび会うようになった。
私は部屋でテレビを見て、時間をつぶしていた。そうしていると、ふすまの向こう側から、「失礼します」と声が聞こえた。そして入ってきたのは、受付で出会った、千佳そっくりの女性だった。
「お料理をお持ちいたしました」
女性は料理を机に並べていった。その姿を見て私は千佳があのまま大人になっていて、旅館で働いていたらこんな風になっていたのだろうということを思い浮かべた。
唐突に私の頭にこの女性は岡本千佳の親戚か何かなのではなかろうか、という思いが浮かんできた。親戚にしても似すぎている気がしないでもないが、しかしそうでもなければ今目の前にある出来事を説明することはできなかった。
「私の顔がどうかしましたか?」
「ああ、すいません。つい。昔の知り合いによく似ていたもので」
「昔の知り合いって、岡本千佳に似ていると思うのですか?」
「え?」
「ちゃんと覚えていてくれたのね、私のことを」
「忘れるわけがない、ですよ?」
私はこの時すっかり戸惑っていた。どうして目の前の女性が岡本千佳のことを知っているのか。そしてどうして僕が岡本千佳のことを言っているとわかったのか。どうして私に向かって敬語を使うのをやめたのか。この人と私は知り合いだったか。一度にいろいろなことが起こったために、私は何を言い出すべきなのかわからなかった。
「あなたに話したいことがあるの。けれど人には聞かれたくない話だから、夜の十二時、海辺に来てくれる?そこで待ってるから」
「いや、ちょっと」
女性はそれ以上何も言わずに出て行ってしまった。よほど追いかけようかと思ったが、女性がこれ以上話してくれないだろうと思ってやめた。
岡本千佳と出会ってから、彼女は本当に私の家にやってくるようになった。女子が男子の家にやってくるというのは勇気がいるものだと思う。それでも来たのは、よほど犬が好きだったから、ということだったのかもしれない。
私たちは初めはぎこちない雰囲気の中で出会っていた。しかし回数を重ねるごとに打ち解け、楽しく時間を過ごすことができるようになった。
私は彼女のことを知らなかった。だからこそ、初めは心の底から打ち解けて話すことができた。
私が彼女のことを知ったのは私の机の上にごみがぶちまけられたころのことだった。その時、わたしはありていに言えば、いじめに遭ったのである。
私がいじめられた原因は、千佳だった。千佳と親しくしていたために私はいじめられたのである。初め、私にはその意味が分からなかった。けれども僕なりに探っていくうちに僕は千佳が学校でどういう扱いを受けていたのかを知ることができた。
千佳にはよくないうわさがあった。それは常習的に万引きをしていたというものであった。もっとも、僕が事の真偽を確かめる機会はとうとう来なかった。僕には、そのことを千佳本人に確かめる度胸がなかったのである。また千佳本人も、そのことは僕には話さなかった。僕はそれでよかったと思う。
僕がいじめられるようになってから千佳の元気もなくなっていった。僕と千佳は学校で話こそしないものの、互いの様子を見ることはあった。そのため、千佳は僕がいじめられていることを知っているのだと思った。
「私は何のために生きていると思う?」
千佳はある時、こんなことを言いだした。
「え?」
「私ってさ、生きるだけで誰にも何もしてあげられないし、それどころか人に迷惑をかけてさえいるの。そのうえ、大変な思いまでして生きる意味って、あるのかな?」
僕はこの時、彼女が死ぬのではないかと思った。ここで何かを言わなければ彼女はそのまま死ぬと思った。僕は彼女がこのように追い詰められ、そして死んでしまうのが嫌だった。
「君は生きなきゃだめだよ、この子のために」
僕はそういって、コータローと名前を付けた犬のことを言った。
「それなら大丈夫。あなたがいるもの」
それに対して彼女はそう言ったきりだった。
この時、僕は自分の答えを悔やんだ。それも強く。僕はあの時、本当は「僕のために君には生きてほしい」と言いたかったのだ。それなのにどうして犬のことを言ってしまったのか。おかげで彼女は僕がいるから平気、などと言ってしまった。
そのあとだった。彼女が自殺したのは。
夜、僕は海辺にやってきた。夜空には満月が昇っていた。あの女性の姿が満月に照らされていた。
「来てくれたのね」
「話って何ですか?」
「まず、私のことを覚えていてくれてありがとう」
「僕が覚えていたのは岡本千佳のことです」
「それは私よ」
「千佳さんは死にました。あなたのはずがありません」
「そう、確かに死んだわ」
「ではあなたは何だというんです?」
女性は私から目をそらした。そして海を見つめた。
「人は皆海から生まれたの。そして死んだら海へと還っていくの。私もそう。私は海に還っていったの。そして少しの間だけ幸助君に会うために戻ってきた」
千佳は僕の方に向き直った。
「私と一緒に向こうへ行ってくれる?」
千佳は訊いた。
「一つだけ、言いたいことがあるんだ」
「何?」
「君が生きる意味を僕に訊いた時があるだろ。あの時、僕はコータローのために生きるんだって、言ったじゃないか。でも、本当は違ったんだ。僕のために生きてくれって、本当は言いたかったんだ」
「そう。それが訊けてとてもうれしい」
「僕も言えてよかった」
「私と一緒に行く?」
「いや、行かない。僕はこれからもここに残るよ。僕にはまだ、ここでやることがあるんだ」
「そうなの」
「ごめんね、待たせてしまうことになるかもしれないけれど、でも必ず君のいるところへ戻ってくるから。君の言う通りなら、僕も還るんだろ、海へ」
「うん」
「だから待っててくれないか?やることを済ませて、人生を終えたらこっちへ戻ってくる」
「うん、待ってる」
千佳は言った。
僕は千佳の姿をもう一度見た。千佳は中学生の時以来、何も変わっていなかった。顔立ちも何もかも。そこに立っている彼女はあの時と何もかも同じだった。
僕は千佳を抱きしめた。そしてキスした。
僕が彼女と離れると、千佳は海へ歩き出していった。彼女は海へと体を沈めていき、やがて全身が沈んだ。彼女の姿は二度と見えなかった。