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1私の狐  作者: 川本千根
第二部
38/51

ポスティング

涼子と会った翌日、私は直くんが作ってくれたチラシを折ったものが入った紙袋を抱えて家を出た。


密閉のいい玄関の重い扉が後ろでガチャリと閉まる音がする。

駐車場のお父さんの車の横に於いてある自転車のかごに紙袋を入れたとき、少し強めの風が吹いた。


3月に吹く風だから春風なのかもしれない。

でもこの風はどこか遠い雪国から空気が旅して来たような、冷気の塊のような風だった。


うー三月半ばって、まだまだ寒いな…。


私はダウンのコートのファスナーをきっちり上まで上げて電動自転車にまたがった。

この電動自転車は私の唯一の財産だ。


とにかく現金を貯めたかったから、ここ十年かなりミニマムな生活をしてきた。

友達ががおしゃれしたり、美味しいものを食べたり、旅行行ったりして遊んでいた時期に、私はただガツガツ働いて貯金に励んだ。


正直少し疲れている。

そういう生活に。

将来への不安もあるし…


あっ、いかんいかん。

弱気になったら崩れる。

これからが私の正念場なのに。


気持ちを変えるためにちょっと鼻歌を歌おう。


「ふん、ふん、ふ〜ん」


よし、切り替わったゾ、出発出発。

うん、とりあえず今日はあの家の東側を中心ににチラシを配るか。


そう思い私は自転車で幹線道路に出て民家のある住宅街に向かう。

途中バス停でバスを待っているリクルートスーツを来た女の子達を見かける。


彼女たちを横目で見ながら、ふと思う。

私、なんでこんなにがんばっちゃってるのかねぇ?ふつーに大学出てふつーにOLとかになればもっと楽に生きられたのに。

どちらかというとそういうタイプの人間だったのに。

普通を否定しながらも普通に生きるタイプの…


あ?またちょっと後ろ向き。

どうしたんだろう今日は。

きっと疲れが溜まってんだろうな、開店準備の。

で、心が少し弱っちゃってるんだ。


今日は夜のバイトないから、午前だけちらしを配って午後は少し休もう。

そんなこを考えながら自転車を走らせる。




私が店として使用しようと選んだ○○町の民家は国道とそれに並行して走る南の幹線道路との間にあるなんの変哲もない住宅街にあった。


家のある場所から五百メートルほど西に行けば南北に走る道沿いに飲食店やスーパが並ぶ昔からの商店街がある。

小さなスナックなどもそこには混じっている。


家の前の道を少し西に歩き最初の角を南に曲がると五百メートルほど先には街一番の大きなショッピングセンターがある。


近場に人を集める施設があるのに○○町はとても静かな住宅街だった。

小さなコンビニ一つもない。


こんなところで店を開くなんて…と家族には最初大反対された。

けど、今はこの選択はなんかへそ曲がりの繭らしいよね、と納得されている。


へへ、そう、私まあまあのへそ曲がりなのです。


今日は店から東に百メートルほど向かい突き当たった南北の道路沿いを中心にチラシを配ることにした。


ちゃんと歩道のある広い道路を挟んだ両側は住宅地だ。

道の両側にはマンションなどはなく一戸建ての民家が多い。

今日はこの道で数人のおじさんたちがアスファルトの張替え工事をしていて、交互通行の看板が出ていた。


この道を南に行くと幹線道路に突き当たる手前には小学校がある。


小学校の職員室とかに乗り込む勇気は無いから小学校は無視して道の西側の住宅を中心にポスティングさせてもらっていた。


そんな中、体の異変に気づいたのはお昼過ぎたしそろそろ帰ろうと思ってアスファルトの張替えをしている道路に出たときだった。


目がやたら痒くなって、激しいくしゃみが立て続けに出た。

その後鼻水も。


ヤダ、なにこれと思って自転車を降りて歩道に停める。


も、もしやこれが世に言う花粉症デビュー?!

ひいー

いやぁーと思いながらコートのポケットからティッシュを取り出し力いっぱい鼻をかむ。


チーンと大きな音が出た。


そしたら近くの縁石に座っていたおっさんが顔を上げた。

このおっさんは多分さっきこの道のアスファルトの張替え作業をしていた人。


今はお昼休みなんだろう。

見れば歩道に寄せてあるダンプの中や道の向こう側でもおっさんたちが何やら休んでている。


私のそばにいたおっさんは歩道に植わっている若い欅の下、車道と歩道を区切る縁石の上に腰かけてお弁当を食べていた。


私はこのおっさんを見て笑いそうになってしまった。

だって顔が真四角なんだもん。


エラが張りすぎ。


なんて個性的な顔なんだろう。


くさび型の細く小さい目。

チリチリとした髪の毛はオールバックにしている。

だから余計顔の形が目立つ。


手元に持ってる今どき珍しいアルマイトのお弁当箱と同じくらい四角い。


お弁当箱と同じくらい…

そう思った次の瞬間、私はおっさんの持っていたお弁当箱の中のキラキラ光るものに目が吸い寄せらせてしまった。


それは黄金色に輝く稲荷ずしだった。


あ…美味しそう…


稲荷ずしは四個お弁当箱の下半分に詰まっていた。

多分このお弁当箱には八個入っていてすでに四個は食べたあとだろう。


奥さんの愛妻弁当?だよね。

ふふ、やるじゃんおっさん。

こんな美味しそうな稲荷ずし作って貰えるなんて。


それにしてもほんとにこの稲荷ずし、おいし…そう…


ぽたり


何かのしずくが歩道に落ちて小さな丸い模様を作った。

次の瞬間、おっさんが弁当箱を私に向かってぬっと差し出してきた。


え…なに?


やだっ!誤解しないで!コレよだれじゃないからっ。

鼻水落ちただけだからっ!!


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